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一生

人生観と死生観

8月19日は俳句の日

2010-08-19 14:43:42 | 哲学
8月19日 曇り
 わが家の玄関前で巣を作っていた燕のことは前に一寸書いたが、雛は大きくなって飛び立ち、夜だけ巣に帰っているようだ。これから暫らくして気の遠くなるような長旅をするのだから、体力がつくかどうかは命にかかわる問題だ。それにしてもけなげな燕の子育てが一応成功したことは喜ばしいニュースである。
 さて今日は8月19日で、語呂あわせで俳句の日となっている。御巣鷹の山に日本航空の飛行機が激突し、乗客520人が亡くなってから25年経つ。テレビの放送を見ていた家内はなにか機嫌が悪くなったかのように黙り込んだ。小学生の息子をなくした母親の話が続く。家内は10年前に亡くなった二男のことを思い出してているのだろう。彼女は蚕が繭の中に閉じこもるかのように、一生懸命俳句を作り出して20年になる。俳句いのちの20年を過ごして1冊の句集が出来た。それが『雪蛍』であった。ある読者から感動したといってきたことを家内が聞いて、そのあとはじっとなにか考え込む様子であった。人の死は厳粛なもので上っ面の同情の言葉は役に立たない。

素質を伸ばす教育

2010-08-18 13:55:07 | 哲学
8月18日 晴れ
 教育についてはいろいろの意見があろう。社会に適応し、よい社会人として暮らすための基礎を教えるという一般論がある。一方で素質のあるものに、その素質を伸ばしてすぐれた成果を挙げ、社会の発展に貢献し、また国際競争の場で遅れを取らないようにするという才能助長論がある。後者は極端な場合にはノーベル賞を目指すとか、あるいはオリンピックの金メダルを目指すとかの目的になり、ごく少数者に適合されるが、大騒ぎする割には効果は小さいように思われる。もちろん個性を尊重する教育は重要である。人生の目的をしっかり把握しないと、せいぜい80年か90年の生涯を何のために暮らしたか分からなくなる。
 人それぞれに様々な人生を送るのだから、周りで大騒ぎしても結局はどうにもならない。しかしその人、その人に自覚を促すことは大切なことである。人は被造物として生き、たとえ小さくても人生の終わりに、その人なりに後世に残す何かを作るか成し遂げるかが出来れば幸いである。ただし世の中にはあたかも神に召命されたような人も稀にいる。その人は最大限に自分の使命を果すべきで、これを妨げてはならない。

行き詰まりの打開

2010-08-17 14:37:11 | 哲学
8月17日 晴れ後薄曇
 燕が巣をつくり、雛が成長して昨日あたりから飛べるようになった。まだもとの巣は利用しているようだが、やがて親と共に大空を飛びまわれるようになるだろう。このようにして生物のいのちが未来につながることは私たちの心に光を注ぐ。嬉しいことだ。しかし玄関のところに巣を作られたので落ちこぼれた糞の掃除は毎日私がやらねばならぬ。
 ところで日本の経済に力強さがなくなっていて、昨日もGDPの4半期報告は0.1%という低い値だった。コスト削減のために簡単に外国に産業拠点を移すことは当座しのぎにはなるかも知れないが、とくに若い人を育てる意識が欠けている。これが徐々に日本人の活力を減退させているのである。こうした行き詰まりは何時か抜本的に打開せねばならぬ。では具体的にどうしたらよいかとなると難問であるが、私はやはり根本は教育だと思う。困難に耐えて新しいものを創造する精神が生まれるよう、若者に教える。直接の教えよりも間接の教え、すなわち先輩がやることを見て学ぶ、それが大事だ。場合によっては反面教師ということも視野に入れての人生全般の求道的精神をもつことがその人を活かすのではないだろうか。

殖え過ぎた?人類

2010-08-16 14:37:06 | 哲学
8月16日 晴れ
 暑い、暑い。お盆過ぎでこんなに暑いとは!地球が少し変になっているかと思うばかりの今年の暑さ。
 指摘されている地球温暖化は、データが不十分でまだ全面的に信用できないという意見があることは承知している。しかしデータが十分になってから騒いでも手遅れだ。間違っていたら幸せだくらいに思って、いろいろな手を打つべきなのだ。しかし国際社会はそうは行っていない。先進国の動きと途上国の動きは矛盾する。途上国は権利主張で譲ろうとしない。先進国も自分だけが一生懸命やっても馬鹿らしいといって、まじめにならない。結局まとまらず、悪いことが重なってから慌てるだけになりそうだ。
 犯罪のグローバル化も困った問題だ。東京銀座の貴金属店の強盗が捕まり容疑者がスペインから日本の警察にわたされた。映像を見ると立派な顔をした人物だ。旧ユーゴスラヴィア出身の男らしいが、戦争と貧困が関わっているのであろう。情けなくなってくる。
 どうも人類はこの地上に殖え過ぎたのではないか。

