昔の話を見るときの参考にしてください。
建久年間(1190-1198 鎌倉初期)から約230年間
馬場(大掾(だいじょう))資幹(すけもと 坂東平氏国香(くにか)の流れをくみ、源頼朝から常陸大掾職を与えられる。)
今の水戸一高あたりに館(水戸城とはいっていなかった)を築く(水戸城の始まり)。(実際の居住は大掾職をつとめる府中(現石岡市)。)
応永33年(1426)から約164年間
江戸通房(みちふさ)
藤原秀郷の流れをくむ、河和田城主江戸通房が、大掾氏本拠水戸の館を奪う。江戸氏は常陸太田を本拠地とした佐竹氏と対立したりもしたが、その勢力下に属していた。そして天正18年(1590)、江戸重通(しげみち)は、豊臣秀吉の小田原攻めに参加しなかった。
天正18年(1590)から約12年間
佐竹義宣(よしのぶ)(常陸太田の大名)
水戸城明け渡しを拒否した江戸重通(しげみち)を攻撃して滅亡させる。常陸54万石を与えられる等の秀吉との関係から関ヶ原の戦いでとった曖昧な姿勢をとがめられて、義宣は家康から秋田への転封を申し渡される。
慶長7年(1602)から約1年間
武田信吉(のぶよし 家康の5男。20才で水戸に15万石で水戸藩主に。甲斐武田氏を継いだので武田を名乗る。)
佐竹の秋田への転封に伴い水戸藩主に。慶長8年(1603)病死。
慶長8年(1603)から約6年間
徳川頼宣(よりのぶ 家康10男。2才で水戸20万石藩主に。)
頼宣はその後、慶長14年(1609)に駿河・遠江・東三河の50万石に移る。
慶長14年(1609)から約52年間
徳川頼房(よりふさ 家康の11男。7才で水戸25万石の藩主に。)
寛文元年(1661 )死去。
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