kouheiのへそ曲がり日記

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Ⅴ 世界の統一と神(2)

2022-02-15 14:37:34 | 日記
神が集団の統一そのものであることは、多神教においてさえ認証されることです。
ただ、前キリスト教の神は自らの集団の神が他集団においては同様には尊崇されないものであることを相対的に容易に認めます。
自らの集団の神を信仰することには絶対的義務を課すわけですが、他集団の神は他集団のものとして認め、寛容さを示すのです。

ところがキリスト教の神は、どれだけ歴史的・文化的・社会的バックグラウンドが異なる民族、異邦人に対しても唯一神であることを要請します。
他集団の神を邪教として退けるのです。
この不寛容さは、宗教的大転換であったと言えるでしょう。
なぜならこの唯一神は、社会集団の統一という既成事実を表象するのみならず、未来に向かう意志としての統一への投影でもあるからです。

しかし逆説的なことですが、この不寛容は神に相対する個人の道の多様性には寛容さを示します。
あらゆる歴史的・文化的・社会的バックグラウンドの差異を貫いても現前する神は、その神への信者の近づき方の多様性を認めざるをえないからです。
この個人主義は、西欧的個人主義の母体になったと言えるのではないでしょうか?
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Ⅴ 世界の統一と神(1)

2022-02-14 16:58:14 | 日記
多種多様な魂が神の国に収斂することから、神とは存在の統一点に存することは間違いありません。
というより、存在の統一こそが神なのです。
ですが、それでは統一とはいったい何なのでしょう?

神としての統一を考えた場合、まず汎神論的概念が浮かび上がります。
この世のすべての事物に神が宿っているという思惟形式です。
この形式においては、世界の全事象が神の現れであるということですから、世界内諸存在の多様性が神の御名において止揚され、統一されます。
しかし、この神には人間の精神が経験するドラマチックな対向性――愛情と疎遠、敬虔と神の沈黙等々といった――が欠落しています。
したがってこの神は、言葉の厳正な意味において、宗教の神ではないと言えるでしょう。

宗教における神とは、さまざまな対向的ドラマを生き抜いてきた個々の魂が最終的に収斂する場ですから、それには相互作用の統一という概念が適切です。
この統一の概念によってのみ、宗教の神は顕現します。
なぜなら人間関係の相互作用の統一としての神こそが、諸個人に対向し、個人の外部に立ち、個人を超越しながらこれを包含するからです。
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Ⅳ 神と人間

2022-02-13 16:24:54 | 日記
社会は諸個人からなるというのは当然ですが、それでも社会はそれ独自の存在様式を貫徹させようとします。
こうして社会は、それを構成する個人にとってしばしば闘争すべき壁として現前するのです。
ですがこの社会と個人の二項対立という図式は、観念の経済とでも言うべきものであり、ことはそれほど単純ではありません。
人間は自己の精神内容を分裂させ、そのなかのある部分をより自己の本質に近いものとして捉える能力をもっています。
それは逆から言えば、自己の精神内容のあまり本質的とは感じられない部分が自分自身の自由を制限する拘束を課していると感じられるということを意味します。
つまり個人の内部に社会が顕現しているのです。

さて社会は、それ独自の存在過程として目標に向かうとき、必要に応じて個人を社会の部分となすことを要請します。
個人に社会の一部分としての機能遂行を要求し、魂に対する拘束を負荷するのです。
ですが人間は絶えず自由を、個人としての自らの魂の自律性を希求します。
この拘束と自由の二律背反を止揚するポイントが神なのであり、神への信仰において信者は、自らの自由意思において拘束生活を生きるのです。
ユートピアかもしれませんが、完全な社会とは完全な個人から構成されているものと言えるでしょう。

では、完全なる個人とは何でしょう?
それは魂が完全に救済された人間です。
では、救済とは何でしょう?
それは魂のもっとも価値ある要素が、精神内部において混交している他の不純物から完全に分離されることです。
そんなことがあり得るか疑問をもたれるかもしれませんが、少なくともキリスト教理念的には、神の家には万人のために場所が用意されており、人間に要求される最高の価値が同時に人間に必要とされる最低限のものであるところから、原理的には可能なはずです。
要するに、陳腐な表現ですが、神の前においてすべての魂は平等なのです。

しかしそれでは、人間の魂の多様性はどのように説明されるのでしょうか?
すべての魂は神の前で平等と言われます。
これを、すべての魂は神の前では一様なものであると解することは誤りでしょう。
というのも一様な魂というものは、すべての魂にとって宥和できない、なにか空々しく、よそよそしいものにすぎず、魂の無価値化と同義だからです。
魂の多様性と平等を同一の理論平面上で両立させるためには、ある理論操作が必要となると思われます。
すなわち、魂の多様性とは価値的差異を意味せず、性質的差異のみを意味するのだと理解すべきなのです。

