goo blog サービス終了のお知らせ 

一生

人生観と死生観

小さな親切

2010-09-21 16:27:46 | 哲学
9月21日 曇り後晴れ
 今日はなくなった二男の誕生日。祝福されて生まれ、周囲の人々を和ませた笑顔はもはやない。彼を記念するランタンはいま宮城県児童館にある。これを予防接種犠牲者の慰霊のシンボルとしてまた未来の子どものすこやかな成長を祈るため、新しい場所において新たな出発をする話が進んでいる。うまくいくように祈る。
 さて人はだれでも隣人をはじめから憎んだりはしない。自分の気持ちに余裕がない人たちが自己主張だけにこだわるのだ。他人のことを少しでも考える習慣をつけること、これを学校教育の大事な柱とするように私は願っている。できない話ではない。たとえばコンビニのドアを開けるとき後ろの人が入ろうとしていたらドアを一寸長く支える、これはエチケットとなっている。昔の日本人はこういう習慣に欠けていたが、現代日本人はこれをやっている人が大部分だと思う。やらない人もいるが多くの人は心掛けてドアを一寸長くあとの人のために支える。そういった小さな親切が社会をよくするのだ。

加藤周一の入信

2010-09-19 17:14:52 | 哲学
9月19日 晴れ
 日曜日に思う加藤周一のこと。文芸評論家として、知識人として戦後世代をリードした加藤周一が亡くなり、その著作集が出版されている。出版社は岩波書店である。彼の作品は多くよんだわけではないが、何か透明な視野に鋭い視線が注がれて、何ものをも照らし出してしまうような印象であった。尊敬すべき人ではあるが、少し付き合いづらい感じの秀才という総合感がある人物と思ったものだ。
 その加藤周一が死の少し前にカトリックのキリスト教に入信していたそうである。これは最近の朝日新聞の文化欄に載った記事である。かれの母と姉妹がカトリックなのでその影響があったとあり、さらに彼はこの世の次元を超えた高い次元の存在を感じていたというようなことが書かれていた。知識人としてはたとえば大江健三郎のようにキリスト教世界に近いところにまでやってきながら、最後の一歩が踏み出せないまま不可知論にとどまっている人もいる。私は加藤もそうした立場かと思っていた。
 死はすべての人に公平にやってくる。死を前にして、衒いも何もあったものではない。人は最期の時には子どものように超越者の前に素直になるであろう。神の世界を早くから知ることは地上の知恵の世界にこだわり続けるより尊い。

いのちの言葉

2010-09-16 08:59:13 | 哲学
9月16日 雨
 今日は何の日?私の誕生日で、私は81歳になるしがないご老人。はるか昔新潟市に生まれ、間もなく茨城の田舎に移り住んだ田舎者。人は大自然に囲まれて生きるのが本来の幸せと思っている人間。
 さて今日の話題はいのちの言葉。人を活かす言葉というものがある。人は何のために生きるか。それを知らないで生きる人ガ多い。しかし人はある使命のために生きる。神はそれを適当なときに人に示したまう。その実例をここに述べる。北田康弘というピアニスト・テノール歌手は押さないときに失明し、親の離婚で施設に出され、好きな音楽も教師に叱られ、そんな逆境のとき、ある教師に励まされた。それはいのちの言葉であった。好きなことは頑張ってもやれということであった。それは彼にとって終生忘れられないいのちの言葉であったのだ。全盲の苦境の中で勉強に励み、一人前の音楽家になった。それだけでなく彼を生かした言葉に聖霊の息吹を感じた。彼は教会で結婚、妻とともに洗礼を受けた。この物語はテレビでも放映されたそうだ。彼の恩師は吉村先生という。無教会の信者であった。

頭の体操

2010-09-15 15:35:55 | 哲学
9月15日 曇り
 睡眠不足があると頭が働かない。そこで体操は切り替えのよい手段である。老人になると記憶が悪くなり、まったく忘れたわけでもないのに、思い出すのに時間がかかる。体操でもして頭を柔軟にしておくべきだ。
 脳というのは使わなければ衰える。しかし使いすぎれば疲れて役立たずになる。よい休息は不可欠だ。ひょっといい考えが睡眠中に(正確には睡眠の中断されたときなど)起こったり、休んだあとでやってくる。脳は無限の可能性を含んでいるというが、それも使いようだ。大抵はそんなには発展性はない。しかし案外愚かに見える人間が良いアイデアを出したりするから世の中面白いのだ。冒険心のあるところに意外な発展もある。歴史上大航海時代が人間に及ぼした影響は計り知れないのである。イギリス人やオランダ人が時に海賊行為を働いて領土を拡大し、リッチになる過程は研究に値する。消極的平和主義は草食系若者だけを輩出するのではないか。大いに日本人は奮起せよ。

