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一生

人生観と死生観

最後の仇討ちとは

2011-01-08 20:09:22 | 哲学
1月8日 晴れ
 寒波のため外は滅法寒いが、空には三日月が冴えわたる。
 さてこれから書くことは、江戸時代最後の仇討ちの話。この時代は大石内蔵助ら四十七士の仇討ちの話に見るように、侍の仇討ちがもてはやされたのであった。彼らは世の中を騒がせたというので、処罰を受けることになり、切腹する。しかし予め役所に届けた仇討ちならば罰せられないどころか褒められたのだという。
 私の隣のW家は奥さんの実家がその最後の仇討ちの主人公の遠縁に当たるという。古文書が残っており、それをW氏は一生懸命解読して一冊の記録を作った。なかなか凝り性の彼は勤めを定年後ちょうどよい仕事と考えたようだ。奥さんはコーラスに凝って、海外にまで出かけたりする元気な方である。
 ことは新潟県新発田で起こった。文化12年(1815年)新発田藩の久米弥五兵衛という人が瀧澤休右衛門と将棋を指していて、久米は瀧澤に殺され、瀧澤は出奔して身を隠した。僧になって方々を渡り歩き、最後は仙台藩のある寺に黙昭と名乗っていたよし。久米の子息幸太郎と盛次郎は幼かったが、成人して瀧澤の行方を探し、ついに42年後の安政5年(1857年)叔父の助けも借りて仙台藩領牡鹿郡祝田村で仇討ちを遂げる。瀧澤休衛門このとき80歳を越えた老人で、しかも僧体であったから、哀れといえば哀れであった。
 この話は1998年にNHKも取り上げたことがあり、最後の仇討ちとして話題になったという。
 人殺しは最大の悪事で時効も廃止すべきだと論議されている。一方で復讐は現代の精神からすると野蛮な行為であり、殺人犯の死刑は廃止せよという声がある。確かに復讐は復讐の連鎖を生むから、どこかで断ち切らねば際限もなく争いが続く。日本人は世界の中の動きに敏感であることが必要になり、自分自身の改革に努めてきた。これからの世の中でやはり生命の尊重を言うには死刑は廃止の方向だあろうが、なお当分は廃止も出来ない状況が続くと思われる。自殺者が3万人も出る世の中で、この社会的閉塞を打破してゆかねばならない。

皮膚科の待合室

2011-01-07 19:10:42 | 哲学
1月7日 晴れ
 日本列島冬本番で寒い。風は吹き、インフルエンザは人々の間に流行をはじめている。季節性の風に加えて新型の流行も始まったらしい。今日は皮膚科に行く日だったが、この総合病院の待合室はマスクがけの人が患者の半分はいる。マスクがけの人は予防のためなのか、それとも自分が患者なのか区別がつかない。しかし明らかに咳をし鼻をかんでいる人は患者であろう。私は風邪予防の吉原三原則を立てたが、そのうち最も重要なのは患者から2メートル以上はなれることであった。しかしこの原則が守れないほど人が混んでいたらどうにもならない。私が風邪を引かないように涙ぐましいまでの努力をするのは、心身障害者の次男生存中は、次男にうつさないため、次男が世を去って10年の現在は、風邪を引くと重症化して入院騒ぎを起こす家内のためなのである。風邪引きはマスクを着け、咳をすることはあってもなるべく飛沫を飛ばさないよう努めてもらいたい。他人に移したら弁償する法律でもあったらよいが、なかなかそうは行くまい。とにかく病院に行くときには相当な覚悟がいる今日この頃である。

風邪退治の困難

2011-01-06 20:23:18 | 哲学
1月6日 晴れ
 今日病院に行く。検査データを聞くためにだ。ところが医師がマスクがけ、赤い顔して患者の方を向かない。看護助手は患者用いすを後ろに下げて医師との距離をとるよう大童。患者が医師に近付きそうになると後ろからいすを引っ張り下げようと努めている。これは医師が風邪を引いていて、患者に感染することを避けようとしているためらしいと気づいた。いやはや、これでは患者の治療どころではない。医師も大変だ。
 さて風邪やインフルエンザの退治の困難はずっと前からの問題。特にインフルエンザはワクチンを使っているが、いくらやっても病気はなくならない。感染症学者は飯の種を作るためにワクチンは効くと大宣伝するが、成果は一向に上がらない。それでも効くぞ、効くぞと恥ずかしげもなく毎年繰返す。なんだか空しい業である。NHKがこの宣伝にのっているのが一番の問題。どうして彼らはお役所や関連学者の言うことを聞くのか。毎年の状況をしっかり見れば分かることなのに愚かなことだ。世界中でこうした愚行が繰返されている。ほんとにどうかしている。医者でも達観した人は風邪は免疫力で立ち向かえという。免疫力すなわち人が自然に持っている免疫の力、すなわち自然免疫で体力をつけ、病気に勝つことだ。病気はには一度かかるとそれに対抗する力が出来る。それは自然免疫を作り上げる。自然免疫は幅広い要素があるのだ。人の体はよく出来ている。勿論過信は禁物だが。

