9月5日。
昨日は、四年前に他界した親父の命日です。
父の故郷の福井県小浜市に墓参りに行ってきました。
小浜市は若狭湾に面した小さな港町。
私自身は借家住まいの福井市で生まれ育ちました。
ですが、本家のある小浜市には特別の想いがあるのです。
ご存知のように、小浜市を含む福井県若狭地方は世界一の原発集中立地地帯です。
私の実家(親父の生家)も、再稼働した大飯原発10キロメートル圏内に位置しています。
小さな港街は、もし地震による津波がきたらひとたまりもないでしょう。
東日本大震災では、津波が小さな港街を次々に襲いました。
もし小浜に地震が直撃したら、津波が街を襲い、そして放射能が降り注ぐでしょう。
私が、今回の東日本大震災をどうしても他人事にはできなかったもうひとつの理由が、ここにあります。
▼小浜市の実家
昨年の同じ時期に書いたブログの内容からも、抜粋で以下の通り紹介します(太字)。
私の親父は小さな街の小さな農家が生んだ政治家でした。
国政に挑戦すること11回。6勝5敗でかろうじて勝ち越しです。
負けても負けても負けても、挑戦する貧しい青年政治家のその姿に、福井の大地に生きる大衆はいつしか心から応援を始めたと聞いています。
小さな田舎からよりよい社会づくりに人生を懸けた親父。
そしてその親父を支え続けた名もなき大衆の未来に懸ける想い。
私の身体には確かに彼らの魂が流れています。
私は、小浜の風土と人々が生みだした親父から「あきらめない心」を学びました。
さて、私が育った福井市は災害多き街です。
戦災の焼け野原から復興途中の2年後に福井地震が起こり(死者約3,900人)、街は壊滅状態でした。
福井地震により「震度7」が設置されました。そしてその「震度7」が初めて適用されたのが阪神大震災でした。
その二つの災害から立ち直り、福井は「不死鳥の街」とも言われたものです。
最近でも、三国町沖に重油タンカーが座礁して日本海が真っ黒い重油にまみれたり、集中豪雨や豪雪が重なります。
いまだに福井市の積雪最大深(203センチ)は、全国の県庁所在地で一番だと聞きます。私が小5のときの「56豪雪(昭和56年豪雪)」も、福井平野に198センチもの積雪があり、たいへんな災害でした。
災害のたび、強くよみがえってきた街の風土もまた、私に「あきらめない心」を強烈なまでに教えてくれました。
災害のリスクを抱える街に生まれ育ち、その街の風土が私に教えてくれた「あきらめない心」を、東日本大震災の被災地にどうしても送り届けたい、その想いが私を震災支援に突き動かしています。
これが私個人がどうしても震災支援に動く、DNAレベルの理由です。
この「心」が、泰阜村ではさらに大きく増幅されます。
きびしい自然環境を生き抜いてきた人びととその風土が発揮する不屈の精神は、私が福井で培った「あきらめない心」をさらに大きく育ててくれました。
小浜の実家の縁側に佇めばなんともゆったりとした気持ちになり、親父の墓の前に立てば猫背もしゃんと伸びました(笑)
親父の戒名の意味は、大局的な視座に立ち、物事を判断して動かしていく、という意味です。
あきらめない心を発揮するには、大局的な視点が必要なのだ、と、墓前で親父が語りかけてくるようでした。
▼実家からみた小浜の風景
一点突破の瞬発力や勢いも必要です。
しかし、やっぱり大局的な視座に立ち、ゆったりと未来を見つめるおおらかさもまた必要だと。
私は、おおらかにあきらめない心を持ち続けようと想います。
今日の福井は、夜中は雷鳴が鳴り響き、朝は記録的大雨、昼からは快晴。
まるで、親父の人生のようです。
さてさて、私も同じような人生になるのでしょうか???