細かいことにこだわる日本人

2010-09-11 19:59:46 | 哲学
9月11日 曇り
 9.11の記念日だ。アメリカではイスラム教寺院が事件のあったサイトの近くに建つ計画が大きな問題になっているらしい。宗教が人の和をもたらさず、かえって憎しみや対立を煽ることは今に始まったことではない。こだわりが人を頑固にまた烈しい情念に導く。
 本当は人の心に自由をもたらすのが真の宗教だと思う。とらわれない心である。相手のいうことをよく聞き、それを理解して、平和を作るように振舞う。新しい生き方がそこから始まるのだ。
 日本人は細かいことにこだわりやすい。あら捜しの達人になってえらくなったかのように思うのはまったく変な趣味ということだ。私の書いたもののひとつの言葉が化学の新しい定義から外れているといってきた人がいる。もともとの意義からはまったく外れているわけではないのだが、揚げ足取りの趣味のある人には、目に付いて仕方がないのだろう。私にとってひとつの言葉のために文章を書いているのではない。全体の文章の奥にあるものの意味を正しく掴んでもらいたい。それが分からぬ読者はそもそも私に相応しくない人である。

私はだれ?何処にいる?

2010-09-10 17:17:38 | 哲学
9月10日 晴れ
 哲学を始めたのはターレスと言われるが、彼のことは若いときに少しかじっただけ。それに続く自然哲学者たちのことも概論的に学んだだけだ。哲学というのは高尚に考えればきりもない。私流には哲学は[私はだれ?私は何処にいる?」の問いが哲学で、若いときから今まで一貫した問いと思っている。私自身はしばしば私を見失う。あっちへ行ったりこっちへきたりー情けない話だ。でも哲学や、そして宗教はここから始まると思うのだ。そして私は不器用な人間でしばしば自分の立ち位置を見失う。そんな情けない私を愛してくれる人もいることを思うとやっぱり生きなければということになる。
 ああ人生!ああ哲学!私は生きている。

考古学への挑戦

2010-09-07 15:33:57 | 哲学
9月7日 晴れ後薄曇
 「古代稲作は中国から朝鮮半島を経て日本に渡ってきた」とするのが今の主要な考古学者たちの見解だそうだが、これに対して異論もあって、確定したものにはなっていないようである。
 何しろ考古学は発掘して確かめる仕事で、物言わぬ土器や装飾品と人骨などからの推定作業は困難を極めることは容易に理解できる。それだからこそこの分野への科学的手法の導入が急務と言うことができる。DNA 解析とか、放射性炭素測定法(とその変種である加速器質量分析法)などを最大限に活用すべきである。
 古代稲作も曖昧な点は古代米のオパールとか籾などを利用して、DNA解析をおこなうと従来判らなかった系統が解明され、伝播経路にも新しい知見を与える。それによると北九州に入ってきた古代稲作は朝鮮半島からの経路と直接中国長江下流域からの経路があるようである(佐藤洋一郎氏)。
 しかしそれだけではない。東北青森には古代から水田耕作がおこなわれ、これが北九州から伝わったとするのが従来説であったが、これには、農業技術上もイネの生態学上も疑問がある。青森に伝わった水田技術は中国の長江から北上し、中国東北部を迂回して、日本海を渡って青森に到達したと考えるほかないのである。これは奈良考古学研究所の寺沢薫氏も示唆するところだが、まだ十分に詰まっているとはいえず、考古学会からは黙殺されている状況だという。北方ルートは依然として?の付いたものであるようだ。
 われわれは最近この問題をいろいろな方面から解きたいと思い、努力している。素人が何を生意気なというのが大家たちの心境であるかもしれない。しかし真理の前には大家も素人もない。考古学の素人のシュリーマンがトロイの遺跡を発掘し、いわゆる専門家たちを驚かした歴史もあるでははないか。こうして稲作渡来の経路の多元性を明らかにすることはわれわれの使命であると思い、今つめの努力をしている。

