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バラとおわら風の盆と釣りなどの雑記

塩の道 Ⅰ 道草

2007年04月23日 | 雑記
長野県立歴史館内にはボタンを押すと点滅しながらルートをたどってくれる大きな塩の道の地図パネルがあります。ちょうど宮本常一の「塩の道」(講談社学術文庫)を読んだばかりでしたので、喜んでボタンを押してみました(笑)このパネルは宮本の「塩の道」にも出てくる「信濃の塩道」で山深い信濃にどのように塩が運ばれていたかを図示しているものです。これによるとかつては瀬戸内海産の塩を運んでくるルートがいくつかあり、主として海運と川運により江戸から群馬の倉賀野まで運び、中馬あるいは牛を利用して上田をはじめとして、信州各地まで運んでいるルートや糸魚川から千国経由のルート、直江津から北国街道のルート、富士川から山梨ルート、桑名からの木曽川ルート、矢作川から足助経由の飯田方面へのルートなどがありました。歴史館には中馬の説明があり、牛でも運ばれていたということでしたが、宮本は中馬(ちゅうま)よりも牛がメインであったと著書の中で述べています。牛に引かれて善光寺参りという説話も残されている通り、信濃の江戸から明治までの陸運の主体は牛が日常的であったようです。馬よりも牛が何故利用されたかを、宮本は「塩の道」の中で述べていますが、その中でおもしろかったのは、牛は道に生えている草を食べながら歩いて行くので、エサ代がかからず、また馬のように宿泊場所も選ばなかったということでした。馬は馬宿に泊まらなけれならず、牛は、どこでも円陣を組み中で火を焚き、人は牛の腹に体をつけて寝ればよかったので、人も牛も費用がそれほどかからなかったということです。火を焚くのは、もちろんオオカミから牛も人も身を守るためです。牛は現在は牧場で見かけるくらいですが、かつてはとても身近な存在だったようです。著書には書いてありませんでしたが、「道草」の語源はきっとここから(牛が道端の草を食べるために先に進まないこと)きているんだと思いました(笑)



最近民俗学、特に宮本常一が静かなブームなのか、長野の書店では特設コーナーを設けています。




旧北国街道 柳町の町並み 
当時陸舟(おかぶね)と呼ばれていた牛はこういった街道に沿った細い道を通っていました。

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