ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の習俗(1)

2022-01-21 19:34:06 | 水戸

 不用となった井戸を埋める時には、塩と酒で清めてから、梅の木と芦(アシorヨシ)を入れてから土を入れるという習慣があったそうです。これは、「埋め(梅)て良し(芦)」という意味だそうです。そしてその際には、井筒は掘り上げることとされていたそうです。写真は伊藤玄蕃(げんば)屋敷から発掘された井戸です。これなどは、井筒はそのままですが、どのように埋められたのでしょう。よく見ると、井筒の内と外の土の色が違うようです。

 

 明治の終わりごろまでの商店では、20才くらいまでの店員を小僧といったそうです。木綿の着物に小倉の角帯、紺色の前掛けと決まっていて、10月の恵比須講までは足袋をはいてはいけなくて、冬でも羽織を着ることはできなかったそうです。中番頭になるまでは、正月と盆に渡される僅かな小遣い以外には無給が普通だったそうです。写真はかつての黄門まつりで見た、足袋(地下足袋)です。後を止めるこはぜも見えます。

 

 明治末までの芸妓置屋では、神棚に男根の木像を飾り、毎日礼拝したそうです。お客のない晩などは、それを下ろして扇子(せんす)でたたくのが習慣だったそうです。花柳界の信仰が盛んな神社には、男根がよく置かれているようです。和田平助の墓信仰もそうしたものの一つだったのでしょう。写真は、銭谷稲生(ぜにやいなり)拝殿内にある、奉納された男根です。かつて本町が盛んだったころのなごりなのでしょう。

 

 水戸では葬儀を日没後に行うことが一般的で、特に友引の日には夜半に行われたそうです。これは、昼間の有用な時間を避けたのだろうとのことです。明治30年代は一般的な習慣だったようです。

 

 日照りで、農作物に被害がでそうなときには、古くから別雷皇太神に参詣して雨乞いの祈願を行ったそうです。祈願がすむと神社の井戸から水をもらい受けて、村の四つ辻に祈祷札(きとうふだ)を立ててその札に水を振りかけて降雨を願ったそうです。この習慣は昭和の初期まで続いていたそうです。写真は別雷皇太神の拝殿です。

水戸の俗信(3)

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