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一生

人生観と死生観

先駆者の道

2011-01-25 15:14:33 | 哲学
1月25日 晴れ
 先駆者の通る道は生やさしいものではない。命をかけて進んだ人々のことが思い出される。歴史に名を残した先駆者たち、その人たちはどう生き、どう死んだか、考えて見たい。その中でとくにきわだって世界を変えた人を上げるとしたら誰を上げるか。
 世界にその教えを広めたイエス・キリスト、彼はユダヤ人としてパレスチナの地に生まれた。当時ユダヤ人はローマの支配下にあった。ユダヤの中間支配層のもとに民衆の生活は楽でなかった。独立運動の過激派の勢いもあちこちにあったらしい。その中でバプテスマのヨハネが現われて、一種の宗教改革運動を起こした。それに参加したイエスは天啓を得て、独自の伝道を開始した。荒野の悪魔の試みを退け、病む人に癒しの奇跡を起こし、真の信仰はこうあるべきという祈りを教えた。イエスの言動は律法主義の当時の支配層、学者たちの逆鱗に触れるものであった。しかしイエスは果敢にエルサレムの都に上り、そこで十字架にかけられて死んだ。しかし弟子たち、後継者たちの間にイエスは霊において復活したという信仰が広まり、どんなに弾圧をしても全世界にイエスの教えが広まった。
 これは人類史で起こった事実であるが、率直に言って普通ならとても起こりえない不思議なことである。欧米の歴史は数々の矛盾や失敗を含んでいるが、キリスト教抜きには考えられない。日本人はキリスト教を無視してはいけない。その歴史に学ばなければなるまい。
 

苦難に克つには

2011-01-24 15:17:21 | 哲学
1月24日 早朝雪のち晴れ
 ブログ生活を一たん整理することに決めたら気が楽になった。そのせいか少しよく眠れた気がする。
 今日は思い立って本屋に行くと、目に付いたのが佐々木常夫著『働く君に贈る25の言葉』(Wave出版)という本であった。著者の経歴は、東大卒業、東レ社長も勤めたエリートだが、家庭の不幸で大変な重荷を負った人である。その言葉とは職場での部下に対して励ましとして与えられたものが主体であるようだ。自分の経験がその核心にあるから強い。
 苦難に克つには、先ず苦難を受け入れることである。はじめから苦難と戦う積りでも、うまく行くものではない。キリスト教の立場で言えば、苦難は神から試練として与えられるとされるが、本人にとってそんなに簡単に結論できるという実感ではない。出口の見えない暗いトンネルの中でもう自分の力もこれで限界と思うようなこともあるのである。「自分には最早何もできない、あとはどうにでもなれ」というようなところで不思議に光が射して来たら、その人は確かにこの世に神がいますことを実感することができる。いわゆるサタンの働きはそこで終わり、その人は旧約聖書にいうヨブの体験を味わう。祝福の生涯がそのあとに続く。不思議なことだがそういうことが起こる。
 佐々木氏にキリスト信仰があるかどうかは知らない。しかしこの世には普通の知恵を超えたものがあることは否定できない。それが驚きの奇跡的人生に導くのだ。

副作用のない薬はない

2011-01-21 20:23:38 | 哲学
1月21日 晴れ
 からから天気で湿度はひどく低くなっている。このことが寒さとあいまってインフルエンザ流行の原因になっている。
 今日は皮膚科の診察に行く。薬を貰うときに担当者に言われたのは「副作用のない薬はない」ということ。薬の作用は本来の目的に合ったもののほか、望ましくないものも伴うということだ。それは承知で医者は薬を使う。そのさいに患者の体の状況を注意深く見て、副作用を最小限にとどめるのが医師の務めである。ただし患者の体は患者自身が一番よく知っていることも事実で、患者の言うことをよく聞き、適切な判断を下すことが必要なのである。それをやらない医師が今までは随分いたように思う。勿論医師も神様でないから何から何まで見通すことは不可能である。患者は多少我儘に振舞うのがわが身を守る道であろうと私は経験上思っている。赤ん坊や言葉の未発達な幼児を扱う小児科の医師の立場は困難だろう。予防接種で乳幼児に多くの犠牲を出した日本であったが、被害者家族の運動で状況はかなり改善された。今後さらに犠牲が出ないよう注意深いやり方が望まれる。インフルエンザの予防接種の有効性は疑問だらけで、NHKはじめもっとしっかりしてもらわねばならない。

