涼風野外文学堂

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ロックンロールと左派言説との親和性。

2007年07月10日 | 読書
SIGHT」(株式会社ロッキング・オン)

 ……いやはや。かねてより「ロックンロールの衰退と左派的言説の衰退とは無関係ではない」と主張してやまない涼風が、こんな雑誌の存在をすっかり見落としていたとは。うっかりしてました。最近は「世界」にもまるで食指をそそられないし、かといって「諸君!」だの「文芸春秋」だの読む気にはさっぱりなれないし、あげく「現代思想」も年々これ質が落ちているという中で、ひさびさのヒットです。
 涼風の個人的な見解としては、もはや右だの左だのという対立軸そのものが大した意味をなさなくなってきていて、不確かな自らの立ち位置を無理矢理確認するために他者の言説にウヨクだのサヨクだのレッテルを貼ることだけに長けた輩がやかましい昨今、「ああ、右とか左とかはっきり区別できた時期が懐かしいなぁ」と感慨すら覚えていたところなのですが、これだけあっけらかんと「左派の復権」を指向した雑誌が、しかも渋谷陽一の手によって世に出されるというのは、まさに我が意を得たりという感じです。
 私が買ったのは現時点の最新号である2007年夏号ですが、加藤紘一や菅直人のインタビュー、高橋源一郎と斎藤美奈子の対談など、非常に興味深い記事が並んでいる中で、やはり特集のメイン記事である、坂本龍一と藤原帰一との対談がひときわ目を引きます。特筆すべきは坂本龍一の発言で、別段小難しい小理屈をこねるでもなく、実にあっけらかんとしながら、それでいてポイントを外さずにいるところが、まさにこの雑誌の立ち位置を象徴しているように思うのです。ちょっと引用してみます。

 そうですね。9・11を身近で体験してしまったので、ということでしょうね。別に僕はもともと反戦論者でも、非戦論者でもなかったけど、たまたまそこに住んでいた。遭遇してしまったら何らかの責任、関わりはできちゃうというかね。目の前の川で誰か溺れてたら、黙って通り過ぎないのと同じですよ。(p.18)

 (前略)……やっぱり音楽家とか芸術家なんて理想論を言う役目なんじゃないかな。音楽とかアートとか文学は、現実政治とは関係ないとこで生きてる人間がやってるんだし、やっぱり誰かが理想的なことを言わないといけないと思う。……(中略)……イラク戦反対運動でも血気盛んだったのはチョムスキーだけ(笑)。だから、自分はそういう役目なのかなという気もするんですよ。(p.20)


 前者は現代思想の重要なキーワードである「責任=応答可能性」(responsibility=response+ability)について、中学生でも分かるような平易でしかも的確な説明となっていますし、後者はそこからさらに発展して、文学の世界では既に大半が放棄したような「アーティストの使命」を自らに課すことを確認しています。
 かつては、このような「あっけらかんとした」言説の下地を支えていた、その柱のひとつは、ロックンロールにあったのではないでしょうか。もちろん、ウッドストックの頃にはまだ生まれていなかった涼風の言うことですから、多分に断片的な情報に立脚しているがゆえの偏見があるとは思いますが、ブルーハーツにしてもBOφWYにしてもX(-JAPAN)にしても、システマティックなものに噛み付き、モラルを笑い、自由を尊ぶ、そんな基本姿勢に立脚していたのではないでしょうか。(そうした「古き良きロック魂」みたいなものと比較してみると、例えば小室哲哉が安室奈美恵をして「Are you ready for system 2000 ?」と歌わせた(『LOVE 2000』)ことがいかにグロテスクかということも見えてくるわけです)
 システマティックなものに飲み込まれ、モラルの陰で息を潜め、不自由から逃れることもできずもがいているような音楽が数多く生み出されるここ10年ばかりの状況に対して、「でもやっぱアフガン/イラク戦争って変じゃね?」と、理論的裏づけもなく思いつきで声を上げることは、実は左派の復権であると同時に、ロックンロールの復権でもある、と涼風は思うのです。
 理屈をこね回すのもそれはそれで大事なところもあるのですが、今必要とされているのは、どちらかといえば「理屈抜き」の「象徴的」な「左派的言説」なのではないかな、という気がしてきました。そしてこのような言説にアクセスする経路を作ったのが、既存の文壇・論壇とそれを支えるメディア・出版社ではなくて、ロッキング・オンであったということにも、納得、という感じです。
 そんなわけで「SIGHT・2007年夏号」オススメです。思想系や論壇系の雑誌に比べて独特の「軽さ」はありますが、今という時代にあっては、この「軽さ」こそが決定的に大事なのではないか、とわりと真剣に考える涼風の最近のイチオシです。

