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一生

人生観と死生観

裸の王様

2010-10-06 16:27:24 | 人生人間
10月6日 曇り時に晴れ
 今日経済評論家の榊原氏や同志社大学の浜教授の現今円高状況の解説を聞いていたら、アメリカ経済と日本との関係について得る所があった。経済理論は難しいが、簡単に言ってしまえば、アメリカは第二次大戦直後は圧倒的な政治、軍事、経済的な力を持っていて、西側世界に君臨し、王様のようであった。しかしあれから65年もたって、東側の帝王のロシアが転落してしまったように、アメリカも既に裸の王様になりつつある、いやほとんどそうなっているが、それを認めてしまうと、アメリカ自身も、世界も大混乱におちいり、大変なことになるので、認めたくない。見かけ上の王様として冠をかぶり、立派な着物を着ていることにしているのだ。しかし素直に見れば、やっぱりほとんど裸というのは隠しようもない、というようなことであった。まことに困ったことである。経済の混迷は社会に深刻な影響をもたらすことは明らかである。日本は今薄氷の上にいるという状況であるようだが、国民も政治家もそれほど騒いでいる様子はない。何が起こるか分からないのが、政治や経済の世界である。私たちは何が起こってもよいよう心構えをしっかりともちたい。。太平洋戦争後の窮乏に耐えた私たち世代はともかく、これからの世代、子や孫たちの世代のことを思えば、気の毒だ。艱難の中にも祝福があることを信じて、戦ってもらいたい。

裁判官と人間性

2010-09-18 16:53:15 | 人生人間
9月18日 晴れ
 仙台での用がすんで帰途につく。朝日新聞を仙台駅で買ってふと見たら訃報の欄に小野寺規夫氏の名が出ていた。氏はワクチン禍東京訴訟の第一審、東京地方裁判所の裁判長であった。11年かかった第一審の締めくくりの判決を書いてくれた人だ。この判決は憲法29条3項を拡大解釈する判決で原告勝訴に導いた。1973年に始まった訴訟で、長いこと勝つか負けるかの瀬戸際にいる緊張感で締め付けられていた私たちは、はじめてこれは大丈夫いけると思ったものである。結審近い9年経過の頃、小野寺氏は出張尋問でわが家に出向いてくれたが、私の都合でかなり長時間待たせることになり、私は冷汗をかいてしまったものである。それでもわが家を退去するとき、彼は慰めの言葉と取れる発言をしてくれた(もちろん裁判官は審理中は公平を保たなければならないからもう終って帰るというときであったが)。重症の障碍を負った二男の姿を見て人間として思わず出た言葉だったのだろう。私は法の秩序の根底にある人間の問題を私たちは提起したのだと思った。彼の判決は歴史に残るものになった。東京高等裁判所では少し違う立場の判決となったが、それはそれとして予防接種被害者の救済の扉を開いたこの裁判は後世に伝えられるべき価値を持っている。小野寺氏の人間性を一原告として私は深く感謝するものである。

はじめは終わりの半分

2010-09-12 16:51:31 | 人生人間
9月12日 雨のち晴れ
 日曜日は静かに過ぎる。
 私の中で多くのものは過ぎ行く。科学を愛した少年がそこにいた。青年期になると文学・小説・詩を愛し下手の横好きで創作さえ試みた、大人になりかけ、なり損ねそうな存在だった。戦後の混乱期で家は貧しかった。現実的には学校を出て何か職業に就くほかなかった。しかし学校ははじめはちゃらんぽらんにしていて、結核にもかかり、成績も悪かった。大学を卒業するころになって厳しい就職事情をはじめて自覚し、国家公務員の試験(当時は六級職試験といった)。幸い全国で1500人あまりの受験者のうち上位3番で通った。大学の先生は大学に残してやろうかともいったが、それは実現せず、通商産業省の電気試験所に入った。放射能の研究は本当はやりたい仕事ではなかったが、選択肢が限られ、爆薬の研究よりはましと思って放射能のほうを選んだ。ビキニの死の灰事件が発生した当時の先端的な研究ができることになったのは、私の幸か不幸か。とにかくやるよりほかなかった。こうして現在に連なってゆくのだ。ことわざにはじめは終わりの半分というそうだ。これは旧制高等学校のK教授に教わった言葉だ。良くも悪くも私はこうしてスタートした。
 真面目な話、人にはそれぞれの運命があり、私はとにかくそれに従って歩み、自分の道を曲がりなりにも最後のポイントまで辿りつこうとしている。私は天命を信じる。生涯の終わりに近く、反省多い半面、神に感謝するこの日曜日だ。

