kouheiのへそ曲がり日記

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要領のいいエゴイスト(27)

2015-05-07 04:55:37 | 日記
だからこそ、「一般的<集合表象>」の未確定によって原子化している個人の社会化とともに、そういう道徳的基礎を欠いているがゆえに激しく拮抗している諸々の「限定的<集合表象>」の批判的検討が、デュルケームにとって急務であったのではなかろうか。

かくして、ドレフュス事件にあっては反動的国家主義に、教育世俗化運動にあってはカトリシズムに彼は批判的に対抗した。
また、「一般的<集合表象>」の確立こそが社会の組織化の根本であるとするデュルケームが、アナーキズムはもとより、経済制度の再構築を社会の再組織化の基礎と考える社会主義を退けたのも当然であったといえる。

ともあれ、『社会分業論』においては否定的にしか評価しなかった「個人主義」――功利主義的なそれとは明確に区別されるものであることはいうまでもない――を、のちに近代社会における主要な「一般的<集合表象>」であるとデュルケームが結論したのは、合理主義を旨とし、複雑に構造化された近代社会において、全体社会に対応する<集合表象>としては、人間主義的かつ高度に抽象的な道徳すなわち「個的人格の尊厳」を標榜する個人主義以外に適当なものはないと考えざるをえなかったからであろう。

そしてまた、先に例示した諸々の「限定的<集合表象>」は、この「一般的<集合表象>」とはすべて相容れないものであった。

だが、ここでデュルケームの学説はある逡巡を示している。
端的にいえば、それは「個人主義(我‐汝関係にもとづく<集合表象>)」と「連帯主義(我々関係にもとづく<集合表象>)」との断層である。

このことは、個人主義こそが現代社会に根ざす主要な道徳であるとした著作において、同時に職業集団論が実践的提言として提起されていることから窺える。

詳言すれば、自殺を導く自己本位主義の例として、自由検討を認めるプロテスタンティズムが挙げられていることから判断するのだが、個人主義という道徳にもとづく生き方が、個々の人間にとって過酷ともいえる精神的緊張をもたらすことをデュルケームが認識していたからこそ、彼は、いわばより具体性の高い「限定的<集合表象>」の基体とすべく、社会的地位や利害および生活様式の同質性にもとづく中間集団として職業集団を、エゴイズムやアノミーにおかれた個人を適切に社会化する場として提案せざるをえなかったのだ。

実際、個人主義という道徳に則って生きることは、多大の努力と能力とを必要とする。
この道徳を万人が身につけることは、現実には困難なことであることを現代の我々は知っている。
かといって、エゴイズムやアノミーを容認することはできない。
だからこそ、個人主義という「一般的<集合表象>」とは抵触する諸々の「限定的<集合表象>」がデュルケームの当時においても、また現代においても存続し、互いに拮抗しているのであろう。(つづく)