キリスト教信者の行動

2010-09-06 16:33:07 | 哲学
9月6日 晴天一時薄曇
 海に近いいわきは晴れる日のある時間、薄曇になることがあるので不思議に思っていた。薄い雲は海の成分からきているのだろう。これは気象台に聞けば分かることだろうか。
 さて私は定年退職後、何か漂流しているような感覚になることがある。履歴書のようなものを要求されれば無職と書かざるを得ないが、人間それでは満足できないから、何らかの仕事を持つ。ひとつが終わればつぎの仕事に移る。人間誰しも何かに役に立つ人間だと思いたいのだ。それは生き甲斐というものだ。
 私は聖書を深く学ぶことを生き甲斐にしてきた。キリストの生涯になした奇跡の物語は迫真性がある。目撃者の思い込みがあるかもしれないが、聖書に書いてあることすべてがある真実を目指している。懐疑は上等な知性の証拠のように思っても、それでは人生の解決にならない。パスカルは信仰の中に賭けを見た人で、このスペース(宇宙)の永遠の沈黙を震え上がるほど怖いと思ったのだが、信仰者としての選択をした。そこには彼なりの真実があった。分かる気がする。
 私は無教会の信仰に必ずしもとらわれているわけではない。いわゆる超教会主義はどの教派に属する人にも必要と思っている。無教会では聖書さえ深く学べば行動は要求されないとし、結核で入院している患者さんなどは、「信仰のみ」といってわき目もふらず聖書を読んでいれば救われるとした。しかし健康な人はこの世で行動しないわけにはゆかない。聖書が示す聖霊の導きにしたがって行動するー行動できる人は幸いだ。矢内原忠雄は戦時中にそういう戦いをした。朝鮮を植民地にし、中国を侵略する戦争に続き、太平洋戦争は無理が無理をよんで敗れた。それは不義の戦争だと彼は言った。聖書の学びは戦いそのものであった。
 日野原重明氏が牧師の息子で、教会の信者であるが、その活動は教会を超えている。私は日野原氏に出会ったことから彼の行動がキリスト教でいう「証し」であり、一種の伝道であることを学んだ。直接伝道は牧師がやるといってもしばしばそれは押し付けになる。平信徒が行動によって間接伝道したほうが効果があることもあるだろう。日野原氏の『愛し愛されること、創ること、耐えること』という新老人の会三原則はきわめてキリスト教的であるが、生き甲斐の創出だけを求める現世的な人にも受けいれられている。ひろやかな立場で彼はそういう人たちにキリストの教えを伝えているのだ。
 彼に出会ったことから私は赦しということも大事だということに気付いた。正義の貫徹を願うあまり、人を裁くことに急な人たちがいる。それは伝道にはならない。行動をもって証ししようと思うからには自ら人を裁いてはならない。相手の誠意を引き出す行動原理が必要なのである。

脱学歴社会

2010-08-28 14:59:13 | 哲学
8月28日 晴れ
 日本では東大を頂点とする学歴社会が牢固として存在し、とくに官僚社会では東大信仰、ついでに言えば国家公務員1種合格の成績があとあとまでつきまとうといわれているようだ。近頃民主党が政権をとったことで、脱官僚が言われ、国民もかなり期待したものだが、その完全実行はきわめて困難である。民主党が頑張っても官僚が協力しなければ政策の実行は難しい。やはり有能なものは東大と限らずどの大学出身者でも登用すべきだし、低学歴でもたまにはきらりと光る人はいる。経済界等は実際にこういう人材登用をやっているのだ。学歴がなくても世の中の実務は、出来る人は出来る。
 日本が封建社会だった頃、士農工商の枠をがんじがらめにはめて世の中の秩序を保とうとした。その結果は進歩しない社会を作り、幕末に黒船の来航で世の中は大騒ぎになり、わずか15年ほどで幕府は潰れて明治維新となった。それ以来作られた学歴と言う枠はそんなにピカピカ光る上等なものではないのだ。枠を作るということは統治には便利だが、人間性に反したらいつかはくずれる。ものの考え方をフレキシブルに保つこと、これが進歩する社会を作る。

高齢者に幸せを作るには

2010-08-25 12:10:15 | 哲学
8月25日 晴れ
 このところ100歳以上の高齢者の行方不明が報ぜられ、調べてみたら白骨化して家のなかにあって、親族が給付金をねこばばしていたという類いの話が広がっている。世界一の長寿国日本の高齢者はあまりしあわせではないようだと私は思っていたが、この予測というか予感というか、不幸にして当たってしまった。
 高齢者を放置して勝手に幸せになりなさいでは本来いけないのだ。家族制度が崩壊し、核家族主体になった日本をまったくもとに戻せといっても無理がある。それならばそれに対応する社会の仕組みを作るべきだが、簡単にはゆかない。
 高齢者と言っても65歳過ぎた高齢者新参者の場合と、80歳過ぎて社会のすべての仕事から引退し、心身の衰えと戦う高齢者とでは本人の気持ちのもち方も違うし、また社会がこれに対応するやり方も違ってしかるべきである。前者の場合は本人が心掛けて前向きに積極的になるようにすることで他人に迷惑がかからない、それどころか社会に少しでも貢献することが出来る。後者の場合はそうはいかない。誰かに手助けしてもらうにしても、適当な施設は限られている。私は一度にすべての必要とする老人を世話する施設の建設をする前に、元気な高齢者がボランテアとして元気でない高齢者を世話するシステムをもっとしっかりと社会に定着させられないかという提案をしたい。もちろんボランテアは年齢に関係のないとろこで制度化するべきだが、自分が近い将来なるであろう状態を放置しておけないという気持ちになってもらいたいと思っている。人間は勝手な動物である反面、少し褒めたりご褒美を与えたりすれば案外働くものである。どうだろう長妻さん。