goo blog サービス終了のお知らせ 

一生

人生観と死生観

結局大きな水棺ダムか?

2011-05-17 11:18:16 | 哲学
5月17日 曇り
 今日本を覆う妖雲は福島原発から発し、人々とくに周辺の何の罪もない一般人を苦しめている。いわき市に住むものとしては避難を指示された人たちの不安と動揺に深い同情を禁じえない。ただしいわき市民はしっかりと働いて復興のために元気を出し、力を出してこれらの人々の助けになってもらいたい。
 昨日も記したように、東電の壊れた原子炉をどうして冷温停止状態にもってゆくか、道筋は立っていないのが現状だ。アメリカもフランスも何も言ってくれそうもない。東電の担当者は水棺の可能性を検討していると言ったそうだが、これに対して危ぶむ声もあって、容易に立案実行できるとは思えない。批判者は批判だけするが、ではどういう代案があるか何も言わない。これも無責任というものだ。
 私は原子炉工学には素人で発言は控えてきたが、こうなれば私のアイデアを言ってみる。水棺が駄目ならそれより大きい構造物を作って冷やすのだ。言ってみれば水棺ダムというようなものだ。仮に言えばコンクリート1-10メートルの壁を作り、その外に数十メートル(ダム専門家に聞くこと)の土の構造物を堤防として築く。これより外少なくとも1-3キロメートルは記念公園として居住禁止、強い樹木を植え、外周に四季折々の花を咲かせる。アイデア不足の東電および原子力安全・保安院はしっかり検討してみることだ。

原発事故と法治主義

2011-05-16 22:07:10 | 哲学
5月16日 晴れ後曇り
 東京電力福島第一原子力発電所の原子炉事故は一向におさまりそうもなく、長期化するばかりだ。難航に難航を重ね、よい知恵も浮かばないらしい。助けてくれるはずのアメリカもフランスも近頃さっぱり名前さえ出ない。毎日発表はあるが解決への決定的な道は見えないままだ。といって特別悪化しているわけでもなく、こう着状態というのはこのようなことを言うのか。制御不能に陥った暴れ馬だが、まったく困った事態である。世論は原発全廃に傾きつつあるが、原子炉を廃炉にするという方向の困難さも承知していない大衆の感情的な意見にただ引きずられるのではいけないだろう。徐々に原子エネルギーからの転換を図るやり方が賢明であろう。それにしても国の官僚たちが福島の小さな村や町の人たちの避難を一方的に決めるやり方は当事者にとっては迷惑千万である。今頃避難というのは変な決め方で、もっと早い時期の決定がなされていなければおかしいとか、目と鼻の隣の町が何故避難しなくてよいのか線引きの理由が分からないとか、住民の不満はもっともな点が多い。官僚にすれば法治国家である以上法律に従って決めなければならないというだろうが、悪しき法治主義というのは昔からある。小役人が下々の民を虐めるスタイルが今も繰返されているようで残念だ。


