ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の酒の話(15)

2022-01-10 19:03:17 | 水戸

 水戸の殿様が暑さにあてられて急病になり、治せる医者がいなくて、原南陽が呼ばれたそうです。南陽は薬屋で巴豆(ハズ)三粒と杏仁三粒を銭九文(今の感覚で300円くらいでしょうか)で買い、それを擂って殿様に飲ませたそうです。熱燗一升を所望して飲んでいるうちに、人事不省だった殿様は回復したそうです。それで南陽は侍医となったという伝説があるそうです。写真は酒門共有墓地にある原南陽の墓です。

 

 弘道館の大学中博士になった青山延光(のぶみつ)は、肥って温厚な性格で、会沢正志斎屋敷で会った吉田松陰には「所謂蒟蒻(いわゆる、こんにゃく)党なる者ならん」と書かれています。それだけに幕末の争乱にはあまり巻き込まれなかったようです。病気で彰考館に出られなかったとき、今まで見てきた多くの文献から「酒史新論」をまとめたそうです。二巻あって、第一巻は、酒神・造酒司・名酒・酒徒・酒失、第二巻は雑となっています。雑には徳川光圀が後楽園に酒亭(現在も復元されたものがあるようです)を建てて、盃に酒を注ぐに昼は九分、夜は八分を限度(酒を飲む限度をいっているのでしょう)とするということから九八屋と名づけたなどというエピソードもあります。写真は、随分前に写した後楽園・九八屋です。

 

 文化12年(1815)の彰考館総裁になった川口緑野は、酒品に問題があったようで、平生は温和だったそうですが、酒を飲むと裸踊りをしたり、二日酔いで3日も続けて彰考館に出なかったりしたそうです。ある年の彰考館開館式の日、大酒して周囲を心配させたそうですが、一気に詩を詠み出して、その非凡さを皆が認めたということもあったそうです。写真は常磐共有墓地にある川口緑野の墓です。

 

 水戸にかつてあった大寺・羅漢寺を開いた木喰僧・観海は、微笑仏で有名な木喰五行に木喰戒を授けたそうです。その木喰五行に酒の歌があるようです。酒の原料は米ですから、穀断ちする木喰戒との関係はどうだったのでしょう。
とつくり(徳利)にちやわん(茶碗)一トつもあるならば 六歩(六部)はらみつ(波羅蜜=腹満つ) にせ(二世=偽)のあんらく(徳利と茶碗があれば、腹は六分目になり、偽の安楽にはなるといった感じでしょうか)
正月は もち(餅)酒さかな(肴) ととのへて あまりくら(喰)ふて うごかれもせず
写真は、宝蔵寺(谷田町633)にある観海の墓です。

 

 ぶらっと歩きをしていて飯島町で、庭にたくさん貧乏徳利などが並んでいる家を見ました。昔は、酒屋がお得意に徳利を渡して、量り売りをする通い徳利としたそうで、貧乏徳利といわれたそうです。写真では、「好文」、「ホームラン」などと書かれていて、新しい徳利のように見えますが、その形は昔ながらのものです。

水戸の酒の話(14)

コメント (2)
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