死について

2010-08-13 11:17:55 | 哲学
8月13日  晴れ
 近頃死について考える。死とはなんだろうか。数限りない死があり、人は皆死なねばならぬ。一人の例外もなく死はそれぞれに訪れる。秦の始皇帝は例外であろうとし、不老不死の妙薬を求めて東海に人を使わしたが、還って来なかった。徐福がその人で、日本各地に伝説が残っているというが、かなり眉唾であるようだ。がん細胞は老化もせずに無限に増え続けようとするから、限りないいのちを求める生命体の欲望の象徴かもしれないが、結局元の個体を死なせてしまうのは愚かだ。自分もそこで死んでしまう。
 がんといえば2,3年前癌で死んだ科学者の戸塚洋二氏のことを思う。彼は死の直前まで客観的に癌で死にゆく自分を観察しようとした。仏教的な世界観・人生観が語られ、文藝春秋の読者たちは喜んだ。それは感動的ではあるが、やはり宗教や哲学の訓練を十分に受けたことない人の思索であり、納得できない点もある。創造論と終末論は科学とはパラレルに存在するようでありながら、本来は人智を超えた世界があることを示すと、私は考える。この詳細はここで尽くすことはできないが、人間の知識には限界がある。死は超越者のみ手に委ねるほかないことを感じる。

ブログ文化は習作レベル

2010-08-10 12:06:47 | 哲学
8月10日 晴れ後曇り
 私のブログに反応する人の話を昨日のブログに綴ったら、早速エロ話の応答をくれる人ガいた。愚かな男だ。一寸前に遡るが、6月7-8日に『東日流外三郡誌』論争の偽書派のアンテナ係みたいな人から的外れの意見が出ているのを見つけた。ブログ空間の知識だけで物事を見ているから全然不完全な、批判にもならない偏見を述べているだけであった。偽書派(といっても多分亜流らしいが)の頭の構造は白か黒かの黒白論争スタイルで、きわめて単純で、一寸した欠点があれば全部間違いと思い込む。新聞記者まで巻き込まれる。真実は黒白で決着が付くものではなく、真実度ー真書度(あるいは偽書度)で見なければならない場合が往々にしてあることを知らない単純人間であるようだ。こういう人たちが言論暴力ともいえる執拗さでブログ攻撃を加えると、多くの真面目な人たちがすくんでしまう。
 ブログはインターネット空間のいろいろな知識を活用できる点で非常にメリットもあるが、もとの書籍を読まず、その人の真意を直接確かめることなしに集めるもので、表面的にならざるを得ない。こうしたブログを利用して修士の論文くらいはかけるかもしれないが、資格試験でボロが出るに違いない。ブログ文化は習作レベルにおいて使うとよい。それ以上は無理だ。

真書度と偽書度:黒白論争は無意味

2010-08-09 11:15:04 | 哲学
8月9日 曇り
 私のブログはあまり注目度があるとは思わないが、時たま反応があるのは『東日流外三郡誌』についての記述に対してである。この本は真偽論争の中にあるが、私は前から言っているのは、真か偽か、すなわち白か黒かを絶対視するような論争は無意味であると思っている。黒白絶対視を基準にして論争する黒白論争の傾向は議論が白熱するにつれていちじるしくなり、とくに偽書派の人にこの傾向が強いように思われる。これは困ったことである。真理は極端になく、中間にある、というのが事の真相のようである。
 すなわちこの本は真書度100%と0%の間にあるということである。(言葉を変えれば偽書度0%から100%)
Be clever, not to be too hot in logical discussion.

