kouheiのへそ曲がり日記

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要領のいいエゴイスト(22)

2015-05-02 04:55:20 | 日記
「人間性の二元論的観点」は、「実践的関心」にもとづいて把握された人間の感得・思惟・行動の様式と「認知的関心」にもとづいたそれとの相克から導出された観点だとはいえないだろうか。

だが、構造論的観点をもつ者にとっては、社会的存在と個人的存在の二元対立という把握図式に固執することはもはや許されないだろう。
この図式は、社会的存在を一方的に聖なるものとし、個人的存在を一方的に卑俗なるものとするステレオ・タイプ化された安易な認識に陥る危険性を秘めている。
集団的エゴイズムや衆愚の数々の実例を知っている我々は、社会的存在が個人の欲望を規制する様式にも多様性があり、さらにまた、規制するのみならず、社会的存在が欲望促進的に作用する事実も認めねばならない。

こういった諸問題を明らかにするためには、社会的存在と個人的存在の構造論的把握が必要となろう。

また、先に挙げた行為類型のうち、Ⅳに属するものは、「認知的関心」に導かれたデュルケームの犯罪に関する概念把握にしたがえば、集合的反感を惹起するかぎり、それは「犯罪」といえる。
とすれば、利己的・欲望追求的な殺人や窃盗のような、いわゆる「自然犯」と、法理念に明らかに抵触する社会的・経済的権力による支配に対する法理念にもとづいての抵抗行為とは、ともに「犯罪」であり、概念的に区別することはできない。

この観点からは、個人の主体性の議論は所与のものとして前提になっている規範的秩序の維持へのそれという視角以外からは導きえない。

だが、「実践的関心」に導かれたデュルケームが諸個人の能動性であるとか意志の自律性などと彼自身が呼ぶものを、このように考えていたのではないことは、教育世俗化運動やドレフュス事件などへのデュルケームの関与の仕方をみれば明らかである。
この問題の敷衍には、「<集合表象>の構造論的観点」とでもいうべき視角が必要になろうかと思われるが、それは後述する。

さて、G・ジンメルがその学説において用いている「個人」というタームは、具体的実体としての個々の人間を指していることに疑いはない。

だがもちろん、それは社会に先行して存在するものとして措定されているわけではない。
このことは、人間が自らを主体 Subjekt と客体 Objekt とに自己分離する能力をもつ、という言明に如実に表されている。(つづく)