一生

人生観と死生観

重障児と音楽2

2009-01-21 15:07:30 | 哲学
1月21日 曇りのち一時晴れ
 オバマ新大統領の就任演説は好評のようだがかなり慎重に構えているようだ。さて前項の続きに入る。
 音楽の世界は言葉の世界よりも奥が深いように思われる。メロディーは脳に沁みつくように覚えこまれる。幼い頃に聞いて覚えた子守唄のメロディーは母のふところのようになつかしく、成人してからもなにかの拍子によみがえる。
 MがまだM市の病院に入院中のこと、意識不明の状態からやっと目覚めたころのことであった。妻の兄夫婦お見舞いにくれた小さなオルゴールの音に聞き入っている様子は当時の私たちにとって新たな発見であった。
 オルゴールはあの日本古来の子守唄
  ねんねんころりよ、おころりよ
  坊やはよい子だ ねんねしな
のメロディーを繰り返していた。彼は確かにその音を聞いているのだ。試みにそばによって手で軽く音を立てると瞬きをする。水底に引き入れられる渦の中に、一瞬上の世界の空が見えるような感じだろうか。
 赤ん坊の意識の始まりはどのようなものか、専門の医学や心理学はどのように記述するのか私は詳しいことは分からないが、Mが予防接種の副作用の脳炎のために
意識不明になり、そしてそこから徐々に回復する過程を必死の思いで見ていると、音楽の世界は言語の世界よりももっと人間存在の原型に近いように思う。
 天才モツアルトの音楽は人の心を癒すといわれるが、一方で私は病児の枕元でひびく子守唄のメロディーから、人の心の深い秘密に近づく思いであった。

重障児と音楽1

2009-01-20 17:28:15 | 哲学
1月20日 晴れ後薄曇
 我が家の二男Mは最重度の心身障害児であった。知能は測定できないほど低い。お話はできない。身体機能はといえば、歩けない、立てない、座れない。わずかに寝返りがうて、ときに肘をついて腹這いの姿勢がとれるだけであった。
 彼は生まれつきの重障児ではなかった。今さら愚痴めいたことを言うわけではないが、生まれたときは五体すべて満足、心身の発達も早く、見守る私たちも「這えば立て、立てば歩めの親心」で楽しみでならなかった。ユーモアがあって人を和ませ、幼いながらに美的センス旺盛なのには驚いた。紅葉の名所の仙山線の列車に乗ったとき、窓外の景色にキャーキャー声をあげて誉めちぎっていた彼の姿が私の記憶に焼きついている。
 そんなMに突然の災難が降りかかってきた。
 それは彼が1歳1ヶ月のとき受けたインフルエンザ予防接種だった。予防接種の数時間後からはじまった烈しい副作用で、脳炎にかかり、一時は生命も危うかった。
やっと生命は取りとめたものの、今までの姿はもはやなく、一級の障害者となってしまった。一家はどん底に落ちこんだ。
 そんなMが音楽好きであることが分かったのはかなり時が経ってからであった。私たちには闇の中に射し込んだ一条の光であった。
 音楽を喜ぶ以外に取り得はなさそうな状態のMだった。音楽を通じて情操教育をやるほか教育可能性はほとんどゼロに等しく、これを試みることが親の課題となってゆき、そしてそれは成功だった。(その次第は次回に)

水の中の炎のように

2009-01-19 11:33:35 | 哲学
1月19日 曇りのち晴れ
 私は自分がとくに好奇心の強い人間であるとは思わないが、新しいことには燃える方である。それは私の中の詩人の心だと思っている。上杉謙信は天才的な戦術家でありながら詩心の強い人であった。宗教心が強い彼は集中が出来、漢詩はお手のものであった。能登に出兵して七尾城を落としたときの詩は達成感と旅情の混じった傑作といわれる。「霜は軍営に満ちて秋気深し・・・」
 時として私の中の詩人の心は燃えるが、傘寿を前にして体力も脳の持続力も落ちている今、無理をしても仕方がない。願わくはそれを尊重しながら冷静に、いわば水の中の炎のように扱うことが出来ればと思っている。

オバマで世界は変わる?

2009-01-18 12:20:42 | 哲学
1月18日 曇り
 オバマがフィラデルフィアから列車に乗り込みワシントンに向かった。リンカーンの故事に倣ったのだという。これから2日後彼は大統領の宣誓をおこなうが、そのとき用いる聖書もかってリンカーンが使ったものだという。偉大な先人にあやかってこうした振舞いをするオバマは、自分の気持ちからやっている心算に違いないが、パフォーマンスの効果も大きいことはいかにもアメリカ的である。
 実際はこれからが問題なのだ。難問は山のようにあり、どれひとつとっても難しそうだ。経済は待ったなしの危機的様相だし、アフガン、イラクの治安も悪い。その上イスラエルとガザのハマスとの紛争もある。ブッシュの遺産はとんでもないものだった。世界はすぐには変わりそうもない。
 こうなれば出来るだけ冷静に対処するほかないだろう。オバマよ、頑張れ!