健康とは身・心・魂の三位一体

2011-05-09 14:35:25 | 哲学
5月9日 はれ
 知識を振りまくことが哲学ではない。思索のための思索であってはならず、思索して他人にショーとして見せることであってはならない。思索することが思索者のいのちを養ってこそ真の思索なのだ。
 ところでいのちとは何か。自然界にいのちが現われたことは奇跡のようなもので、その発生の謎は今もって明らかでない。明らかでなくてもいのちはある。いのちは目に見える形では体をともない、体とともにあり、体を動かして生活し、死に至るまで体の中に住む。体が正常に働くのはなぜか、そのメカニズムは医学の研究の対象で、現在までに膨大な知識が得られている。それにもかかわらず、なぜそのような統一的な働きの有機体ーすなわち生物が存在しうるのか人は満足のいく答えを獲得してはいない。部分は分かっても全体を理解できないからである。
 大脳の生理学で体の末端をコントロールするメカニズムはある程度わかる。しかし心そのものの働きについては心理学の関わるところである。それは知・情・意のうっそうとした森林である。心にも一定の法則があり、支配の原理がある。それを完全に理解することは難しい。それでも心は存在する。心のない人間は考えられない。
 そして人には魂がある。宗教心の根源である魂は決して無視してよいものではない。人は動物と同じく、宗教なし、神なしでも生きて行くことはできる。しかしそれで満足し得ないようにできている。それが人の特性なのである。
 このように身体、心、魂の三者が人の存在に関わる。部分だけ見ておればとらわれた狭い生き方しか出来ない。ホリスティック医学というものがあるが、これらの三者の全体に立っていのちを眺め、疾患があれば全体として癒す。もちろん部分を治すことは全体の癒しにかかわるという。健康は身・心・魂の三位一体に立ってまっとうされる。
 科学は部分を担うものであるに過ぎないことを自覚する必要がある。そうすれば科学が真にいのちに役立つ道を見出すことになって行くのではないだろうか。

天然と歴史と聖書

2011-05-07 10:55:17 | 哲学
5月7日 曇り
 ブログ再開。理由は東日本大震災を経験して幾多の人たちの悲惨な死を知り、また原発事故に悩む多くの人たちのことを思って、何か出来ることをやりたいと思い、そのためブログで自らの経験をまとめ、人々に伝える必要が生じたから。
 さて無教会キリスト教の祖といわれる内村鑑三が残した教えに「天然と歴史と聖書に学べ」という意味の言葉がある。彼は札幌農学校を出て、北海道庁に勤め、魚類学者として出発した。この言葉はこの世界の中で働く神のみ業を知るために何が必要かを端的に示していて、われわれにとってまことに有難い指針になっている。
 神のみ業を天然自然に求めるとはまことによい答えのひとつである。夜空に輝く星を見て、そして銀河や星雲の成り立ちを考えて心打たれる人は少なくない。宇宙は神のみ手のみ業とするのは人の心の自然な動きである。また精妙にできた生物体の体の働きはただの機械的の働きとはとても思えない。進化論の出現した今でも造化の不思議さを否定するわけに行かないのである。
 歴史に神のみ業を認めることを専門家は歓迎しないかもしれないが、大きな視野に立つとき、歴史は人間の浅い知恵を裏切って進むことを痛感する。ナポレオンやヒットラーの驕りは打ち砕かれ、かれらの運命は破滅する。その歴史のあとを見るとき我らは神の裁きを知るべきだと思う。冷戦構造のヨーロッパでベルリンの壁が崩壊し、ソビエトロシアは解体した。マルクス主義歴史観では資本主義のアメリカが滅びるはずではなかったか。アメリカが生き残ったのはアメリカが絶対正しかったからではない。アメリカに少々よいところがあることを人類のために神が認め、神が憐れみたもうたと考えるしかないのである。
 聖書の世界は深い。古い本であるため事実でないところはあるようだが、その基本は真理である。心に訴える言葉と事実は聞くべきである。
 こうして人間は目の前のことだけにとらわれず、永遠のいのちの問題に心を馳せるのが最大の幸福に至る道である。

