昨日はひさびさに都内に出る用事(法事ですが)があったので、ついでに本屋を覗いてきました。アーレントの新刊だとか、ジジェクによるラカン入門書(!)だとか、刺激的な書架のあちこちに興味を引かれつつ、結局今さらながら『生きさせろ!―難民化する若者たち』(雨宮処凛、太田出版)なんぞを買ってしまいました。
さて、雨宮処凛は「プレカリアート問題」を扱うようになってから、メディア露出度も急激に上昇しているので、今さら説明せずとも皆様ご存知のことかと思いますが、この本は、現代の若者における貧困の問題(ネットカフェ難民とかワーキングプアとか非正規雇用問題とか)について扱ったものです。
本の大部分を現地取材のルポルタージュが占め、巻末近くになって社会学者とかへのインタビューを加えることによりネオリベ批判と結びついて、全体として「若者の貧困は、個人の能力の問題ではなく、社会的・構造的な問題である」「したがって若者であるわれわれは、生存権の獲得を訴えて、社会構造の変革を求めなければならない」という文脈に焦点を絞っていきます。そうして、本のタイトルである『生きさせろ!』というシュプレヒ・コールが、変革を求める運動の合言葉になっていく、という狙いです。
正直、本を手にする前に想像していたよりも、なかなかいい線をついているな、というのが、一読してみた涼風の感想です。少なくとも、「自己責任」だの「自己決定」だのという語が、公的セクターの責任放棄の口実でしかないことを見抜いていること(涼風的にはこれに「自立支援」も加えてもらいたい)や、現在の低賃金労働の現場の凄惨さに絶滅収容所の強制労働との近似性を見出したり自傷行為・家庭内暴力との親和性を見出したりする辺りの嗅覚の鋭さは、『現代思想』のホームレス特集号や、この期に及んでリバタリアニズムに転ぶ東浩紀などに比べて、格段に的確なポイントを押さえています。
一方で、直接現場に取材するものの限界がどこにあるかも、この本には現れ出ています。例えば生活保護の受給について「とにかく申請書を出すこと、福祉事務所に申請書置いてくれば勝ち」というような事実への言及はされており、それはそれでまったくもって正しいのですが、他方で「なぜ所謂『水際作戦』のような(違法と言うべき)事務が、福祉事務所の現場でまかり通っているのか?」という疑問は、脳裏をかすめもしません。
もちろんそのことをもって本書の評価が貶められる必要は微塵もありません。貧困の現場において重要なのは「いかにしていま・ここのわたしが生存するか」であって、その背景の社会構造を読み解くのは、現場の仕事ではなく、学問の仕事です。この点から、現場で確かな仕事を成し遂げた雨宮処凛に応えるためにも、学問の立場から、誰かがこの仕事に別角度からの光を当てて、補完してやらなければならない必要が生じているわけです。
そこで不肖・この涼風めが、学問の世界を遠ざかって久しい身ながら、できる限りで「異なる視点からの貧困問題」について言及し、雨宮処凛のこの仕事に「国際政治」という異なる角度からのスポットライトを浴びせてみようと思います。キーワードはずばり「グローバル資本主義」。
そもそも、国際政治学をかじったことのある人間なら、「貧困」とは構造的な問題、すなわち「政治の失敗」の結果としてしか起こりえない、ということを、ほとんど「常識」として知っているはずです。なぜなら、国家とはまず第一に、その国民を食べさせなければ成り立たないからであり、ゆえに国家には国民を「飼育する」性質が本来的に備わっているからです。
貧困とは、ウェルフェアの絶対量の不足によって生じるのではなく、ウェルフェアの分配機構の崩壊によって生じます。例えばネパールでは、統計上の国民1人当たりGDPは上昇しているにもかかわらず、貧困はいっそう深刻化しています。市場経済が入り込んできたことによって、どこの農村でも見られた自給自足型のライフスタイルが崩壊したからです。世界で1年間に生産される穀物の熱量は、世界人口が1年間に消費する熱量の理論値を上回ります。にもかかわらずなぜアフリカで餓死者が絶えないのか?彼らが食すべきエネルギーはどこへ消えたのか?――アフリカに送られれば餓死者を劇的に減らすほどの膨大な量のトウモロコシが、例えば牛の飼料となってわれわれの食卓を彩るハンバーガーとなり、あるいはバイオ燃料に加工されてハイウェイを疾走する原動力となっているのです。
