福島に来ています。
福島県内はレンタカーがどの会社もなぜか満車満車で(復興需要?)、足の確保に四苦八苦しました。
その足で、広野町の原発20キロ圏警戒区域線まで行きました。
ものものしい機動隊と警察のひとびとが行く手を阻んでいます。
さすがに写真を撮るような雰囲気でもありませんでした。
なので、その手前の写真を一枚。
警戒区域の手前には、作業服を着た人でにぎわうコンビニと民宿。
人が住まないほうがいいところに確かに人びとの生活の臭いがありました。
これをどうとらえればいいのでしょうか。
浜通り(福島県の沿岸地域の呼び名)には強風が吹き荒れていました。
この風に乗って禍の元凶が拡散していくのだな~と、ワゴン車やバンがひしめくコンビニの駐車場で空を見上げました。
久之浜、四倉、豊間、薄磯、小浜・・・
いわき市海岸沿いで、津波によって多くの犠牲者が出た集落です。
昨年4月に初めて足を踏み入れてから、もう何度訪れたでしょうか。
あれほど瓦礫でめちゃくちゃだった場所、サンダルや写真が散乱していた場所が、家の基礎を残してきれいさっぱりです。
何もない。
▼豊間集落 すべて海にもっていかれた。
▼豊間中学校 言葉も出ない。
でも確かにここにはひとびとの暮らしの営みがあったのです。
ここに住んでいた人々の暮らしはいったいどうなってしまうのでしょうか。
多くの命が引きずり込まれていったいわきの海。
その海のかなたから聞こえてくる無念の想いに耳を傾け、ただただ佇みました。
▼この海には無念の想いが漂っている
このいわきの街から、多くのこどもたちが信州こども山賊キャンプに参加してくれました。
キャンプへの招待が、私たちNPOグリーンウッドと泰阜村が行う震災支援のひとつです。
今回は、こどもを送り出してくれた保護者の方々とお茶会です。
夏キャンプにも冬キャンプにも参加してくれた小1の男の子のお母さんは、現在のいわきの状況をたくさん話してくれました。
幼稚園のこどもは1日に30分だけ外で遊ぶということ。
しかもできるだけ砂や土には触れずに遊ぶということ。
遊具に触って遊ぶだけということ。
小学生は、長い休み時間は週に2回だけ外に出るということ。
体育の時間は、ほとんど屋内で過ごしてるとのこと。
体育館も陥没して使えないので、すみっこでなわとびをしてるということ。
それでも、こどもは泰阜村での体験が楽しみで楽しみでしょうがないと言ってること。
キャンプに参加した全国の友達から年賀状が来てうれしくて、さっそくお返事を書いたこと。
泰阜村から送られてきたお米がほんとにおいしかったとのこと。
もう1人は、夏と冬、いわきからのこどもたちの招待について、現地でとりまとめを一手にとりしきってくれたお母さん。
一昨年夏、いわきから山賊キャンプにお子さんが参加しました。
3月11日の震災後、連絡がとれずに心配で、4月上旬になってようやく安否を確認できました。
そして4月8日、私はこの少年とお母さんに会いに、いわきまで足を運びました。
そこから、いわきの小さな地域と泰阜村の縁が始まりました。
そのお母さんからは、中学生はさすがに部活などは外でやってるとのこと。
でも、街にあるグラウンドなどはほとんど瓦礫や除染処理物でいっぱいだということ。
そしていわきを襲う度重なる災害を、笑い飛ばす強(したたか)かさも。
福島が抱える様々な状況を聞きました。聞けば聞くほど、こどもたちが苦しい現実に追いやられていることを感じます。
それでも、いわき市と泰阜村に創られた新たな縁を、今後、息長く、豊かに紡いでいこうと熱く語り合いました。
縁をつむいでいく-
「そうしよう」と強く想わなければ、縁は紡げません。
私は「そうしよう」と強く想います。
泰阜村の人々が脈々と営んできた「支えあい・お互い様」の暮らしの文化。
今、泰阜の人々と、いわきの人々が「支えあい・お互い様」で縁を紡ぎ始めます。
この縁、なんて素敵なんでしょうね。
要は「強い意志」です。
強い意志をもって、この豊かで素敵な縁を紡ぎます。