お別れの前日は

2011-02-02 11:33:33 | 哲学
2月2日 晴れ
 明日は節分。今年の歩みは着実に進んでいる。日光も強くなり、日暮れは明らかに遅くなったことが体感される。
 さて別れにはいろいろな別れがある。現代は女性が強くなって長年連れ添った夫と別れる。夫から莫大な財産をむしり取る。そうかと思うと、浮気夫が可憐な妻を追い出す別れもある。
 深刻なのは癌で死を宣告された人の家族との別れ。覚悟はしたとはいうものの、最後の瞬間をどう迎えるか分からない病人。でも死はそのときになれば一見苦しいように見えても本人はそれほど苦しいものではなく、むしろ良い気持ちになっていくと死一歩手前で生還した人は言っている。エンドルフィンなどの脳内物質の働きによるらしい。
 深刻ではない別れは千差万別、希望にみちた別れもある。卒業式で先生、友人と別れる。前途に新しい道が待っており、まったく不安がないわけではないが、希望の方が大きい別れ。またいつか会おうぜ!の合言葉で散ってゆく。
 私はこのブログを明日閉じる。4年に近くやって来たブログとの別れは多少の感慨もある。頭の整理、日記代わり、将来出す予定の本の材料として、習作として。そこで出合った反響は真面目なものもあれば、色事師の嘲りもあり、中には論争調のこくのあるものもあった。私如きものに寄せられた数々の言葉は今になってみれば懐かしいものだ。

平和を創り出す人

2011-01-31 20:29:03 | 哲学
1月31日 晴れ
 今日はいわき福音協会の理事会。キリスト教の生きた証しとして、福祉のために活動する協会が東北のこの地で今日まで順調に発展してきたのはまさに奇跡的である。その陰に先人(大河内博士)の凄まじいまでの努力があったことを知る。
 さて東北は津軽、弘前出自の木村健二郎先生のことを、7月開催の化学史学会(弘前)で顕彰することを今年の目標とするため、いろいろ考えた。子息幹氏の意見も聞き、協力する旨の申し出ももらった。木村健二郎先生は東大理学部化学教室で教鞭をとられ、デンマーク・コペンハーゲンのニールス・ボーアの研究所で量子力学勃興期の新しい学問の雰囲気を学んだ。これはコペンハーゲン精神という呼び名で若手の学徒を魅了したものである。北欧の小国デンマークは第1次世界大戦でささくれ立った大国の間で平和を創る役割を果した。ボーアにもそのような精神があったであろうことは否めない。ここで木村先生は理研から留学中の物理学者仁科芳雄とともにユニークな研究をした。そして帰国後、理研に建設されたサイクロトロンを使って仁科と協力して、世界のノーベル賞学者と競い合うような核分裂の研究を行い、日本の学問の存在感を示した。木村先生は戦後、アメリカの南太平洋ビキニ環礁での核実験による日本の漁船第五福竜丸の放射能被曝について、水素爆弾の構造を解明するような分析を詳細におこなって、世界の人々を驚かせた。この研究はアメリカやソヴィエト・ロシアの核競争に歯止めをかけ、核軍縮に導くひとつのきっかけになったのである。木村先生はこのようにして平和を創る人となった。木村先生のキリスト教精神はこうして長く平和運動の歴史に残るものとなった。私たちはそのことを今一度学会でも思い出すことにしたいのだ。

文学と解説・批評

2011-01-29 14:38:17 | 哲学
1月28日 晴れ後曇り(夜は雪と予報)
 日本人は独特の短歌を創造し、そして連歌のような連座を作って楽しむスタイルを生み出し、そしてさらに俳句を生み出した。俳句の変形が川柳となった。このような歴史的経過を見ると日本人も捨てたものではない、独特な創造精神を持っていることに感心させられる。そして俳句のような短詩は国際的に広がり、国際俳句としてひろがっている。私がカリフォルニア大学の米人教授を訪ねたとき、奥さんは私へのサービスの積りか、俳句をやっていることを聞かされた。アメリカを始め国際俳句は日本の俳句の精神を受けたものであるが、季語などに拘らない。短いポエムといった感じに見受けられる。
 私は俳句には素人である。だから適切な批評はできないのだが、俳句のような短い文学は、しばしばひとりの世界で、独りよがりの観想にどっぷり浸かる危険があるということを指摘したい。これもある友人と交わした会話だが、かなで書かれた語句の誤解の結果、とんでもない迷句が名句とされることがあって、それ以来その友人は俳句に失望したそうである。俳句は分かっている人の解説が必要になり、批評などはさらにその上を行く批評眼が必要ということになる。この事情はときには和歌の場合にも成り立つ。多くの人が作品を寄せるとき、よいものとそうでないものの区別は微妙である。一字の有無や、わずかな表現の違いが良否の分水嶺になる。そこで俳句同様、分かっている人の解説と正しい批評が必要なのだが、和歌は俳句に比べ叙情的なものも多く、主観的な好みに左右されることも否めない。批評は難しい。
 しかし考えてみるに文学の批評は一般に難しい。自然科学では真理はひとつだが、文学はそうとは言えない。まったくの駄作と誰もが認める傑作は大差があることは分かるが、その間のほとんど無限の作品の批評は好みや偏見に左右され、自信のある批評家を選ぶことが無理で、逆に開き直って独断と偏見で批評するぞというような人がでる。芥川賞や直木賞といった有名な賞もこうした基盤からの投票で決まるとなれば、落選した人もがっかりすることはない。万年候補の太宰治が長く長く読者に愛されていることを思い出して見るべきだ。