論語読みの論語知らず

2011-01-19 20:14:14 | 哲学
1月19日 晴れ
 昔日本人が中国から文明を吸収することに専念していた頃、儒教の正典ともいわれる論語を学ぶことは必須の事柄であった。論語は尊重されていたのだが、わけもわからずにただ論語の文字を読めばよいと勉強する人たちがいたようだ。字面はわかっても精神をまったく理解しない輩が論語読みの論語知らずといわれたのである。現代のキリスト教でもこれに似たようなことが起こっているらしい。特に聖書学者と称する人々が文字の詮索に明け暮れ、聖書の精神を理解していないように見えるのは困ったことだ。キリスト教の真髄はキリストのこの世に来た意味を知り、聖霊の業をまっとうに受け取ることである。それはこの世の論理や道理を超えた働きで、一見受け入れがたいものに感ずるかもしれない。聖書には数々の奇跡が記され、超自然と見えることもある。自然の論理は私たちの日常の世界にあるが、聖書の先達の証言ではそれを越えた神的世界のあることを思わせる。パウロはキリスト教の迫害者であったのだが、ダマスコの郊外で強烈な光に打ち倒され、キリストの霊にあって、回心したと伝えられ、その記録は新約聖書に何回も記されていて、到底まやかしとは思えない。奇跡は起こったのである。そのような現象は人間を変える。私たちの身近にも回心者はいる。嘘で塗り固めた疑似宗教の記録とはまったく違うものがそこにある。神の世界はこの世のものとは違う壮大な真理の支配する世界とするほかない。

創造:それに必要なこと

2011-01-18 16:26:42 | 哲学
1月18日 晴れ
 日が少し長くなったように感じられるが、寒さは厳しい。昨夜から2冊の小冊子を読み終えた。かって本の虫と言われた私は今もその名残があるわけだ。午後から外出、貰った図書券を使って新書を買いに行く。いわきで最大の書店ヤマニ書房だ。
 ところで岩波の新書は定評ある著者が多いが、時に先端的過ぎておかしな論理を振り回す者もいるようだ。要注意だ。はじめから藪睨みの見方をする、あるいは裏話を取り入れると宣言している人の著書は、たとえ小出版社からのものであっても案外読まされるものがある。つまり傍流人の著書が面白いのだ。それはある程度偏っているかもしれない。しかしそれを承知であれば、彼に便乗して、こちらの立場で鳥瞰的あるいは多元的にものを見ることができる。これは正統派の議論を鵜呑みにしない点でたいへん参考になる。
 日野原重明氏は新老人の会のモットーとして、「創る」ことをあげる。確かに大事なことなのだが、どうしたら「創れる」かよく分からない人も多いだろう。大家に聞くのはよいが、その考え方にどっぷり浸かり、無批判に信奉するのでは創造的な思考が出てこない。そのときに上に上げたようなことが役に立つだろう。藪睨み傍流人の言うことがかえって真実への一里塚なのである。それを越えてはじめて創造的な思考をすることができよう。

考古学:評論とその限界

2011-01-17 15:40:56 | 哲学
1月17日 晴れ
 今日は阪神淡路大震災の記念日。この文明国で災害時とはいえ6千数百の人ガ死んだのだからひどいものだ。地震大国日本の弱点があらわれている。
 音楽評論家吉田秀和の4部作が出たそうだ。彼ははじめ音楽の専門家ではなかった。東京帝国大学を出て素人批評から入った人のようだ。何事も好きと熱心がその人を成長させるのだ。人生は意外な方向に人を育てる。いわゆる専門コースを踏まなければ大成しないという考え方は単純すぎる。
 評論一般について考えてみると、元になる芸術があって批評が成立する。元がなければ子もない。批評家はそのことをいやというほど知っている。元となる芸術の創造のカオスは絵描きや作曲家の中にあって、批評家の中にはない。批評家はその全体を考察したり、特徴をとらえ、方向を示したりするが、自ら創造する役割はない。評論は大事だが自ずから限界がある。
 考古学をやっている人たちは色々な説を立て、しばしば百家争鳴の状態になる。それに素人が入りこみ、騒音が大きくなって収拾がつかない。ヤマタイ国論争というものはそのようなものか。しかし素人といえども先ほど述べた「好き」と「熱心」があればしっかりした評論をおこなうことができる。侮ってはなるまい。ただし素人は自ら発掘に加わり、指導することは難しい。専門家を単純に批評し揶揄するだけでは学問を進歩させることができない。従って素人であっても専門家を納得させるような立派な研究や評論を学会誌、専門誌に書き、討論することが必要なのである。