すみません。今回は、私のまったくの個人的な想いでした。
▼幼いころよく遊んだ小浜の海。あの半島に大飯原発がある。
昨日は、四年前に他界した親父の命日です。
父の故郷の福井県小浜市に墓参りに行ってきました。
小浜市は若狭湾に面した小さな港町。
私自身は借家住まいの福井市で生まれ育ちました。
ですが、本家のある小浜市には特別の想いがあるのです。
ご存知のように、小浜市を含む福井県若狭地方は世界一の原発集中立地地帯です。
私の実家(親父の生家)も、再稼働した大飯原発10キロメートル圏内に位置しています。
小さな港街は、もし地震による津波がきたらひとたまりもないでしょう。
東日本大震災では、津波が小さな港街を次々に襲いました。
もし小浜に地震が直撃したら、津波が街を襲い、そして放射能が降り注ぐでしょう。
私が、今回の東日本大震災をどうしても他人事にはできなかったもうひとつの理由が、ここにあります。
▼小浜市の実家
昨年の同じ時期に書いたブログの内容からも、抜粋で以下の通り紹介します(太字)。
私の親父は小さな街の小さな農家が生んだ政治家でした。
国政に挑戦すること11回。6勝5敗でかろうじて勝ち越しです。
負けても負けても負けても、挑戦する貧しい青年政治家のその姿に、福井の大地に生きる大衆はいつしか心から応援を始めたと聞いています。
小さな田舎からよりよい社会づくりに人生を懸けた親父。
そしてその親父を支え続けた名もなき大衆の未来に懸ける想い。
私の身体には確かに彼らの魂が流れています。
私は、小浜の風土と人々が生みだした親父から「あきらめない心」を学びました。
さて、私が育った福井市は災害多き街です。
戦災の焼け野原から復興途中の2年後に福井地震が起こり(死者約3,900人)、街は壊滅状態でした。
福井地震により「震度7」が設置されました。そしてその「震度7」が初めて適用されたのが阪神大震災でした。
その二つの災害から立ち直り、福井は「不死鳥の街」とも言われたものです。
最近でも、三国町沖に重油タンカーが座礁して日本海が真っ黒い重油にまみれたり、集中豪雨や豪雪が重なります。
いまだに福井市の積雪最大深(203センチ)は、全国の県庁所在地で一番だと聞きます。私が小5のときの「56豪雪(昭和56年豪雪)」も、福井平野に198センチもの積雪があり、たいへんな災害でした。
災害のたび、強くよみがえってきた街の風土もまた、私に「あきらめない心」を強烈なまでに教えてくれました。
災害のリスクを抱える街に生まれ育ち、その街の風土が私に教えてくれた「あきらめない心」を、東日本大震災の被災地にどうしても送り届けたい、その想いが私を震災支援に突き動かしています。
これが私個人がどうしても震災支援に動く、DNAレベルの理由です。
この「心」が、泰阜村ではさらに大きく増幅されます。
きびしい自然環境を生き抜いてきた人びととその風土が発揮する不屈の精神は、私が福井で培った「あきらめない心」をさらに大きく育ててくれました。
小浜の実家の縁側に佇めばなんともゆったりとした気持ちになり、親父の墓の前に立てば猫背もしゃんと伸びました(笑)
親父の戒名の意味は、大局的な視座に立ち、物事を判断して動かしていく、という意味です。
あきらめない心を発揮するには、大局的な視点が必要なのだ、と、墓前で親父が語りかけてくるようでした。
▼実家からみた小浜の風景
一点突破の瞬発力や勢いも必要です。
しかし、やっぱり大局的な視座に立ち、ゆったりと未来を見つめるおおらかさもまた必要だと。
私は、おおらかにあきらめない心を持ち続けようと想います。
今日の福井は、夜中は雷鳴が鳴り響き、朝は記録的大雨、昼からは快晴。
まるで、親父の人生のようです。
さてさて、私も同じような人生になるのでしょうか???
すみません。今回は、私のまったくの個人的な想いでした。
▼幼いころよく遊んだ小浜の海。あの半島に大飯原発がある。
代表 辻だいち