福島県内はレンタカーがどの会社もなぜか満車満車で(復興需要?)、足の確保に四苦八苦しました。
その足で、広野町の原発20キロ圏警戒区域線まで行きました。
ものものしい機動隊と警察のひとびとが行く手を阻んでいます。
さすがに写真を撮るような雰囲気でもありませんでした。
なので、その手前の写真を一枚。
警戒区域の手前には、作業服を着た人でにぎわうコンビニと民宿。
人が住まないほうがいいところに確かに人びとの生活の臭いがありました。
これをどうとらえればいいのでしょうか。
浜通り(福島県の沿岸地域の呼び名)には強風が吹き荒れていました。
この風に乗って禍の元凶が拡散していくのだな~と、ワゴン車やバンがひしめくコンビニの駐車場で空を見上げました。
久之浜、四倉、豊間、薄磯、小浜・・・
いわき市海岸沿いで、津波によって多くの犠牲者が出た集落です。
昨年4月に初めて足を踏み入れてから、もう何度訪れたでしょうか。
あれほど瓦礫でめちゃくちゃだった場所、サンダルや写真が散乱していた場所が、家の基礎を残してきれいさっぱりです。
何もない。
▼豊間集落 すべて海にもっていかれた。
▼豊間中学校 言葉も出ない。
でも確かにここにはひとびとの暮らしの営みがあったのです。
ここに住んでいた人々の暮らしはいったいどうなってしまうのでしょうか。
多くの命が引きずり込まれていったいわきの海。
その海のかなたから聞こえてくる無念の想いに耳を傾け、ただただ佇みました。
▼この海には無念の想いが漂っている
このいわきの街から、多くのこどもたちが信州こども山賊キャンプに参加してくれました。
キャンプへの招待が、私たちNPOグリーンウッドと泰阜村が行う震災支援のひとつです。
今回は、こどもを送り出してくれた保護者の方々とお茶会です。
夏キャンプにも冬キャンプにも参加してくれた小1の男の子のお母さんは、現在のいわきの状況をたくさん話してくれました。
幼稚園のこどもは1日に30分だけ外で遊ぶということ。
しかもできるだけ砂や土には触れずに遊ぶということ。
遊具に触って遊ぶだけということ。
小学生は、長い休み時間は週に2回だけ外に出るということ。
体育の時間は、ほとんど屋内で過ごしてるとのこと。
体育館も陥没して使えないので、すみっこでなわとびをしてるということ。
それでも、こどもは泰阜村での体験が楽しみで楽しみでしょうがないと言ってること。
キャンプに参加した全国の友達から年賀状が来てうれしくて、さっそくお返事を書いたこと。
泰阜村から送られてきたお米がほんとにおいしかったとのこと。
※今度、この親子から届いた手紙も紹介します。
もう1人は、夏と冬、いわきからのこどもたちの招待について、現地でとりまとめを一手にとりしきってくれたお母さん。
一昨年夏、いわきから山賊キャンプにお子さんが参加しました。
3月11日の震災後、連絡がとれずに心配で、4月上旬になってようやく安否を確認できました。
そして4月8日、私はこの少年とお母さんに会いに、いわきまで足を運びました。
そこから、いわきの小さな地域と泰阜村の縁が始まりました。
そのお母さんからは、中学生はさすがに部活などは外でやってるとのこと。
でも、街にあるグラウンドなどはほとんど瓦礫や除染処理物でいっぱいだということ。
そしていわきを襲う度重なる災害を、笑い飛ばす強(したたか)かさも。
福島が抱える様々な状況を聞きました。聞けば聞くほど、こどもたちが苦しい現実に追いやられていることを感じます。
それでも、いわき市と泰阜村に創られた新たな縁を、今後、息長く、豊かに紡いでいこうと熱く語り合いました。
縁をつむいでいく-
「そうしよう」と強く想わなければ、縁は紡げません。
私は「そうしよう」と強く想います。
泰阜村の人々が脈々と営んできた「支えあい・お互い様」の暮らしの文化。
今、泰阜の人々と、いわきの人々が「支えあい・お互い様」で縁を紡ぎ始めます。
この縁、なんて素敵なんでしょうね。
要は「強い意志」です。
強い意志をもって、この豊かで素敵な縁を紡ぎます。
代表 辻だいち