 

不眠と鬱

2010-08-07 18:43:25 | 哲学
8月7日 晴れ
 立秋だというのに、夜は暑く、クーラーはつっけぱなし。どうも眠れない。全然眠っていないわけではないが、寝つきが悪く、午前3時までテレビを見ていた。ハゲタカという題名のドラマであった。よる眠れないとひるに差し支えがある。
 一体不眠は鬱と関係があるのかないのか。
 鬱病はそれほど特殊な忌むべきものか。近頃の医学ではあまり特別視すべきでないということであるらしい。当たり前だ。だれでも鬱になりうるし、鬱になればそれなりに生活がおかしくなる。問題は鬱が治るかどうかということだ。治ってしまえば何のことはない。元どおりになれば以前のことをくよくよ思う人はあまりいないはずだ。そういう人はそもそも鬱ではなかったかも知れない。
 つまらぬ独り言もブログの効用だ。その人を癒すならよいではないか。

終末論について

2010-08-04 11:28:55 | 哲学
8月4日 晴れ
 始まりがあれば終わりもあるというのが聖書の世界観で、西欧の思想の多くはこれに負うているといってよいのではないか。自然科学でも宇宙の始まりのビッグバンはほとんど既定の事実と思われている。宇宙は膨張しつつあり、ものすごいスピードで拡がる。ガス状の物質は核反応によってより重くなり、燃え上がり、重力によって固まり、爆発を起こして、寿命が尽きる。しかし粉々になった物質はどうやら再利用されて地球などの生成に関わっているという。終ったものが、また再出発をするらしい。宇宙の始まりは合理的に説明できるが、終わりについてはそれほどはっきりしない。終った後にまた逆過程があるのかないのか分からない。あるとすれば永劫回帰の繰り返しもあり得るわけだ。遠い未来は関係ないとおっしゃる人も地球を含む太陽系の異変には無関心ではおられない。地球の生物は幾つかの小終末を体験したといわれる。無酸素時代の生物が有酸素時代に入るとき、隕石落下による恐竜絶滅のとき、その他思いがけない試練が生物の生存を脅かした。終末論は明瞭さを欠くうらみがあるが、それはわれわれ人類にとって決して無縁のものではないだろう。

私には夢があるとは

2010-08-03 15:30:01 | 哲学
8月3日 晴れ
 私には夢がある―といった人がいた。マルチン・ルーサー・キングである。彼はアメリカで牧師を勤め公民権運動にかかわりながら、黒人の社会的地位の向上に努めた。ノーベル平和賞を受賞している。彼が私と同年の1929年生まれであることを知った。アメリカという国は一方でキリスト教を建国の精神としながら、一方で自由を重んじてそれぞれの行動に規制をかけることを嫌がる。すると黒人を差別するのはいいことだとは思わないが、生理的嫌悪感から黒人から逃避することもわれらの自由だと白人たちが言うようになる。中には黒人に対して積極的に侮蔑の言葉を吐き、ひどいケースでは黒人に暴力を加えることもある。これを止める人は大変勇気がいる。アメリカでは実際にこんなことが起こった。発端はバスの座席の差別であったそうだ。キング牧師はこれに対して非暴力的に戦い、そして凶弾に倒れたのであった。なんと生々しい彼の理想であったことか。リンカーンの例を思い出してもらいたい。犠牲を通じて人類は少しづつ進歩している。キングはその尊い犠牲者であった。前に触れたことがあるが、東洋系モンゴロイド(日本人、中国人など)に対してもつりあがったモンゴル眼を蔑視する子どもたちを私も実際に目撃した。黒人だけの問題としてはすまないのだ。
 さてそのような夢に比べ、私はずっと小さいが望みがある。最近亡くなった後藤竜二という人のことが毎日新聞に出ていた。蝦夷の英雄アテルイを主題にした『野心あらためず』という小説を書いたひとである。降伏を決断するときアテルイは思った。「降伏はするが、(心から)服従するのではない。これからも、子孫たちが不服従の戦いをつづけ、そして、いつの日にかかならず、人の道にかなった世の中を生みだしてくれるだろう」それは日高見の国の支配者安倍氏の夢でもあった。『東日流外三郡誌』は真偽論争のうちにあるが、全部が偽書とは到底思えない。真実はいろんなところにあり、疑えない証拠もある。古代の伝承含むことから吟味は必要であるが、これを100%現代の(すなわち和田喜八郎の)でっちあげとするのは間違いである。エゾ蔑視、東北人蔑視の根源に関わる古伝承の抹殺は真実の抹殺といえるのではないか。私はこれを正すために今後なお働きたい。