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Ⅲ 社会生活と宗教

2022-02-12 15:09:15 | 日記
ドイツ語で「信仰」はGlaubenです。
信仰とは宗教生活の特筆すべき契機であると言われます。
ただ宗教的でない一般の社会生活においても、信仰的なものが我々の生活を下支えしています。
それが「信頼・信用Glauben」と呼ばれるものです。
我々の社会生活は信頼・信用なくして成り立ちません。
そしてしばしば信頼・信用は、あらゆる反証の彼岸にあります。
信頼・信用が成り立たないという証拠が提示された場合にも、往々にして信頼・信用は存続しうるのです。

もちろん相対的に宗教的でない社会生活においては、信頼・信用が毀損されることはありますが、それは犯罪の発生率と同じく、一定の割合以下の頻度でしか起こりません。
社会生活が安定している場合、信頼・信用は単なる知識以上のものであり、他者との結びつきを実際以上に修飾するのです。

この信頼・信用が宗教的魂によってくり返し純粋化されたものが信仰なのです。
すなわち自己が他者を信頼する場合、その他者の魂をその信頼によって高めるように、信頼する自己は自らの魂をも純化するのですが――人間は未分化な自己を主体と客体とに自己分離する能力をもち、自身にとってさえ第三者に立ち向かうように振る舞えるのです――その過程が極限まで拡大・絶対化されたものが神への信仰なのです。

ところで、ローマ帝政期においては無数のギルドが成立しましたが、どんな職業のものであれギルドには守護神が祀られ、それぞれ神殿や祭壇をもっていました。
このことは神が社会集団の統一性の表れであることを示しています。
とくにキリスト教においては、愛の貴重性と被願望性という情調の共同的性格から、神への帰依という生の様態が希求され、これが社会の統一性の原因となると同時に結果ともなったのです。

キリスト教の神は愛の神、つまり人格神です。
古代の多神教世界における神々は小型人間的であり、神の絶対性を強調するには汎神論的論理が必要とされましたが、そのとたん神は人格性を剥奪されることになりました。
愛を説くキリスト教は論理必然的に異教徒世界から宗教形式を借用し、これを深化させ、絶対者でありつつ人格をもった神を導出したのです。

愛によって特徴づけられる宗教は「平和」を希求します。
社会のメンバーの活動が競争に陥ることなく協同的に発揮され、目標と利害の調和があますところなく実現される領域は、おそらく宗教世界以外にはないでしょう。

神は共同体の最高のメンバーであり、社会の統一性のなかに生き、その統一性の原因でもあるのです。
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Ⅱ 社会的態度と宗教的態度

2022-02-11 14:07:12 | 日記
個人の社会集団に対する態度は、信者の神に対する態度と、驚くほどの相似性を示しています。
そこに存する決定的な感情は依存です。
すなわち、個人はありとあらゆる相互に対立する情調をもちながら、社会の統一性に対してはただ全面的に依存しているとしか考えられないのです。
言うまでもなく、個人は社会に先行して存在するものではなく、社会は個人にとっていちども現在になったことのない過去だからです。
ただ存在するのは社会関係であり、それが十分な秩序を体現しているかぎり、つまり統一性を示しているかぎり、個人はどのような情調をもっていても、この関係に委ねられているのです。
社会はいわば宗教的半製品です。
社会関係のさまざまな具体性が意識の彼方に遠ざかり、その統一性が無限の彼方に抽象化されたとき宗教は顕現するのです。

社会において個人が求められる振る舞いと、宗教において信者の求められる振る舞いの相同性を表現するのが「義務」と呼ばれるものです。
社会メンバーとしての個人は社会的義務を完全に免れることはできません。
もしできたとしたら彼は言語を一から創造しなければならなくなり、原理的にそれは不可能です。
宗教においても信者は宗教的義務を履行しなければなりません。
履行しなくてもいいのであれば彼は信者ではなく、原理的に信者にとって義務の履行は不可避なのです。
ただ、仏教は社会的義務と宗教的義務との随伴性をもちません。
仏教は社会と隔絶することによって救済を得ようとする教説だからです。
社会からもたらされる、いかなる恩寵や超越的な力も必要としない点で仏教は宗教ではないと言えるでしょう。
これに対しキリスト教圏においては、社会的義務と宗教的義務とは強い相関関係をもっています。

宗教的な精神状態を特徴づけるものが「敬虔」と呼ばれるものです。
敬虔とは、宗教心が世界に投影され、何らかの事物が決定的神聖さを帯びて宗教が顕現する場合の魂の情調のことなのです。

さて、愛する者は愛される者を自らつくり出します。
愛する者にとって愛される者は愛情がつくりあげた創造物なのです。
Aを愛するBにとって、Aとは自分の愛情の作品であり、CにとってのAとは別物なのです。
芸術作品にも同様のことが言えます。
芸術作品は芸術家の創造物であり、それ自体が自律性を保持しています。
写実的な風景画も原風景からは独立した形象であり、大理石の彫像も素材としての大理石とは無縁なものなのです。
同様に敬虔な魂にとっての世界と、そうではない魂にとっての世界とは、たとえ同じ社会に属していようとも別物であり、前者こそが世界に宗教的色調を帯びさせるのです。

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