北信濃から東信濃の塩の流通ルートをよく見ると、興味深いことが判ります。まず江戸からのルートは小諸で佐久方面と上田方面へ分岐し、上田からは小県の郡部へと流通しています。また直江津ルートは長野から上田に向かい、上田からやはり小県へと向っています。ところで、この直江津ルートの塩は小諸、佐久方面へは向わず、また江戸ルートの塩は長野方面へは向っていません。つまりこのルートの塩の道の終点は上田及び小県でありました。これは現在も上田に残っている塩尻という(塩尻市ではありません)地名もその証拠であろうと推測されます。
塩の道のルート図を眺めながら上田が終点だったということをぼんやり考えていると、新たな疑問が湧いてきます。上田の地名には、塩の付くものが数多くあります。(旧)塩田村(旧)塩尻村を始め、塩川(旧丸子町)、塩野入(青木村)、塩野(神社)、塩水(別所温泉)など。これはどういう意味を持っているのでしょうか。この海から遠く離れた山の地にかつては塩水が湧き出る場所があったと考えることが自然のような気がします。しかしそういった話は今まで聞いたことはありません。ただはるか昔、おそらく上田という地名が登場する頃にはこういった名称がついていたと思われます。すると先ほどの塩留=塩尻という推察は時代的に整合しなくなります。戦国時代は武田の支配下に一時あった時は、武田の今川の塩留にあった時以外は、静岡から塩が直接入ってきていたと考えられますが、その前後の時代はやはり上杉支配下の直江津から善光寺経由や新潟の信濃川の舟運で十日町経由で入ってきたと思われます。その後江戸幕府が安定してくると、前述の塩の道のルートが確立して行きました。塩の道のルートはその後明治まで続いています。塩は人が生きて行く上で必要不可欠なものなので、有史以来、なんらかの方法で山の民も入手していたはずですので、我々が考えている以上に、古代から現在まで大規模な流通が広い地域で行われており、そう思うと、そこに生きてきた庶民の文書には残らない生き生きとした暮らしぶりがあったこと。そういったことに思いをめぐらすのもいいのではないかと思います。
塩の道のルート図を眺めながら上田が終点だったということをぼんやり考えていると、新たな疑問が湧いてきます。上田の地名には、塩の付くものが数多くあります。(旧)塩田村(旧)塩尻村を始め、塩川(旧丸子町)、塩野入(青木村)、塩野(神社)、塩水(別所温泉)など。これはどういう意味を持っているのでしょうか。この海から遠く離れた山の地にかつては塩水が湧き出る場所があったと考えることが自然のような気がします。しかしそういった話は今まで聞いたことはありません。ただはるか昔、おそらく上田という地名が登場する頃にはこういった名称がついていたと思われます。すると先ほどの塩留=塩尻という推察は時代的に整合しなくなります。戦国時代は武田の支配下に一時あった時は、武田の今川の塩留にあった時以外は、静岡から塩が直接入ってきていたと考えられますが、その前後の時代はやはり上杉支配下の直江津から善光寺経由や新潟の信濃川の舟運で十日町経由で入ってきたと思われます。その後江戸幕府が安定してくると、前述の塩の道のルートが確立して行きました。塩の道のルートはその後明治まで続いています。塩は人が生きて行く上で必要不可欠なものなので、有史以来、なんらかの方法で山の民も入手していたはずですので、我々が考えている以上に、古代から現在まで大規模な流通が広い地域で行われており、そう思うと、そこに生きてきた庶民の文書には残らない生き生きとした暮らしぶりがあったこと。そういったことに思いをめぐらすのもいいのではないかと思います。