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水戸の画家

2018-01-12 21:10:44 | 水戸

林十江(じゅっこう) 安永6(1777)-文化10(1813)
 酒造業・升屋高野惣兵衛(俳句・遅月のパトロン)の子で、近くの醤油業を営む伯父の林市郎兵衛の養子になったそうです。絵の師ははっきりせず、独学だったらしいですが、立原翠軒の塾に通い、漢籍や和歌、俳句などを勉強し、翠軒の子・杏所に絵を教えたそうです。養父の死後家は衰え、結核をわずらった身で文化10年(1813)、37歳で江戸へのぼったものの1カ月余りで帰郷して死去したそうです。画壇の定法とは離れた題材や手法によって絵を描いたそうで、今の時代にあいそうです。墓は清巌寺にあります。

 

立原杏所(きょうしょ)  天明5年(1786)-天保11年(1840)
 彰考館総裁だった立原翠軒の子供で、幼い頃、7つ年上の林十江に絵を学び、江戸小石川藩邸勤務となってから谷文晁に師事し、渡辺崋山や椿椿山とも交流があった画家だそうです。関東南画に属し、十江とは対照的な丹精な山水画や花鳥画をよくしたそうです。墓は東京から移されて菩提寺の六地蔵寺にあります。

 

立原春沙(しゅんさ)  文化12年(1815)-安政2年(1855)
 立原杏所の娘で、絵を父と渡辺崋山に学び、崋山十哲の一人といわれたそうです。22歳で、父と共に当時の人名録に掲載されているそうです。加賀藩へ嫁いだ将軍・徳川家斉(いえなり)の娘・溶姫(やすひめ 東大赤門はその輿入れのときに造られたそうです)の侍女となって絵に向かい続けられたそうで、大奥の屏風などを手がけたそうです。墓は杏所らとともに六蔵寺に移されて新造されたそうです。

 

松平雪江(せっこう)  天保5(1834)-大正5(1916)
 横山大観の父とはいとこの関係だそうで、画家だった父・雪山や、その師・杏所に学んだそうです。雪江の絵は、内国勧業博覧会に刺激を受けて同じ農商務省が主催した内国絵画共進会に出品されて、褒賞や入選したそうです。県庁の職員になり、常磐公園攬勝図誌や追鳥狩絵図をつくったりしたそうです。

 

加藤雪潭(せったん) 文化6(1809)-元治1(1864)
 松平雪山に絵を学んだそうです。徳川斉昭の命により、天保14年に行われた軍事演習である追鳥狩を鳥瞰的に描いた、19軸からなる絹本着色・追鳥狩絵巻を佐野致盛ら5名でてがけたそうです。この絵は、斉昭が妻の吉子におくったもので、完成までに約10年間かかったそうで、徳川ミュージアムにあるそうです。雪潭は、幕末の天狗党との騒乱の中で、那珂湊で戦死したそうです。墓は酒門共有墓地にあります。


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