感想

バラとおわら風の盆と釣りなどの雑記

胎内潜

2007年11月28日 | 雑記

宿場と唱る所は家の前に庇を長くのばして架かる、大小の人家すべてかくのごとし。雪中はさら也、平日も往来とす。これによりて雪中の街(ちまた)は用なくが如くなれば、人家の雪をここに積。次第に重(かさなり)て両側の家の間に雪の堤を築たるたるが如し。ここに於て所々に雪の洞をひらき、庇より庇に通う、これを里言に胎内潜(たいないくぐり)という、又間夫(まぶ)ともいふ。間夫とは金堀の方言なるを借りて用ふる也。

(北越雪譜 より抜粋)

新潟の雪の多い地方の道路の中央には、融雪パイプが埋め込まれ、そこからスプリンクラーのように水が流れ雪を溶かしています。この装置は標高が高く気温がマイナスになるところでは、使えませんので長野県で見かけることはほとんどありません。この装置が出来る前、自動車が今のように普及する前までは、中心の道路は道路としての機能ではなく、もっぱら雪降ろしをした雪の捨て場として利用されていました。もちろん今も雪降ろしが必要であるので、雁木の上には梯子が付けられています。先日の高田の記事の中でこの両脇の雁木通りを結ぶ雪のトンネルのことを書きましたが、江戸時代には、このトンネルを胎内潜と言っていたようです。おもしろいのは、間夫とも呼んでいたことですが、両方とも言いえて妙と言えます。胎内潜は1年のうちかつては半年もの間雪が積もるこの地方の重要な生活道路としての役割を担っていました。北越雪譜には、雪を美しさを愛でるのは雪浅き国の人々の楽しみで、越後の人は毎年毎年幾丈の雪を見るので何の楽しみがあろうか、「雪の為に力を尽くし財を費やし千辛万苦する」と述べています。もちろんこの胎内潜も雪堀職人を雇い掘らせていたようです。また雪に対する備えに係る経費も手間も膨大でありました。

 

 

 

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雁木通り 高田 Ⅱ

2007年11月28日 | 雑記

 

 

 

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