さて、既に本題に一部触れてしまいましたが、現代の貧困というのは、世界経済の問題と切り離して考えることはできません。冷戦構造が崩壊して、世界全体が巨大なひとつの市場に飲み込まれてから、まだ何十年も経ったわけではありませんが、例えばアメリカの住宅ローンの焦げ付きがヨーロッパや日本の銀行に大損害をもたらすといった風に、世界市場の問題は今日、われわれの身の回りの至る所にその断面を見せています。
『生きさせろ!』の中でも、労働者の賃金がより低い外国との国際競争の面に言及した箇所がありますが、企業が「世界戦略の中でのコスト削減」を言い訳に労働条件の切り下げを正当化していくに当たり、今やわれわれの労働力も、世界市場に組み込まれているという事実を確認せざるをえないでしょう。
そして政府の方も、ここ1年ばかりバックラッシュが来つつあるものの、基本的には、労働者の論理よりも、国際社会で勝負する大企業の論理の方に肩入れしてきたと言ってよいでしょう。金融業界の再編にしても、特区法に象徴される各種の規制緩和にしても、大企業が国際社会で戦うに当たり有利になるための取り計らいなのです。
『生きさせろ!』の中では、当の貧困層が、例えば小林よしのりに傾倒してみたり、小泉純一郎に投票してみたり、右傾化に親和的、あるいは自己責任論に親和的であることにも言及されています。それはもちろん自らの首を絞める行為であるのだから、「俺が飯も食えないほど貧乏なのは、俺に能力がないせいじゃない」と叫ぶこと、要約して「生きさせろ!」と叫ぶことが薦められており、これは現場の運動としてはまさに正解です。
学問サイドの仕事としては「なぜ貧困層と右傾化や自己責任論が親和的なのか」というその構造を読み解くことが必要になります。さて、政治を学ぼうとするなら、歴史を学ぶこと、過去の実例を分析することは、常に有効な手段として検討する必要があります。なぜ貧困層と右傾化や自己責任論が親和的なのか。シンプルな回答を発見しました。それは「戦時中だから」という答えです。
戦時中、といっても、主権国家同士の交戦状態を示す「戦争」という語は、60年以上も前に、総力戦と大量殺戮兵器のために、戦闘員と非戦闘員の区別がなくなり、戦闘と虐殺の線引きが困難になったあたりで、決定的に陳腐化しました。今や局地的な「戦闘」や、国家の内部統治機構の崩壊による「内戦状態」は想定しえても、古典的な意味での「戦争」は考えられません(アメリカがイラクやアフガニスタンで行ったのは、短期間における一方的な殺戮と、それに続く慢性的な内戦状態に過ぎず、到底戦争と呼ぶに値しません)。
今日の戦争は「経済戦争」の形でしか起こりえないのです。そしてこの戦争においても、圧倒的優位に立つのは「基軸通貨」という決定的な武器を握っているアメリカです。これに対抗するために、ヨーロッパ諸国は連合して立ち向かっていますし、ベネズエラでは大衆の圧倒的支持に支えられてチャベスが登場しました。
さて、翻ってわが国の世界戦略はといえば、何だかアメリカとアジアの両にらみ(板挟み?)のような気配も感じますが、工業製品の輸出中心、という基本戦略は、容易に転換するわけにもいきません。この点から、世界に製品を輸出することのできる製造業を中心に据えて、これらの大企業が世界で戦いやすくするようプラットフォームを整えようとするのが国家的基本戦略になってくるわけですが、その延長線上で、労働力コストの切り下げ、というのは避けて通れない道であったわけです。
かくして戦時体制が敷かれます。数々の戦時立法により、この国は総力戦の体制を整えていくのです。国家の目指すところは今目の前で行われている戦争に、最終的に勝利することであって、その過程では、少々の無理もやむを得ません。国民生活にいくばくかの犠牲を強いても、ともかく、この戦争に勝たなければならないのです。
このような状況下におけるスローガン、さて、どんなのがありましたっけ?
