涼風野外文学堂

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もてない男は帰ってこない(小谷野敦をめぐって)。

2006年07月25日 | 読書
 今日は久しぶりに外での仕事です。つっても一日椅子に座って大学の先生方の講演聴いてるだけのゆるーい仕事ですが。それにしても幕張メッセ冷房効きすぎだヨ。
 で、珍しく電車で出かけたので珍しくゆっくり本を読む機会に恵まれました。すっげぇ久しぶりに「文学界」を端から端までほぼ全部(意図的に読み飛ばした部分除く。某東京都知事の連載小説とかね)読んだので、それ繋がりで今日は小谷野敦の話題なぞ。

 文学界8月号は、小谷野敦の小説「悲望」が堂々180枚のボリュームで創作部門のメインを張っており、今月号はまさにこれを読むために買ったようなものだったのですが……いや、痛すぎるよ、これ。どこまで創作でどこから実体験に着想を得たものか知りませんが、しかし、法界悋気というよりもはやストーカーの気配すら漂う最近の小谷野敦の鬼気迫る様子には、正直、ちょっとヒキます。
 まだしばらく書店の店頭にあると思うので、興味がおありの方は是非文学界8月号を探して読んでみていただきたいと思うのですが、要するに、ちくま新書で彼が放ったスマッシュヒット「もてない男」の小説版とも言うべき、「ああ、こりゃ、もてないだろうなぁ」という男の話です。

 「もてない男」は1999年に発売されており、同年のうちに私も大学生協で買い求めて、大変面白く読んだ記憶があるのですが、当時大学の後輩に勧めて読ませてみたところ、「いや、ほんとの『もてない男』は、こんなんじゃないですよ」という感想を聞かせてくれたことを覚えています。その当時は「ああ、自分が『もてない』と考えている人には、『俺が一番もてない』『俺こそもてない男だ』的な各自のこだわりがあるんだろうなぁ」程度に考えていたのですが(ずいぶん失礼なこと考えてたんだな)、他方で、この後輩くんの一言と、それに対して私が抱いた感想とは、それぞれ「もてない男論」のある一面を的確に言い当てていたように思うのです。
 つまり、誰かが「もてない男」について論じ始めたときに、必ず想定される質問は、まず「では誰が『もてない男』なのか?」「『もてない男』はどこにいるのか?」という問いかけであり、ここから一歩進めば「結局お前は『もてない男』ではないのではないか?」という形の批判が当然に出てくると思うのです。実際「もてない男」のカバー裏に掲載されている小谷野敦の写真はなかなか上手に撮れていて、「本当にもてないのかお前」という形のツッコミをしている文芸評論家かなんかも、当時いたように記憶しています。
 つまりは「もてない男論」とは、小谷野敦が世に放ったその当時においては、ある意味においてこの世の誰にとっても「他人事」であったため、そこにはどこか牧歌的な、絵空事を論じるような気楽さがありました。
 で、実際「もてない男」がベストセラーになった後に小谷野敦は結婚し、その様子は写真週刊誌にでかでかと掲載されたりもしたのですが……。

 昨年、小谷野敦は同じちくま新書から「帰ってきたもてない男」なる本を出しました。帰ってきたとはいかなることか、と冒頭を開けば、離婚したとのこと。いやはや、それは、何というか。
 肝心の本の内容は、出会い系サイトに挑戦してみたり、結婚情報サービスに足を運んでみたりとかなり痛い内容になっています。主張することの中身は初代「もてない男」とそんなに変わっていないはずなのに、「もてない男」の時ほど面白く読むことができなかったので、それは何故だろう、と考えてみたときに、要するに、イタいのだ、ということに気づきました。

 馬頭様との往復書簡の中でも私が主張した(「涼風文学堂」に掲載してありますのでよろしければご覧ください)「ポジション」論に通ずるところでもあるのですが、結局のところ、あらゆる政治的発言は(あらゆる発言は政治的なのですが)その発言者が置かれたポジションによるバイアスを免れることができない、と思います。「もてない男論」はそうしたポジションによるバイアスの影響を特に強く受けるように感じられます。発言者は実際のところもてるのか、もてないのか。もてる男が「もてない男論」を論じても空々しいだけで説得力がないし、本当にもてない男(というのがいるかどうか分かりませんが「恋愛関係でこっぴどい目にあった経験を持つ人」ならいるでしょうし、今の小谷野敦はまさにそんな状態です)が「もてない男論」を論じてしまうと、論の中身より先に論者の境遇に目が行ってしまい、結局のところ「イタい」ところばかりが目に付いてしまうわけです。

 かような流れから今回の「悲望」を読めば、とうてい純粋な「創作」として受け止めることなどできず、ただただ痛すぎるわけです。
 以上により私は本作をもって小谷野敦に、尊敬と畏怖を込めて「男中村うさぎ」の称号を与えたいと思います。しかし、小谷野敦にしても中村うさぎにしても岩井志麻子にしても、腫れ物のように肥大する自分を切り売りするより他にない状況に自らを追い込んでいくことは、身の破滅を招きそうに思えて恐ろしいのですが……。

 ついでですが、小谷野の文体は小説を書くには向いてないですね。説明臭さが鼻について気分悪いです。新書やエッセイで読む分にはまったく気にならないのですが。


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2 コメント

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Unknown (小谷野敦)
2006-08-06 02:24:55
「研究室の若い女の子」ってのは事実ではないので、再度ご確認ください。
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誤りでした。申し訳ありません。 (涼風。)
2006-08-07 18:28:32
確認いたしました。

よく確認もせず、事実に基づかない誤った情報を掲載しておりました。申し訳ありません。

該当箇所については文言を改めました。
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