人間の歴史の非情

2011-01-28 17:19:32 | 哲学
1月28日 晴れ
 東北大学の名誉教授で工学部の電気工学科に在籍し、また計算機センターに奉職された桂重俊教授から歌集『波の粒』をいただいた。1922年生まれで88歳の先生だが、頭脳は明晰で今日に至っている。科学者であり、かつ歌人でもあるという、文理の才能を兼備された人である。波の粒という表題は量子力学では光や物質は波と粒子との二重性があることにちなんだものであると思われる。桂先生の師である渡邊寧教授のことを回想し、「プランクに魅せられし師に魅せられて辿り歩める波の粒かな」と歌い上げておられる。老練の感慨はすぐれて共感を呼び起こす調である。大学紛争時の労苦と空しさを歌ったものも印象に残る。
 さてその歌集にもあるが、ローマの建国の伝説の人物として知られているロムロスは双子の弟のレムスと不和になってこの弟を殺した。兄弟殺しは旧約聖書創世記のカインとアベルの物語にもある。人間とは何という激情の生きものなのだろう。欲のため、権力のため、嫉妬のため、憎しみの情の募るままに兄弟でさえも殺すのである。特に王朝の権力のためにはいろいろな悲劇が生まれる。日本でも壬申の乱として知られる大津の皇子と天武天皇ー大海人皇子の争いは日本史の曲がり角であるようだ。この時期に編集された日本書紀や古事記は特に古代部分が中国の歴史書との整合性がとれず、謎となっている。権力者が歴史を改竄する例は往々にしてある。非情で犯罪的な事実が伴う場合にはそれを隠蔽してしまう。天武朝の場合だと叔父甥間の争いで、その大筋の事実は隠しようもないが、勝者の不都合なことが切り捨てられたであろうことは明白である。神武朝のさいにも対立する長髄彦たちが悪者扱いー賊として扱われる。神武に追われた彼らは東北津軽に落ち延びて新たな国造りをはじめたといわれる。そのことを記した東日流外三郡誌は偽書として扱われたが、今もう一度見直しの気運が起こっている。一部に昭和の書き加えがあることは明らかだが、恐らく大部分は敗者の言い伝えが東北地方に残ったものであろう。それを秋田孝季が記録したのだ。この名が本名であるかどうかは問題かもしれない。しかしその人物の実在は強く支持される。細かいことに拘って迷路におちいるのは日本人の悪いくせである。本質を見据えた議論をおこして貰いたいものだ。