古代史・古墳時代の謎

2011-01-02 20:53:51 | 哲学
1月2日 曇り一時晴れ
 U氏の古墳時代の本を全部読み終わった。大胆な仮説だが確かに面白い。九州の天孫族ー神武天皇の大和侵攻については諸説があるが、事実この地方の有力者であるナガスネヒコを追い出すことに成功したのであろう。そしてその子孫の時代に巨大な古墳が作られたのは何のためなのか。歴史上お墓だということになっているが実は遺骸が入っていないものもありそうだという。巨大な墓は敵の捕虜を働かせ、閉じ込めるための、奴隷労働作業所だったという。異論もあるかもしれないが、こうすると古代史でよく分からなかった一連の事項が分かってくると著者は新説を唱えている。
 古代史は科学のメスを入れにくいので、想像が混じり、素人でも大胆な仮説が立てられる。U氏は出来るだけ客観的に説明を試みているが、困難は山ほどあり、これからの検証に待つところが多い。しかしU氏の大胆な仮説は評価に値するのではないかと改めて思った。

銅鐸民族についての一考察

2011-01-01 16:40:04 | 哲学
1月1日 曇り一時晴れ
 静かな年明け。新聞は社会の閉塞に苛立ちを示すが、お正月であるだけに若干は将来への期待を込めている論調もある。悲観ばかりしてもはじまらないからであろう。借金大国とはいうものの日本全体はまだ借金できるゆとりがあるということではないか。今までは過去の蓄積によって、つまりわれわれ前の世代の蓄積によって食べている状況なのだ。今の世代あるいは将来の世代につけを残さないように、早く体制を整えることが必要なだけである。お先真っ暗ではないのだ。しっかりしろという苦言を呈しておく。
 さて今朝年賀状とともに届いたのは友人U氏からの著書の送呈であった。U氏はアイデアのよい人である。濡れマスクという風邪の予防法を考案して評判になった。この人が古代史に興味をもっていることは承知はしていたが、今回のはひとつの新しい古墳時代解釈である。日本の古代は銅鐸をもった比較的平和的な人々のところに、銅剣を携えた天孫族(天皇家の先祖)が征服者としてやってきて、これらの人々を奴隷同様にして巨大古墳を作らせたというのである。独創的であるが、私の印象ではまだ十分には煮詰まっていないところもあると思う。奴隷は悲惨である。人権も何もない。男は殺されようがまた女は強姦されようが、征服者の意志のままに動くほかない。巨大古墳と奴隷を結びつけたのは面白いが、多分少し極端に走りすぎていまいか。多数の被征服者の中で安定した社会を作るためには、征服者は種々の工夫をする。時には懐柔をし、時には欺き、時には威嚇する。奴隷にするのは一部の最低階級の民だけでよいのではないだろうか。大きな事業をするときには多数の人を使わなければならないが、それには強制だけではなく、何か大きな目標を示し、達成したときの褒美をちらつかせるとか、そのようなことにしないとうまくことは運ばない。日本書紀や古事記の言うところは被征服民族の絶滅を目標にはしていなかったように思われる。そこまでやる意志は多分なかったであろう。服従したものにほどほどの地位を与えている記述があるではないか。
 彼の視点は面白いし今後もっと証拠が出てくれば、立派な一家言となるだろう。期待したい。

静思ー年越し前

2010-12-31 15:11:07 | 哲学
12月31日ー曇り一時晴れ
 ついに2010年の最後の日ー大晦日の日を迎える。大掃除は出来るだけ簡単に済ませ、ひと息ついて心の整理にと深呼吸して夕べを待つ。今年はどんな年だったか、わが家では一年の10大ニュースをまとめる習慣があり、30年以上続けている。喜びも悲しみもノートブックに書き留められて家族の歴史となっていった。
 ふと思う。この日の時間は流れること早く、そして気がついてみるとその時間に何かが挟まっているみたいな感じを受けるのだ。妙な言い方と訝る人もいるかもしれない。言い換えれば、忙しい中にわれに返るといった感覚といったら分かりやすいかもしれない。いっとき、静思のときがやってきたのだ。あの近代を開いた哲学者のデカルトは考えた。われとは一体なにか。われとはこの社会の中にあって小さな存在、しかし限りなく貴重な存在ではないか。われ思う故にわれ在りーの言葉はデカルトの言葉として有名だが、私は考え、そして言うとすればデカルトのようにはならない。私は思う、わが生きることをーそれが私に実感で、昔旧制高等学校に入学したころからの私の人生の底流となっているのだ。生きる、わかっても、わからなくても人は生きる。その中には深い意味があることをますます思うこの頃である。

年賀欠礼ー人生のまとめとは?

