30周年記念の文集に寄稿した、私の拙文も紹介する。
私は1993年に、大学を卒業と同時にこの泰阜村に来た。
最初の1年を想いだして綴った文章である。
1993年の混沌さから
相談員 辻英之(だいち)
1993年、大学を卒業すると同時に、私は泰阜村にやって来た。まだ旧母屋の裏玄関に屋根がかかっていない時期だ。登り窯が完成した直後でもある。鶏小屋も大きいままで、大掃除の時は浄化槽に潜り込んで汚水まみれになっていた時代である。
私と同期のこどもは5人と一匹。小4のミニー、小5のタク、中1のポッポとヒロシ。途中の6月から参加した中1のマサル。そして犬のコロだ。14人のうち中学生が10人もいて、それはそれは雰囲気が重たい代だった。小学生なら「登山行こうか!」「おおー!」となるところが、中学生は「登山行こうか!」「はあ?うぜえよ」という雰囲気で(もっとも、その頃には「うぜえよ」なんていう言葉はなかったが)、物事がハツラツとは進まない。しかも女子が2人しかいない。今思えば、年齢バランスや男女バランスがあまり良くない代だった。マイッタマイッタ。
今の六軒長屋の場所には工房と図書館があった。図書館の横には布団部屋なるものがあり、そのさらに横にある一番端の部屋が私の寝泊まりする部屋だった。トタンの壁と屋根。夏の夜に部屋に戻ると数多くの虫があおむけで死んでいた。きっと熱中症だろう。冬の朝には布団が吐息で凍っていて「今日も生きててよかった」と目覚めたものだ。ほとんどプライバシーはなく、何をやっているかはこどもたちに筒抜けだったろう。でも、その当時、ユーレイの出る「三角地帯」というものがあり、私の部屋の目の前はその一つである「トイレ裏」で恐れられていたから案外こどもたちの姿はなかった。ヨカッタヨカッタ(笑)
この代では夢屋というこどもの店を始めた。こどもたちでお金を稼ぎ、生活費を捻出しようという試みだった。こどもたちが通帳を管理していたからスゴイ。稼いだお金は15万円ほど。数か月の電気料と水道料を支払ったものだからこれまたスゴイ。自分たちの暮らしは自分たちで創る。食事、洗濯、掃除もするし、家も建設した。時間も創る。でも、お金も創るとは思わなかった。「だいだらぼっち」の精神のひとつを具現化した夢屋。今も続く夢屋の最初をこどもたちと共に創ったんだな、と勝手に想い出に浸る。
学校の教員になる前に、教室の外の学びの場で2年間研修をと思っていた。でも、1993年のこどもたちと暮らして、こっちの方がおもしろくなった。そのまま24年が経つ。そう想えば、自分の人生を左右した1年だったということになる。とにかくゴチャゴチャして混沌とした暮らしだった。その混沌さがよかった。混沌さから生まれるパワーこそ、「だいだらぼっち」の源だと改めて想う。
10数年前に、最年少だったミニーが不慮の交通事故で他界した。そして数年前にコロも死んだ。1993年の代全員で集まることはもう叶わない。それでもこの文集という機会にあの頃をしっかり想い出すことができた。編集委員の皆さんに、心から感謝したい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/10/7b1709135f35262fd31255a2455cb503.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/4b/38d6cd8ff5b07468f5f049320ad847c7.jpg)
あれから24年、気付けばもう二回りだ。
次の二周りは、もう70歳か。
その頃にはもう少しましな文章を書けるだろう。
代表 辻だいち
私は1993年に、大学を卒業と同時にこの泰阜村に来た。
最初の1年を想いだして綴った文章である。
1993年の混沌さから
相談員 辻英之(だいち)
1993年、大学を卒業すると同時に、私は泰阜村にやって来た。まだ旧母屋の裏玄関に屋根がかかっていない時期だ。登り窯が完成した直後でもある。鶏小屋も大きいままで、大掃除の時は浄化槽に潜り込んで汚水まみれになっていた時代である。
私と同期のこどもは5人と一匹。小4のミニー、小5のタク、中1のポッポとヒロシ。途中の6月から参加した中1のマサル。そして犬のコロだ。14人のうち中学生が10人もいて、それはそれは雰囲気が重たい代だった。小学生なら「登山行こうか!」「おおー!」となるところが、中学生は「登山行こうか!」「はあ?うぜえよ」という雰囲気で(もっとも、その頃には「うぜえよ」なんていう言葉はなかったが)、物事がハツラツとは進まない。しかも女子が2人しかいない。今思えば、年齢バランスや男女バランスがあまり良くない代だった。マイッタマイッタ。
今の六軒長屋の場所には工房と図書館があった。図書館の横には布団部屋なるものがあり、そのさらに横にある一番端の部屋が私の寝泊まりする部屋だった。トタンの壁と屋根。夏の夜に部屋に戻ると数多くの虫があおむけで死んでいた。きっと熱中症だろう。冬の朝には布団が吐息で凍っていて「今日も生きててよかった」と目覚めたものだ。ほとんどプライバシーはなく、何をやっているかはこどもたちに筒抜けだったろう。でも、その当時、ユーレイの出る「三角地帯」というものがあり、私の部屋の目の前はその一つである「トイレ裏」で恐れられていたから案外こどもたちの姿はなかった。ヨカッタヨカッタ(笑)
この代では夢屋というこどもの店を始めた。こどもたちでお金を稼ぎ、生活費を捻出しようという試みだった。こどもたちが通帳を管理していたからスゴイ。稼いだお金は15万円ほど。数か月の電気料と水道料を支払ったものだからこれまたスゴイ。自分たちの暮らしは自分たちで創る。食事、洗濯、掃除もするし、家も建設した。時間も創る。でも、お金も創るとは思わなかった。「だいだらぼっち」の精神のひとつを具現化した夢屋。今も続く夢屋の最初をこどもたちと共に創ったんだな、と勝手に想い出に浸る。
学校の教員になる前に、教室の外の学びの場で2年間研修をと思っていた。でも、1993年のこどもたちと暮らして、こっちの方がおもしろくなった。そのまま24年が経つ。そう想えば、自分の人生を左右した1年だったということになる。とにかくゴチャゴチャして混沌とした暮らしだった。その混沌さがよかった。混沌さから生まれるパワーこそ、「だいだらぼっち」の源だと改めて想う。
10数年前に、最年少だったミニーが不慮の交通事故で他界した。そして数年前にコロも死んだ。1993年の代全員で集まることはもう叶わない。それでもこの文集という機会にあの頃をしっかり想い出すことができた。編集委員の皆さんに、心から感謝したい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/10/7b1709135f35262fd31255a2455cb503.jpg)
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あれから24年、気付けばもう二回りだ。
次の二周りは、もう70歳か。
その頃にはもう少しましな文章を書けるだろう。
代表 辻だいち