光と闇ー聖書の思想をめぐって

2011-01-27 14:15:07 | 哲学
1月27日 曇り時々雪
 午前いわき福音協会所属のハマナス荘の改築竣工のお祝いがありこれに参加した。集うものおよそ100名。賛美歌斉唱、聖書朗読、牧師のお祈りから始まる。このスタイルはこの協会の特有のものである。祝辞は衆議院議員、福島県福祉部長、いわき市福祉担当者など。小さくても志をもって行動する協会は職員たちの自信と誇りを支える。いわきでは特色のある団体となっている。私の理事の期間はあと3年。何か貢献することができればと思っている。
 さて私はかなり因果な性格で、人や物事にからめとられるのを嫌う。自分がなくなるほどに人に惚れ込むのは個性の消失だと思う傾向がある。こんな私だから、聖書に対して完全に批判を失うことはなかった。その記事のはしはしにまで捉われてすべてが霊感によって書かれたとまでは思われず、所々に間違いが見られ、間違いは間違いとして見なければならない。しかし思うに、基本的な点で聖書は神の言葉に相応しい霊感がこめられている。その点は間違いないと信じている。巨視的見方と微視的見方は相補う必要があり、一方に偏してはならないのだ。科学者はしばしば一方的になりやすい。注意しておかねばならぬ。巨視的見方こそが大局的に人を正しく導く。
 さて聖書の中の思想は深い。光と闇の対立は私たちの心に迫るものである。ヨハネによる福音書はその点を鮮明にしている。この世にイエスが現われた意義は何か。イエスはロゴス、真理であり光であるとヨハネは言う。こう言ってなお言い尽くせないもどかしさを彼は感じていたであろう。イエス自身は「わたしは道であり、いのちである」と自己定義を語るが、これも言い尽くしがたい含蓄を持った言葉なのだ。ヨハネはイエスの伝記で光だけを叙述しようとはしない。光に伴った闇のことが、全体の記述の中で悩ましくもしつこいまでに書かれている。それはサタンの働きとして示されている。光のイエスは闇のサタンに敗れて十字架の刑に遭い、もはや万事休すかと思わせた。ところが劇的な事件が起こった。イエスは弟子たちに復活の姿で現われたという。どんでん返しである。そしてイエスの教えはついにこの世に勝った。悪魔の働きに勝利したのだ。
 ただしそれはまったくの終わりではなかった。その後もサタンはなお人類を邪魔し続けている。光と闇の対立は生易しいものではないといえるが、最後の勝利はイエスにある。光といのちに約束の勝利がやってくる。黙示録の思想はそれを示している。

体・心・魂

2011-01-26 17:42:15 | 哲学
1月26日 晴れ後曇り
 日野原重明氏の講演会を聞きにいわきアリオスに行く。会場は満杯で去年開設以来初めてとのことであった。人口34万の0.5%の1700人が入場したことになり、主催者も驚いている様子であった。現われた日野原氏は直立し、時に歩き回りながら、ユウモアたっぷり、双方向型のおもしい話振りで、聴衆の笑いを誘った。生き甲斐がある生活の充実が人を幸せにし、そして長寿を保証する。日野原氏はそんな事実の生きた証明ともいえる。
 日野原氏の話の中で「生きることは三角形の三辺の要素を持つ。体、心、魂である。体は物質的なもので見えるが、心は見えないけれども存在する。さらに人には魂がある。心の奥のはっきり目には見えないし、分かりにくいものだが、これを無視することはできない。といった主旨のことが述べられた。
 心までは分かっても魂とは何かを正しく説明できる人は少ないだろう。唯物論では心とは精神作用のことであり、それは脳内で起こる科学的な現象でそれ以上の何物でもないとする。さらに魂の存在は幻想に過ぎないとする。しかし宗教的な伝統のある社会で唯物論が栄えるのは一時期のみである。ソヴィェト・ロシアは宗教を弾圧したが、しきれずに崩壊した。中国のキリスト教は弾圧されても亡びなかった。
 科学的な説明は難しくても魂の存在は否定できない。日野原氏のような100歳目前であのような活動をするができるのは奇跡のようなものである。神に選ばれた人である。魂はすべての人に宿るが、特に選ばれた人には常人の及ばぬような活動をすることができる。