この年の決意

2009-01-17 11:04:35 | 哲学
1月17日 晴れ
 2009年も日々の過ぎること早く、もう1月17日阪神淡路大震災の記念日になった。美しい神戸の町が壊滅し、多くの人ガ犠牲になった。子供を亡くした親、親をなくした子、人の絆の断たれるとき心にトラウマは何時までも残る。
 震災ではないが我が家の二男の予防接種事故にあった日は私たち一家の記念日だ。恐ろしい試錬をくぐりぬけて彼が笑顔を取り戻した時、重度の障害者ながらどんなにか明るい光を周囲に与えたことであろう。まさにこのいのちは人の光であった(新約聖書、ヨハネ伝1章4節)。彼の命日には墓参り欠かさないが、私の心の中ではいつも彼の笑顔が生きている。彼は永遠のいのちをもっているかのように私たちに今も語りかけている。今年は私も傘寿、彼のことを起点にもう1冊本を書くつもり。どうかすべてのことが支障なく進み、妨害が起こらないように祈る。

講演の後の感想

2009-01-16 09:23:34 | 哲学
1月16日 晴れ
 昨日F高専で講演会をおこなった。学生約60名、みんな静かに聞いてくれた。私は3年前の脳外科の手術以来講演はーもともと上手でないがーとても下手になったことを自覚していたので、どうなることかとわれながら心配していたのだが、学校側の写真のプロジェクションやオーバーヘッド・プロジェクターの操作協力によって、思いのほかスムーズにいった。講演後演題の「ニッポニウムの発見物語ー小川正孝の奮闘」の中味に感銘を受けたという感想もあり、ひとまず安心した。要するに話なら話に専念することが出来れば割と難なく言葉が出るのである。一寸前は話したり機械操作をしたりという頭の切り替えに少し時間がかかるようになり、モタモタして聴衆を待たせることになってうまくなかったのである。これは老齢者の心掛けとして注意しておくことにする。頭の働きは若いときと同じには行かないが、直観力は天与の賜物で衰えないと信じるゆえに、まだまだ世に益する気概を持つことができるのだ。

聞く諺と作る諺

2009-01-15 16:37:25 | 哲学
1月15日 晴れ
 成人の日でなくなったが小正月の行事は日本各地で行われる。小正月とは何なのか、今もって分からない。古い農耕文化がタミル文明と何らかの関係があるのか、誰か大野晋先生の学説を発展させる人はでないか。
 諺は人の知恵をあらわし、よいものが多いが、お互いに矛盾するものもある。どちらに従うかどうかは常識の範囲内で判断することになる。
 ところで諺は長い文化の伝統の中で作り出されたもので、これを聞くこと、文章に引用することが多い。だれが作ったか分からないものも多い。長屋のご隠居さんが作ったのではないかと思われるようなものがかえって親しみやすい。立派な文人が作った金言は引用すると箔がつくが、親しめるかというとそうはいかない。諺を聞く態度は裃(かみしも)つけて聞くものではないらしい。

アメリカの洗濯

2009-01-14 09:47:56 | 哲学
1月14日 晴れ
 なに?アメリカの洗濯とは?アメリカの選択の間違いではないの?
いや、アメリカの洗濯なら私も経験したのはコインランドリーだ。ここで言っているのは文字通りアメリカ合衆国の洗濯だ。オバマが洗濯するのだ。アメリカはブッシュの時代金持ち状態にあぐらをかいて、すき放題やって来て、世界の火種を作ったのだ。それを改めるのだ。オバマにとって容易ならざる大仕事。しかしやりがいはあるはず。頑張れ、オバマ!

孫とオバマ演説を聴く

2009-01-13 13:34:08 | 哲学
1月13日 晴れ後曇り
 オバマの演説上手に驚いた。孫は英語が苦手だというので、彼の演説集をCDで買って一緒に聞くことにした。人の心をつかむことは人の一番の願いは何かを察することから始まる。そしてその人が口先だけでなく身をもって言ったことを迅速に、誠実に実行することである。彼は大統領選挙の第一段階でアメリカの傷つけられた誇りを取り戻し、アメリカの本来の理想を実行しようと訴えた。そして見事当選したのである。問題はこれからだ。如何に困難を打開するか。前途は容易でない。恐らくだれがやっても容易でない。彼は今あまりに期待されることに対して予防線を張っているといわれるが、無理からぬ点もある。
 孫が成長する頃世界と日本はどうなるだろうか。人間希望がないところでは力もでない。オバマのやり方を見て、これからの希望、小さくてもよい、理想を持つこと。そのために彼の演説を聞く。そして研究する。

ブログを止めたくなったら

2009-01-12 09:22:40 | 哲学
1月12日 晴れ
 今日は成人の日だそうだ。1月15日と刷り込まれた成人の日がしょっちゅうずれるようになってから、もうまともに覚える気もしない。便宜主義もいい加減にせよと投げやりな老人クラブの面々に私も成り下がった。
 さて表題のブログを止めたくなったら貴方はどうする?これまで築き上げた数々の財産のようなブログ、惜しいではないかと引き止める声がするって?Come back again, when you wish return. しかしもうその時は誰にも容赦なく訪れる死か、または認識の死(つまりアルツハイマー様脳疾患)が襲っているかもしれない。とすればここはもうひとふん張りしてみるか。こんな風に思ってみることにした私。