 ……余談ですが、ここまで取り上げてきたような「SIGHT」全体の雰囲気の中で、東浩紀の連載記事は明らかに物足りないです。この雑誌の他の記事と見比べて、最近の東浩紀に何が足りないのか、何がイカンのかと考えると、要するに「策士策に溺れる」の典型例なのだな、ということが分かってきたような気がします。これだけぐるぐる回って行き着く先がリバタリアニズムって、あーた(苦笑)。


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1 コメント

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なるほど (馬頭親王)
2007-07-12 20:28:23
ちょい本屋でチェックしておきますね。斎藤美奈子とか、高橋源一郎とか、スガ直人とか、加藤紘一とか、じつにこう、なんというか評価の両義的にならざるを得ない、鵺のような面々をよくもまあ集めたものだと思うわけですが(フェミニズムのなかの徒花的存在斎藤美奈子は、さしずめ日本版カミール・パーリアといったところでしょうか!? また「自民党内のサヨク急先鋒」として、比較的親近感を持てる加藤紘一だとか、あるいは馬頭的には音楽的評価も兼ねて両義的なのだけれど、ともあれ「やっぱりアンタも左翼なのね」といい意味で納得してしまう坂本龍一だとか)、ともあれ、後半の東浩紀だけが物足りないという話が、じつのところ最も重要かつやるせない話かと思います。
東浩紀といえば、たしかそう遠くない昔に、「柄谷行人の衰退」なるテーゼを笠井潔だとかさまざまな相手に向けて語っていたのではなかったでしょうかね?(かくいう「馬頭親王」もまた衰退しているのかも知れませんが)、そのような犬儒的な東浩紀自身が、他でもなく衰退の一途を辿っている張本人だというのは、彼の著作を追っている人ならばよくよく存知ている事とは思うのですが、一体あのような才智と鋭気に満ちた人材が、どのような途を辿れば今日のような目も当てられない(と馬頭は思っております……)惨状を呈してしまうのか。

これは、はっきり云って、「オタク文化」の罪だと私は思います。どうも「オタク文化は世界レベルである」といったような数年前に猖獗をきわめた一連の不毛な言説に、東浩紀は乗ると同時にそうした潮流を先導してしまった感があります。しかし、このあたりは涼風様には異論があるかも知れませんが、馬頭としてはラノベにしてもエロゲにしても、結局のところ世界レベルの文化とは言えない! というのが最近の自己反省も含めた総括なのです。そういうものを、軽々しく賞揚してしまうところに、本質的な彼の「文化音痴」があるのではないかと……あれ、ずいぶんとオタク文化に対して攻撃的になってしまいましたが、しかし言わんとするところは違えてはおりませぬのであえて訂正しません(笑

しかし、本当にリバタリアニズムってあーた、まるで宮台信司一派に膝を屈したかのごとき結論ですね。2000年代に入っても結局のところ宮台の天下は続くのかと。いや続き兼ねない。じつに不毛なことです。しかし、東浩紀の衰退に関しては、涼風様には馬頭とはまた違った見解があるかも知れません。もしそうならば、そのあたりをぜひとも拝聴したいところなのですが、いかがなものでしょう?
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