「欲しがりません、勝つまでは」
国が自己責任論だの自立支援だのと喧伝するのは、公的セクターの責任放棄であるとは先に触れましたが、もう少し突っ込んで言えば、国は目の前のこの戦争に勝利するために、国民生活の負担を増大させることを戦略的に選び取ったわけで、そのことを国民心理に浸透させるために「欲しがりません勝つまでは」に倣ったスローガンとして「自己責任」を使用している、といえるわけです。
――うーん、案外深いテーマかもしれない。これで論文1本くらい書けそう。
「経済戦争と現代の貧困」については、今後もしばらく継続して検討していこうと思います。色々な日常の理不尽を「世界の中の日本」という観点から見直していくと、少なからず新発見があると思いますので、皆様もぜひお試しください。
※ このブログを書いている涼風のウェブサイト「涼風文学堂」も併せてご覧ください。
「涼風文学堂」は小説と書評を中心としたサイトです。
さて、雨宮処凛は「プレカリアート問題」を扱うようになってから、メディア露出度も急激に上昇しているので、今さら説明せずとも皆様ご存知のことかと思いますが、この本は、現代の若者における貧困の問題(ネットカフェ難民とかワーキングプアとか非正規雇用問題とか)について扱ったものです。
本の大部分を現地取材のルポルタージュが占め、巻末近くになって社会学者とかへのインタビューを加えることによりネオリベ批判と結びついて、全体として「若者の貧困は、個人の能力の問題ではなく、社会的・構造的な問題である」「したがって若者であるわれわれは、生存権の獲得を訴えて、社会構造の変革を求めなければならない」という文脈に焦点を絞っていきます。そうして、本のタイトルである『生きさせろ!』というシュプレヒ・コールが、変革を求める運動の合言葉になっていく、という狙いです。
正直、本を手にする前に想像していたよりも、なかなかいい線をついているな、というのが、一読してみた涼風の感想です。少なくとも、「自己責任」だの「自己決定」だのという語が、公的セクターの責任放棄の口実でしかないことを見抜いていること(涼風的にはこれに「自立支援」も加えてもらいたい)や、現在の低賃金労働の現場の凄惨さに絶滅収容所の強制労働との近似性を見出したり自傷行為・家庭内暴力との親和性を見出したりする辺りの嗅覚の鋭さは、『現代思想』のホームレス特集号や、この期に及んでリバタリアニズムに転ぶ東浩紀などに比べて、格段に的確なポイントを押さえています。
一方で、直接現場に取材するものの限界がどこにあるかも、この本には現れ出ています。例えば生活保護の受給について「とにかく申請書を出すこと、福祉事務所に申請書置いてくれば勝ち」というような事実への言及はされており、それはそれでまったくもって正しいのですが、他方で「なぜ所謂『水際作戦』のような(違法と言うべき)事務が、福祉事務所の現場でまかり通っているのか?」という疑問は、脳裏をかすめもしません。
もちろんそのことをもって本書の評価が貶められる必要は微塵もありません。貧困の現場において重要なのは「いかにしていま・ここのわたしが生存するか」であって、その背景の社会構造を読み解くのは、現場の仕事ではなく、学問の仕事です。この点から、現場で確かな仕事を成し遂げた雨宮処凛に応えるためにも、学問の立場から、誰かがこの仕事に別角度からの光を当てて、補完してやらなければならない必要が生じているわけです。
そこで不肖・この涼風めが、学問の世界を遠ざかって久しい身ながら、できる限りで「異なる視点からの貧困問題」について言及し、雨宮処凛のこの仕事に「国際政治」という異なる角度からのスポットライトを浴びせてみようと思います。キーワードはずばり「グローバル資本主義」。
そもそも、国際政治学をかじったことのある人間なら、「貧困」とは構造的な問題、すなわち「政治の失敗」の結果としてしか起こりえない、ということを、ほとんど「常識」として知っているはずです。なぜなら、国家とはまず第一に、その国民を食べさせなければ成り立たないからであり、ゆえに国家には国民を「飼育する」性質が本来的に備わっているからです。
貧困とは、ウェルフェアの絶対量の不足によって生じるのではなく、ウェルフェアの分配機構の崩壊によって生じます。例えばネパールでは、統計上の国民1人当たりGDPは上昇しているにもかかわらず、貧困はいっそう深刻化しています。市場経済が入り込んできたことによって、どこの農村でも見られた自給自足型のライフスタイルが崩壊したからです。世界で1年間に生産される穀物の熱量は、世界人口が1年間に消費する熱量の理論値を上回ります。にもかかわらずなぜアフリカで餓死者が絶えないのか?彼らが食すべきエネルギーはどこへ消えたのか?――アフリカに送られれば餓死者を劇的に減らすほどの膨大な量のトウモロコシが、例えば牛の飼料となってわれわれの食卓を彩るハンバーガーとなり、あるいはバイオ燃料に加工されてハイウェイを疾走する原動力となっているのです。
