涼風野外文学堂

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ロス・ジェネ文学としての『ラブやん』。

2007年08月26日 | 読書
 先週は毎年恒例となった有明方面のオタ祭りに参加してました。大学の同期や後輩たちが一所懸命に漫画描いて日々これ腕前を上げているのを目の当たりにして、ようし俺もちょっと気合入れて小説書くぜ、とその時は思うのですが翌日には忘れてます。つーか今年に関しては、コミケから帰ってきたらリムネットのサーバの機材故障で俺様のホームページ『涼風文学堂』が消滅しておりましたので、取り急ぎパソコン内に残っていたバックアップデータを引っかき集めて再度アップロード作業をしているうちに力尽きましたorz

 さておき、涼風が待ちに待っていた、田丸浩史『ラブやん』の最新刊が、先月発売されました。こういう本を心待ちにしちゃう俺様もいかがなものかと思いつつ。
 いや、なかなか馬鹿にできないっすよラブやん。全国に掃いて捨てるほどいる(と思われる)ロリでオタでパラサイトで三十路前後の男の生き様(ムシロ生態)を、圧倒的なリアリティで描くその筆致は、もはや文学的色彩を帯びてきたと言っても過言ではないです。……ごめんやっぱ言い過ぎ。
 わりと真面目に思うところなのですが、例えば最近の朝日新聞が「ロストジェネレーション」と称して、今の25歳~35歳くらいの世代に固有の問題系にスポットを当て(その大半を就職氷河期の問題に回収しようとし)ていることとか、あるいは「ポータブル・パレード」のような小説が「下流生活をリアルに描写している」とかその程度の理由で新人賞を受賞してしまったりすることとかを見ていると、「オッサンども/オバサンどもは、僕らの世代について何も知らないくせに、僕らの世代について何かを語ろうとしている」のではなかろうか、と。そうであれば、われわれの世代がどのように生きてきて、どのような困難に直面しているのかを伝えることも必要なのではなかろうか、と思いを致すことになり、ひいてはわりに文学的な観点から「おまいら『ラブやん』くらい読んどけ」とか言いたくなるわけです。
 いやほんとに、ラブやんには世代論的に見過ごしがたい観点が実に的確に描写されていて、これは文学的鑑賞に堪えうる漫画だと思うのですよ。例えば

「女子高生……この言葉から貴様は何を連想する?」
「ボウボウ…援交…合コンに彼氏との旅行……そしてチョベリバ……!!」
「チョッ チョベリバ!? なんか…10年ぶりに聞いたぞ それ!!」
「だがしかし誰もが通る道それがチョベリバ……おお神よ……!!」
  (第56話)

 こんな会話から、この世代の男子が置かれてきた微妙な立場を見てとることができるわけです。
 この世代は「女子高生ブーム」の走りの世代でもあります。茶髪ルーズソックス(ガングロはもうちょい先)の女子高校生が、(往々にして性的な面で)記号化され、商品として流通した、まさにその世代なのです。女子高生がより上の世代から(往々にして性的な面で)注目を集めていたその陰で、男子高校生たちは何をしていたのか?したり顔でニート批判など垂れているオッサンどもには想像もつかないでしょう。
 ラブやん的には、その頃の男子高校生たちのうちのいくらか(おそらく無視し得ない人数)は、部屋に籠もってギャルゲーやエロゲーに熱中していたのです。同世代の少女たちがセックスシンボルとして市場社会で流通し、購買力のある大人たちの食い物にされている状況に背を向けて、生身の女体から乖離することでより商品として、記号として純化されたセックスシンボルに目を向けていたのです。
 あるいは、

「友達とわいわい遊んでたら楽しいし……それがそのまま続いてくれたらいいんだけど」
「いずれ『特別な友達』を選ぶ日が来るんだよな遅かれ早かれ」
「わいわい楽しくいきたかったから先送りにしてた面もあるんだけど」
「それじゃ遅いんだよな」
  (第58話)

 幼馴染みの女性(庵子)が結婚するという話を聞いた主人公(カズフサ)の独白シーンですが、この台詞の中には、この世代が「未来に対して決定的に失望している」ことが的確に言い表されています。主人公のカズフサは単なる小児性愛者として描かれているのではなく、年齢を重ねること、大人になることを拒否し、小学生の年代をこそ理想とするものとして描かれています。例えば小学生の頃の自分を起点として、そこから「理想とすべき中学生/高校生の頃の自分」を空想することは可能ですが、実際に自分が中学生・高校生であった頃を、自分の理想状態として空想することはあまりしません。つまりこの世代にとって、未来に希望を抱くことができたのはせいぜい小学生の頃までで、それ以降は「だんだん楽しくなくなっていく人生」を見透かして、失望し続けているわけです。

 このような観点から、ニートの問題やパラサイトシングルの問題を見ていけば、それは単に「就職氷河期だったから」というような理屈では片付けられないはずなのです。かように「ロストジェネレーション」を理解する手掛かりとなる視座を与え、世代を読み解き、ひいては社会を読み解く視座を与える、このような著作が文学的でないとすれば、いったい何が文学だというのでしょうか?……ごめんまた言い過ぎ。
 ともあれ、今後も『ラブやん』から目が離せないことだけは、確かです。


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