天候異変と私たち

2010-09-08 11:57:17 | 人生人間
9月8日 雨
 猛暑が続く中、発生した台風9号は奇妙なコースを通っている。北九州と朝鮮半島との間を通り、島根県沖の日本海を渡り、福井県敦賀付近で本州に上陸した。福井上陸後は滋賀県長浜方面に向かうと予想されている。よろよろと南進しているということか。変な台風だ。福井県も驚いているらしい。大体福井県に上陸するなど気象台の歴史でも先ず聞いたこともない。南の高気圧の関係から、そのへりを周る傾向でこうなるのかもしれない。しかし海上を通る台風より早く衰えてくれるならそれも良し。いずれ東進して関東に向かってくる。いわきは万事関東式の天候だから、影響されることは必至だ。
 気候異変は台風にまで及ぶ。その大きさも、また進路も。こまったものである。

新しいテーマに取組む

2010-09-07 16:19:50 | 人生人間
9月7日 晴れ後薄曇
 何か新しいことに挑戦し、これを解決するような態度が人を活性化し、いつまでもその人を若々しく保つという。新老人の会の日野原氏の行き方もそうである。
 私は日野原氏に教えられる前から自然にこのことを実行してきたが、日野原氏と出会ってからいっそうその意味を深く感じるようになってきた。人間いろいろな出会いがあり、それを新鮮なものとして利用する人はつねに新しいテーマを生み出すことができる。
 私は今考古学のテーマに取組んで、最初の論文を投稿する寸前まで来た。古代水田稲作の北方ルートの問題である。これは従来私が専門としてきたテーマとは毛色が違うが、プラス指向で行きたい。考古学者が内向き思考しかしていないところを素人が大胆に解決して見せるといったこともありうるのである。シュリーマンがトロイの遺跡を発掘して、専門家を驚かした歴史もあるではないか。

小沢の迫力

2010-09-05 15:27:44 | 人生人間
9月5日 晴れ
 またしても晴天。いわきはふつうそんなに気温が高くならず、福島県の特別保養地のように思っている人が多いのに、昨日はあわや猛暑日一歩手前の34.4℃を記録した。今日も暑そうだ。9月だというのにこの変な気象。一体天気の無軌道ぶりはいつまで続くのだろう。
 そしてこんなに暑いのに民主党の総裁選挙を目前にして小沢氏と菅氏が競り合っている。小沢氏の話は上手ではないが、ド迫力がある。田中秀征氏は小沢氏のことを政界を渡り歩いて帝王学を学んだ人といっていた。なるほど多くの人をひきつける何かを持っていることは否定できない。一年生議員などはいちころに参ってしまうだろう。しかしそれで日本の将来を託するに足るかというと、私はそうは思わない。アメリカと渡り合って沖縄の基地問題をしっかり解決してくれれば話は別だが。官僚の我儘を抑え、官僚政治の打破をいうことはよいが、官僚にも人権はあるし、官僚がやる気をなくする政治主導が絶対よいとは限らない。ただしこの競い合いが両者に、とくに菅氏の勉強の機会になればよいがと思っている。

凝り性な人

2010-09-04 16:28:10 | 人生人間
9月4日 晴れ
 ゲゲゲの女房を見ているが、漫画家の生涯なんて今まで考えてみたことがなかったので、テーマがすべて珍しくそれに過ぎ去った昭和が懐かしいので朝はいつもNHKのテレビの前。貧乏時代が終って仕事が忙しい時期が続き、やはりこの人は金持ちになることになれていないと思っていた。ただ猛烈な凝り性には感心していた。凝ることは悪いことではないが、暇潰しも度が過ぎれば、いろんなことに差しさわりが生じる。漫画の世界は私の少年時代で言えば、のらくろとか兵隊ものが主流であった。軍人になることを夢見た少年が多い中で、私は軍人は嫌いだった。私は凝り性なところがあるかと思えば、飽きっぽくもある。正確にムラがあるのかと反省もするが、適当に人生を楽しむためには凝り性だけではまずいだろう。そんなことを考えながら、ぼっとして今日の日を過ごす。昨夜は論文に凝ってほとんど徹夜だったから。

