kouheiのへそ曲がり日記

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忘れる――時の流れとともに

2005-05-31 07:29:00 | 日記
古代インドのバラモン教の経典「ブラーフマナ」にみえる話。

人間の第一号、ヤマとヤミーという夫婦がいた。
この宇宙に「夜」というものがなかったある日、ヤマが死んでしまった。
妻であるヤミーは、心の底から悲しんだ。

「今日、ヤマが死んでしまった」・・・と。

その嘆きぶりは凄惨で、ヤミーは次第に憔悴していった。
それを見かねた神様たちは、一所懸命にヤミーをなだめるのであったが、ヤミーの嘆きは収まらない。

「今日、ヤマが死んでしまった」と、ヤミーは泣き続けるのであった。

そこで神々は相談し、この世に「夜」というものを作り出した。
するとヤミーは、「昨日、ヤマが死んだ」、「一昨日、ヤマが死んだ」とだんだん生気を取り戻していき、ついには数ヵ月後、悲しみを乗り越えたのであった。

苦しみは、時がいつか必ず癒してくれる。
だが、無理に忘れようとしてはいけない。
そうすると、かえって苦しみを忘れられなくなる。
自然に、自然に、時の流れに身を任すのが良いのである。
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ビュリダンのロバ

2005-05-30 12:16:00 | 日記
あるところに一頭の飢えたロバがいた。
意地の悪い飼育員が、同質・同量の餌の山ふたつを、間隔をあけてつくった。

ロバは喜び、まず左の餌の山に向かった。
ところが口をつけようとした瞬間、「右の方がおいしそうだな」という気を起こし、右の餌の山の方に近寄った。
そして食べようとした瞬間、またまた「やはり左の方が・・・」と思い、またまた左の餌の山に歩みを進めた。

そして結局ロバは、ふたつの餌の山の中間地点で餓死したという・・・。

我々はこのロバを嘲うことが出来るだろうか?
我々は毎日毎日二者択一を迫られて生きている。
そして迷いの日々を生きている。

少慾知足の精神で生きておれば迷わずともいいことを、迷いながら生きているのが我々の実情であろう。
右か左か迷うのは、くだらない妄想をするからである。
「たら、れば」と思い悩む我々の日々・・・。

禅の言葉に「莫妄想(まくもうぞう)」という言葉がある。
これは一言で言えば、「くだらない妄想をするな!」ということである。
くだらない妄想をしなければ、思い悩むこともなくなる。
あっさりと諦めてしまえば、どれほど身軽に生きられようか。

二者択一に思い悩んだら、仏にすべてお任せして、あっさりと決断すればいいのである。
それで失敗したとしても、それは仏様の御意向なんだから仕方ないさ、と割り切ってしまえば良いのである(笑)
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レッテルを剥す

2005-05-29 07:02:00 | 日記
母と妻が溺れている。
あなたは、どちらを先に救おうとするだろうか?

儒学者は、親孝行が最上の徳であるから、母を先に救うと言う(日本の江戸時代の儒教では、君主への忠がいちばんの徳とされているが、これは幕府によって歪められた儒教と言えよう)。

これに対しキリスト教徒は、神は最初に夫婦を造られたのだから、妻を先に救うべきだと言う。

すると無宗教の人がこれを聞いて、「いい女房だったら救うけれど、良くない女房だったらほっとくさ」と言ったという。

いつまで経っても侃々諤々で百論続出、いっこうに埒が明かない。
そこである人が禅僧に「あんたはどうなんだ?」と訊ねたところ、その坊さんは「わしか?わしは近くにいる方から助けるぞ」と言ったという。

つまり仏教では、「母」であるとか「妻」だとかいうレッテルを剥がして、平等な人間としてだけ見、最も合理的なやり方で救うのが正しいとされるのである。

一切は空、合掌。
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天国泥棒

2005-05-28 06:29:00 | 日記
天国泥棒――この言葉は、日本のカトリック教会でのみ使われている言葉らしい。
要するに、信者でも何でもなかった人が死の数ヶ月前にあわただしく洗礼を受け、まんまと天国行きの権利をかっさらっていくことである。

若い頃からの熱心な信者には複雑な心境をもたらすものであろう。
何十年にも亘って、毎週日曜日に教会に出かける。
たまには休みたい日もあったろう。
だが、己を叱咤激励しつつ、良き信者としての本分を貫き通してきた真面目な人々、彼らが軽侮の意味合いを込め、「天国泥棒」という言葉を発するのも、分からぬわけではない。

だが宗教的に言うならば、信心の目的は天国に行くことではない。
神を信ずること、それ自体が救済であり、「御利益」なのである。

日本人には宗教音痴が多く、「病気が治る」・「金が儲かる」・「人間関係が上手くいく」・「天国に行ける」等々の御利益を目的に信心するのだと考えている人が多い。
しかし宗教の真の「御利益」とは、「信ずることが出来た」時点ですでに完遂されているのである。

神仏を「信ずることが出来た」時点で、彼・彼女は「救われて」いるのである。
「信ずることが出来る」ことそれ自体が有難い「御利益」なのである。
熱心な日本のカトリック信者の皆さん、「天国泥棒」など放っておきましょう、彼らはわずかの時間しか救われなかった気の毒な人たちなのだから(笑)
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心の中の姦淫

2005-05-27 10:00:00 | 日記
僕は22歳のとき、母校である高校へ教育実習に赴いたのであるが、そのときの指導教官(倫理・社会の教師)はクリスチャン(プロテスタント)だった。
彼は性的欲望というものを、心の底から憎んでいた。

ははは(笑)、そう、典型的ジャパニーズ・クリスチャン、つまり宗教音痴である。

たしかにイエスは、女を見て心の中で姦淫するくらいなら眼を抉り出せ、と言われた。
だがそれは、性的欲望が悪魔の意識であり、徹底的に殲滅しなければならないものだからではない。
イエスがこう言ったのは、実はユダヤ教を批判するためだったのだ。

ユダヤの律法でも、姦淫は禁止されている。
しかしそれは、ただ行為として姦淫しなければ良いというものである。
周知のように、ユダヤ教は選民思想に基づくものである。
イエスは、この選民思想を嘲ったのである。

お前たちはたしかに姦淫しないが、心の中はどうだ?
心の中では、女を見て色気を起こしているのじゃないか?
起こしているだろう、そのどこが選民なのだ?・・・と。

それではクリスチャンは心の中で姦淫を絶対に犯さないのか?
・・・そんなわけはない、
キリスト教徒だろうと何だろうと、心の中でさえ姦淫を犯さない者などいるはずはない、
だから我々人間は弱いものであり、決して上等な存在ではないのだ、
そのことを自覚してこそ、本当の信仰が始まるのだ、ということをイエスは言いたかったのである。

とにかく、性的欲望を敵視するようなクリスチャンは、皆インチキ信者なのである。
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