kouheiのへそ曲がり日記

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要領のいいエゴイスト(26)

2015-05-06 04:45:31 | 日記
それゆえ、<集合表象>には正当性が不可欠である。
つまり、デュルケームの含意としては、民衆によって正当であると承認された<集合表象>のみが個人を正常的に拘束しうるのである。

このことから、デュルケームが規範への盲目的服従をけっして是認するものでないことは明らかである。
では、<集合表象>の正当性はどのように確定されるのだろうか。
デュルケームにとっては、この問題の探求の必要性こそが社会学の存在理由であった。

そして、自らを合理主義者として位置づけたデュルケームは、科学命題の真偽は万人に妥当するという、科学に対する大きな信頼を保持していたといえる。
だからこそ、近代社会にふさわしい道徳すなわち<集合表象>は、社会学的探求によってこそ確定しうると考えたのだ。

現実的社会諸条件に根ざす、すなわち近代的産業社会の秩序維持あるいは統合にとって機能的な<集合表象>は、科学としてその方法が基礎づけられた社会学的探求によって確定され、そのような手続きを踏まえたうえで機能的であると判断された<集合表象>は、社会成員によって必ずやその正当性を承認されるであろう。

だが、この考え方は抽象的にすぎ、現実的有効性が希薄であると現代の我々の目には映ずる。
そのことは、デュルケームの社会理論における<集合表象>概念が、社会学が産後まもない新興科学であったという事情もあったろうが、主にきわめて高い抽象のレベルにおいて提起されており、<集合表象>の構造論的観点が明確に定式化されていないという難点と結びついている。

なぜなら、未開社会とは異なり、近代的産業社会は複雑で立体的な構造を有しており、またそのこととパラレルに、<集合表象>にも同様の構造があることを我々は認めざるをえないからだ。
つまり、特定階層、特定地域あるいは特定世代等に固有の<集合表象>とでもいうべきものが、全体社会に対応する抽象性の高い<集合表象>――筆者は前者を「限定的<集合表象>」と、後者を「一般的<集合表象>」と仮に呼ぶが――の基礎のうえに、より高い具体性を有したそれとして成立している。

もっとも、これは規範的秩序が安定している状況においてのことであって、デュルケームの社会学的営為の導火線となった、エゴイズムやアノミーを特徴とする当時のフランスの社会的危機を考慮すれば、デュルケームが社会学的探求によって確定を目指した<集合表象>は、「一般的<集合表象>」だったのであり、そのことには重大な意義があったといえよう。

というのも、一般にアノミーは規範の弛緩すなわち<集合表象>の不安定状態と捉えられているが、より詳細にいえば、「一般的<集合表象>」という基礎が確定していないがゆえに、無規制な個人的存在に個々の人間が衝き動かされるという問題のみならず、こういう基礎を欠いた諸々の「限定的<集合表象>」――具体的にいえば、カトリシズムを代表とする伝統主義、反動的国家主義等々の保守主義、社会主義やアナーキズムといった左翼思想などであるが――が拮抗し、社会秩序の混乱に拍車をかけているという事態も、実際問題として重大であったろうと筆者には思われるからだ。(つづく)
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