kouheiのへそ曲がり日記

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要領のいいエゴイスト(21)

2015-05-01 09:41:49 | 日記
ともあれ、いかなる関心から導出されたものであろうと、科学(社会学)命題として提起されたものは、当の社会学者の人間としての思想を社会背景などと関連させつつ掘り下げるような研究なしでは、かなり皮相に受け入れられてしまう。

だが、繰り返しになるが、それが現実の社会生活における経験的妥当性をもつかぎり、デュルケームの学説理解としては不適切であるが、科学としての社会学命題としてはそれなりの意義をもつといわざるをえない。

現在においては、もはやデュルケーム理解としては常識的とさえいえると思われるが、「<集合表象>が個人を拘束する」という命題は、主として規範的要素に人間の行為が方向づけられるという意を表している。

彼は、自らの属する社会の規範を内面化し、それを尊重し(義務)、かつ愛する(善)がゆえに自らの欲望を抑制し、規範に従って、すなわち道徳的に行為をなす。
これこそがデュルケームの社会学思想の根幹をなす基本認識であるといえよう。

だが、我々は実際の社会生活において、このようにばかり行為しているだろうか。
答は否である。
すなわち、規範を尊重せず、かつ愛さない次のような行為の類型が考えられる。

  Ⅰ 制裁を恐れ、規範に無反省的に服従する行為
  Ⅱ 褒賞取得のみを目的としてなされる行為
  Ⅲ 制裁の回避のみを考量する、道徳中立的計算にもとづく行為
  Ⅳ 規範から逸脱する行為

デュルケームが「<集合表象>が個人を拘束する」という命題で真に表現しようと意図した人間行為は、これら諸類型のうちのどれにもあてはまらない。
しかし、先に引用した論述等をみると、Ⅳを除くすべての行為類型が<集合表象>によって拘束された行為とみなされても、やむをえないといえるかもしれない。

なぜなら、それらは規範を尊重しも愛しもしないのだが、とにかく規範を考慮に入れ、それから逸脱しない行為だからである。
実際、それらの類型にあてはまる行為が社会成員によって道徳的とみなされる場合がありうることは容易に想像できる。
デュルケームの真意とは乖離するにせよ、先述のⅠ・Ⅱ・Ⅲの類型に該当する行為は、<集合表象>によって個人が拘束された行為であるといいうる。

道徳的結合にもとづく近代社会の再組織化を目指す「実践的関心」に導かれたデュルケームの「<集合表象>が個人を拘束する」という命題は、個人が社会規範を認知するだけにとどまらず、それを尊重し、愛することによって、自発的に規範に従う、すなわち道徳的に思惟し、行為するということを理論的に表現したものであることには議論の余地がない。

だが、この命題は別様にも解釈されうる蓋然性を有している。
なぜなら、先に挙げた別様の解釈が経験的妥当性をもっているからだ。
ここに、<集合表象>の拘束性についての、デュルケームの学説理解としては誤っているが、社会学的認識としては必ずしも誤謬だとはいえない解釈可能性が成立する。

デュルケーム自身も、アルパートが指摘しているように、「認知的関心」にもとづいて認識した現実の人間の非道徳性に嘆息したことであろう。(つづく)