さて、既に本題に一部触れてしまいましたが、現代の貧困というのは、世界経済の問題と切り離して考えることはできません。冷戦構造が崩壊して、世界全体が巨大なひとつの市場に飲み込まれてから、まだ何十年も経ったわけではありませんが、例えばアメリカの住宅ローンの焦げ付きがヨーロッパや日本の銀行に大損害をもたらすといった風に、世界市場の問題は今日、われわれの身の回りの至る所にその断面を見せています。
『生きさせろ!』の中でも、労働者の賃金がより低い外国との国際競争の面に言及した箇所がありますが、企業が「世界戦略の中でのコスト削減」を言い訳に労働条件の切り下げを正当化していくに当たり、今やわれわれの労働力も、世界市場に組み込まれているという事実を確認せざるをえないでしょう。
そして政府の方も、ここ1年ばかりバックラッシュが来つつあるものの、基本的には、労働者の論理よりも、国際社会で勝負する大企業の論理の方に肩入れしてきたと言ってよいでしょう。金融業界の再編にしても、特区法に象徴される各種の規制緩和にしても、大企業が国際社会で戦うに当たり有利になるための取り計らいなのです。
『生きさせろ!』の中では、当の貧困層が、例えば小林よしのりに傾倒してみたり、小泉純一郎に投票してみたり、右傾化に親和的、あるいは自己責任論に親和的であることにも言及されています。それはもちろん自らの首を絞める行為であるのだから、「俺が飯も食えないほど貧乏なのは、俺に能力がないせいじゃない」と叫ぶこと、要約して「生きさせろ!」と叫ぶことが薦められており、これは現場の運動としてはまさに正解です。
学問サイドの仕事としては「なぜ貧困層と右傾化や自己責任論が親和的なのか」というその構造を読み解くことが必要になります。さて、政治を学ぼうとするなら、歴史を学ぶこと、過去の実例を分析することは、常に有効な手段として検討する必要があります。なぜ貧困層と右傾化や自己責任論が親和的なのか。シンプルな回答を発見しました。それは「戦時中だから」という答えです。
戦時中、といっても、主権国家同士の交戦状態を示す「戦争」という語は、60年以上も前に、総力戦と大量殺戮兵器のために、戦闘員と非戦闘員の区別がなくなり、戦闘と虐殺の線引きが困難になったあたりで、決定的に陳腐化しました。今や局地的な「戦闘」や、国家の内部統治機構の崩壊による「内戦状態」は想定しえても、古典的な意味での「戦争」は考えられません(アメリカがイラクやアフガニスタンで行ったのは、短期間における一方的な殺戮と、それに続く慢性的な内戦状態に過ぎず、到底戦争と呼ぶに値しません)。
今日の戦争は「経済戦争」の形でしか起こりえないのです。そしてこの戦争においても、圧倒的優位に立つのは「基軸通貨」という決定的な武器を握っているアメリカです。これに対抗するために、ヨーロッパ諸国は連合して立ち向かっていますし、ベネズエラでは大衆の圧倒的支持に支えられてチャベスが登場しました。
さて、翻ってわが国の世界戦略はといえば、何だかアメリカとアジアの両にらみ(板挟み?)のような気配も感じますが、工業製品の輸出中心、という基本戦略は、容易に転換するわけにもいきません。この点から、世界に製品を輸出することのできる製造業を中心に据えて、これらの大企業が世界で戦いやすくするようプラットフォームを整えようとするのが国家的基本戦略になってくるわけですが、その延長線上で、労働力コストの切り下げ、というのは避けて通れない道であったわけです。
かくして戦時体制が敷かれます。数々の戦時立法により、この国は総力戦の体制を整えていくのです。国家の目指すところは今目の前で行われている戦争に、最終的に勝利することであって、その過程では、少々の無理もやむを得ません。国民生活にいくばくかの犠牲を強いても、ともかく、この戦争に勝たなければならないのです。
このような状況下におけるスローガン、さて、どんなのがありましたっけ?
「欲しがりません、勝つまでは」
国が自己責任論だの自立支援だのと喧伝するのは、公的セクターの責任放棄であるとは先に触れましたが、もう少し突っ込んで言えば、国は目の前のこの戦争に勝利するために、国民生活の負担を増大させることを戦略的に選び取ったわけで、そのことを国民心理に浸透させるために「欲しがりません勝つまでは」に倣ったスローガンとして「自己責任」を使用している、といえるわけです。
――うーん、案外深いテーマかもしれない。これで論文1本くらい書けそう。
「経済戦争と現代の貧困」については、今後もしばらく継続して検討していこうと思います。色々な日常の理不尽を「世界の中の日本」という観点から見直していくと、少なからず新発見があると思いますので、皆様もぜひお試しください。
※ このブログを書いている涼風のウェブサイト「涼風文学堂」も併せてご覧ください。
「涼風文学堂」は小説と書評を中心としたサイトです。