2010-12-29 11:40:37 | 哲学
12月30日 晴れ時に曇り
 年末。もう今日と明日と明後日だけの2010年。行く年を惜しむのは愚かな感傷かもしれない。しかし年賀欠礼のハガキが舞い込むとき、そうは言っておれない。亡くなった人の想い出は時に胸を刺す。あの猛暑の日に恐らくは苦しんで死に面したかもしれない。また長年の病の苦しみの最後の時にかの世を望み見て、この世の人の知らぬ喜びの幻を見たかも知れない。死は偉大なXである。
 それにつけても人生の残り少ないときに何らかのまとめを記し、子孫、後世の人たちにささやかながらも贈り物を残すべきではないか。それが彼らに対する愛情の証しではないか。もちろん何もせずに爽やかに世を去ることもよい。掻き消えるようにというのも死のあり方かもしれない。だがそれはかの世を信じない人たちのもので、ある意味気の毒なことだ。神に召されたものは最後のときまで証しをするのだ。
 私はある決心をした。エッセイ集の続編を残す。ブログからも抽出する。こうして私を、私たちのグループ、いのちの尊厳を考える会などを支えてくれた人々には感謝したいものだ。

年の瀬の実感

2010-12-28 19:37:22 | 哲学
12月28日 晴れ
 御用納めの日。この年も暮れ行く。昨夜はフィギアー・スケートのエキシビションを見たが、日本選手の成長振りは目覚しい。今の世の中就職難や烈しい競争、老年ともなれば無縁社会、孤独死などの様々の問題があるが、スポーツの世界は爽やかな話題がつぎつぎに出てくる。若い世代につき悲観的になる必要はなさそうだ。
 しかし私個人としては色々な工夫をして、この年を乗り切り、そして次の年の希望を作るのだ。挫けてはならない。時間に追い立てられるように年末を迎え、そして新年を迎えるのが恒例のこの頃だが、新老人の会に入り、創ること、愛すること、耐えることに、望みを持つことを付け加えた私としては、何かすがすがしい気持ちで時を過ごすべく、新年につき進む。

一日一日を大切に

2010-12-27 15:14:10 | 哲学
12月27日 晴れ一時曇り
 いのちの尊厳という言葉は、坊さんとか、牧師さんとか、学校の校長先生が言いそうな言葉だとしてちょっと敬遠されそうな言葉だが、私たちが十数年やってきた「いのち像を囲む集い」は音楽祭と講演会があって、特に音楽祭は天上の音楽を地上に下ろしたような感動を参加者に与え続けている。音楽祭といっても大袈裟なものではない。十数人の女子中学生と先生、それにソプラノ歌手が歌ってくれる新緑の宮城県中央児童館の行事なのである。
 一日一日を大切にということは時としてありきたりの道徳的お説教のようだが、本当は道徳を越える意味がある。一日一日いのちを生きる。そのいのちは人の思いを越えたはるか昔から続いている。いのちにはドラマがあり、時として不思議が伴う。いのちはまったくよく出来ている。造化の神が投じたことばーいのちの原理、ロゴスのことを思ってみる。(新約聖書 ヨハネによる福音書)このいのちは光であり、真理であり、あらゆる生物を生かすものである。一日一日私たちは生かされている。このいのちをそれぞれ生き抜くことこそ私たちの使命なのだ。

何故犬の寿命は人より短いか

2010-12-26 15:41:15 | 哲学
12月26日 晴れ
 犬は人に忠実な動物である。忠犬ハチ公のことを思い出す。主人が亡くなったあとも駅に迎えに行くなんて
ほろりとさせられ、そこで感動した当時の人が渋谷駅前に銅像を建てた。別の例も多い。何時か見た介助犬のゴールデン・レトリバーが盲人の主人に献身的に仕えたことも感激的であった。この犬は何年かたって亡くなった。主人は涙を流したが、犬の寿命が尽きたことは承知していたから、諦めて次の介助犬を探した。
 昨日の毎日新聞で読んだ。25歳を過ぎた栃木県の犬がギネスブックで世界最高齢の認定を受けたそうだ。人間で言えば116歳くらいになるというから犬にしては大変な長寿だ。飼い主はこの犬が穏やかな性格で、あまりチヤホヤせず放任していたそうだ。写真を見ると俊敏という顔ではない。それで納得できる気がした。人間も神経を張り詰めていたら長生きなんか出来っこない。
 しかし何故犬は人間より短命なのだろう。ある人は人の体重といろいろな動物の体重を比べ、一方で人の寿命と色々な動物の寿命を比べて、体重と寿命に相関関係があると見た。たとえば象は体重が重く人より長生きするが、犬やネコは人に比べ体重が軽く短命だ。ネズミのような動物はもっと軽く短命だと。
 しかしこの論理はあまり納得できるものではない。男女の体重は男が大きいが、女より早く死ぬ。日本人では6,7歳も差がある。キャリヤー女性が増えると短命になるかも知れないが、今のところそれを証明するほどのデータはない。ただすべての生きものは死ぬことは確実で、生きている間くよくよせずに生命を楽しむ態度でおれば少しは長生きするだろう。寿命を定めるものは何か、それは今のところ謎という外ないだろう。