わが喜び、わがのぞみ

2011-01-16 22:27:19 | 哲学
1月16日 晴れ(ただし早朝雪)
 朝起きたら外は雪で真っ白。寒い、寒い。
 私は無教会の高橋聖書集会のテープを日曜日に聴講する生活を始めてかれこれ40年になる。高橋先生が昨年亡くなられたが、テープ集会はその後も続いており、規模は小さくとも信仰の維持のために役立っている。私自身も機会があるときは頼まれて講演もする。神の国は決して絵空事とは思っていない。内村鑑三は自然科学も理解する人であり、すぐれた洞察力を持っていた人である。天然と歴史と聖書を研究して日本人の教化に努めた。その影響は日本だけでなく、韓国や、台湾に及び、最近は中国にも賛同者が出ている。聖書の真理を深く調べて、壮大とも言える世界観を示した。弟子たちも錚々たる人たちがいて伝道に勤めた。真剣に聖書を学ぶとき、私たちの世界観は変わる。わが喜び、わが望みは地上の金銭や栄達ではない。神の国の浄福はなにものにも勝るのである。地上・現実のことしか知らない人たちは気の毒といえるのである。

感想ー世界に通用する日本人像

2011-01-15 16:37:34 | 哲学
1月15日 晴れ 夕方雲行き怪しい
 やはり風邪だったようだ。何となく体温があがっているかのような一種の体感であった。鼻水も少し出た。大した事はないと高をくくっていたが気分良好とは行かなかった。それでも多少無理して講演の記録をまとめ
ほぼ行き着くところまでいった。こういうところに私らしさがあるのかもしれないが、少しは休めということで、ブログの方は連続2日休みにした。期待している方があれば申し訳ないことである。
 今日東海村時代の友人S氏からハガキをもらい、ニッポニウムの見直しの話は海外でも認められ、その翻訳本が図書館に入っていたよし。日本では自分ではなかなか評価が定まらず、外国に認められてはじめて定着するというパターンが多い。日本人の精神構造を変えて行かなければなるまい。そのためにどうするか考えさせられる。まず自信を持つこと。自信の基礎となる勉強を怠らぬこと。外人と付き合うときには適当な自己主張を恐れないこと。しかしあまり自己中心では誤解を生む。その辺の感覚は外人も理解できる程度にしておきたい。長いこと日本人は勉強好きといわれてきたが、それだけでは心許ない。独創的であることだ。それが世界に尊敬される道だ。

終りに備える

2011-01-12 15:41:47 | 哲学
1月12日 晴れ
 寒い日が続く。老人にはこたえる。しかし地球の温暖化と一方では言いながら冬のやや異常な寒波はどうしたことだろう。エルニーニョとラニーニャ現象が重なったという説明があるがトータルでどうなるのか。
 この前から体の不調があって、苦するが新しくなった時期なのでひょっとするとそのせいか、あるいは風邪を拾ったのかと思い、とにかく慎重に静養することにした。経過はよい方向で、どうも薬のせいとは思われない。やはり軽く風邪気味だったのだろう。
 このようなことがあると、人生の終わりに備えることの必要をあらためて思う。人は生きているうちは表現者として振舞う。私たちはよかれ悪しかれ表現しなければ時を過ごした気がしない、少なくとも私はそういう人間なのだ。そして終わりに備えるとは息の根のある間にやれる事をやる、それは家族のため、社会のため、後世のためである。その最大の目標は私たちの人生の意義を伝えることではないだろうか。そして人生の意義は色々な立場はあろうが、最終的にはこの世を統べたまう至高の存在、神の義と愛を認識する。これほど価値のあることを私は知らない。振り返ってみれば自分の小さな人生は誤り多く、なんらの値打ちもないが、恩恵のもとにかろうじて今日あるを得たのである。そのことを私は書き記したい、その用意をしたいと思いながらなかなか進まないのである。時は限られている。あまりノンビリしてはならない。黙示録に示された終末のときは永遠にわれらの指針である。

器械音痴の人々

2011-01-11 20:43:22 | 哲学
1月11日 晴れ
 今日は何の日? 2011年1月11日、1の整列で壮観と言えるかも。
 さて駄洒落めいたことはさておく。世の中には器械音痴という人々がいる。女性にその傾向が強いといわれるが男性だって結構音痴的人物もいることは否めない。そういう人たちは器械に強い人から見ると哀れに見えるらしい。つまらぬところで躓く。一寸した選択の場面でぐずぐずと迷う。そこで立ち止まり、優柔不断の状態に陥る。迷った挙句とんでもない決断をして、あらぬ方向に進み行く。そうでなければ、一寸した注意書きを見落とし、間違ったやり方にはまり、際限なく荒野をさまよう。こんな次第でエキスパートにすがってくるときは、間違いを正すことからはじめてずい分と時間を無駄にするのである。
 実はこれはパソコン慣れをしていない私の姿である。老人、つまり年配者はこんな人口がことのほか多い。はじめから俺はパソコンは嫌いだと宣言して手に触れず、若いものに任せるという人もいる。ああ、こんな便利な器械だが、器械音痴の人々には冬の寒さのように厳しい。若者よ、これを老いの自虐的繰り言と言うなかれ。