思想と行動

2010-09-02 15:11:52 | 人生人間
9月2日 晴れ
 思想する人と行動する人はそれぞれ別の使命があるようだ。思想家は学者の一種と見てよいだろう。かれの頭の中でいろいろなシナリオが立てられるが、自身はリーダーとして行動するより一歩下がったところで全体を見るのである。行動する人は違う。多くの人に先立って引っ張ってゆく情熱を持っている。実際にことが運ばなければ、かれにとってシナリオは何の意味もない。歴史上思想家が尊ばれた中国のことを見るに、春秋戦国時代に数多くの思想家が表れ、それぞれ個性ある言葉を残した。それは警世の書として長く後世に伝えられた。しかし今の民主主義の世に政治家は行動力がなければ役に立たない。けれどもそのよって立つ基盤として思想の裏付けがなければ何とも浅薄な行動しか取れない。騒ぎまわっても結果はネズミ一匹である。教の小沢と菅両氏の討論は日本人政治家としての限界を示すような気がして終わりまで見ていられなかった。小沢氏の軌跡は特異だが、結局収穫のない果物畑のようだ。どこかずれているところがあるのは残念だ。首相の器もタイミング次第。

姉の死

2010-08-14 14:55:01 | 人生人間
8月14日 曇り一時日の光
 死についての話題をもう一度取り上げる。生きているものにとって死は恐ろしく、嫌なものである。私が見た最初の死は父の死であった。1934年私が4歳のときに父は結核で死んだ。伝染する病気だから子どもたちは別棟に隔離されて暮らした。したがって父の病の進行の状況は子どもたちは目撃することがなかった。なくなった後白い布を顔にかぶり静かに横たわる姿を見せられただけであった。感染を避けるため近くに行くことは止められた。その次は姉の死であった。この姉も結核であった。家族内感染ではなかったようだが、当時はそこここに患者がいたので体の弱った人は感染したのである。姉は田舎で小学校の教師をしていたのだが、喀血をして学校を辞めざるを得なかった。戦争は烈しくなり、この姉はけなげに生きようとした。学校を辞めてからの彼女は療養しながら新潟市で弟と妹の生活の世話をすることになった。弟である私はこの姉にずい分世話になったが、一向に感謝らしいものを示さずに自分勝手に生きていたことを悔やむ。母は田舎の家とわずかばかりの財産を守るためと、二番目の姉が学校の教師の勤めに出ている生活の世話をするために田舎暮らしをしていたのであった。二所帯に分かれて暮らすことになったのは理由があるのだが、ここでは詳しく説明する余裕がない。姉は戦争後栄養不足で体力はますます低下し、結核は悪化してきたが、頑張って暮らしていた。その頑張りもついに終わるときが来た。毎日病床ににつくようになり、そしてある朝呼んでも返事がなく、戸をあけてみたら、もうこと切れていた。最期は苦しかったであろうに私や妹が気付くこともないうちになくなった。私は中学生だったが死を怖いとこのとき感じ、姉の体に触れなかった。田舎から母を呼び寄せ、そして姉の遺体は火葬場に運ばれた。そんなことを思い出すと姉にはとてもすまない気持ちになるが、人間の罪の実相はこんなものである。死を乗り越えた世界で彼女の幸せを祈りたい。

捕虜の思い出

2010-08-08 11:21:25 | 人生人間
8月8日 晴れ
 あとわずかで敗戦65年になる。あの時わが家は母と五人の子どもたちだった。兄は陸軍にとられ、石油会社に勤めていた経歴を買われて、安全な新潟市の燃料関係の施設にいた。私は県立新潟中学校の4年生。勤労動員で工場に行ったり、港湾荷役に使われたりしていた。副級長を務めていたようだが、詳しいことは忘れかかっている。英国の捕虜が青い顔をして港の方へ行く姿を目撃した。栄養失調のような姿であった。これを見た同級生のA君は罵声を浴びせた。習いたての英語で。You shall die ! と。つまり「お前たち、殺すぞ」である。捕虜に対して哀れみの気持ちは彼の中にはなかった。私はいくらか気の毒に思っていたので同調はしなかったが、止めもしなかった。今から思えば武士道どころではない情けない話である。捕虜の人たちは無表情であったが嫌に思ったであろう。戦後BC級戦犯が裁かれたが、捕虜虐待は多かったようだ。明治の頃日露戦争で、あるいは第一次世界大戦で日本人が捕虜のロシア兵や、ドイツ兵に示した武士道的扱いは第二次大戦ではまったくなく、日本人の本性むき出しだったということか。