徳川斉昭は、畳表の材料であるイグサを、青柳付近の深田や、千波湖南側の芦原へ植えさせたそうです。今でいえば地域おこしや地産地消をのようで、「日用の品等なくてかなわざる(なくてはならない)品はもちろん、他国より入れ申さざる国産(水戸藩以外から持ち込まない藩内で生産された物)にて人々用立て候(そうろう)よう致したく」と斉昭は書いているそうです。陶器や茶樹、紙等、いろいろ試みたようです。写真は筑波実験植物園で見たイグサです。
斉昭は自分で興味あるものは自身で製作を試みたようです。残っている斉昭作の陶器の多くは、お茶の黒楽茶碗だそうですが、その他の茶器や煙草入れなどもあるそうです。殿様芸を越えたレベルの作品だそうですが、異なった意匠が多くて同じものがないそうです。それらは、御連枝や近臣、藩士などに与えられたそうです。何陋庵(かろうあん)という茶室のある好文亭近くにも、陶器を焼く窯があったようです。
この頃は、藩主のご飯の中に小石でも入っているようなことがあると、その担当は切腹しなければならなかったそうです。斉昭はそのようなときは、こっそりと始末していたそうです。台所係を勤めた旧臣の話を孫に当たる婦人から聞いたという文があります。もっとも、この類の話は、多くの殿様の伝承としてたくさん残っているようです。
伊能忠敬に学び、蝦夷地を調査した間宮林蔵が、湿瘡(しっそう 皮膚病)をわずらっていることを聞いた斉昭は、それにきくという薬の処方を、藤田東湖に命じて届けさせたそうです。光圀以来注意を向けていた蝦夷地を調査した間宮は、斉昭に招かれ、蝦夷に関する建言をしたり藤田東湖と往来したりしたそうです。
斉昭は万延1年(1860)に61歳で死去したそうですが、この年、弘道館の梅がウメエダシャクの幼虫に葉を全部食い荒らされてしまい、これは斉昭が死去する前兆だったのだろうと、後にいわれたそうです。似たような話が秋成町の鹿島神社にあります。
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