MATTのひとりごと

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駒場学校群:早朝徘徊シリーズ (2016年8月9日)

2016年08月09日 | 徘徊

家族からは「身分証明書とケータイを持って出かけるように」とクギを刺されながらの徘徊シリーズです。
「徘徊」ですから 当然ながらどこへ向かうかは本人にもわからないという適当な「散歩」ですが、途中撮影した写真では全体がよくわからない建物を「グーグル・アース」という衛星写真の力を借りてご紹介します。
これ以外にも「グーグル・マップ」や「ウィキペディア」さらにはネットにアップしておられるたくさんの研究家の資料などもお借りしながらまとめました。

今回は我が家の周囲にたくさん建てられている学校を中心に辿って歩いた記録を紹介いたします。東京都から特に「文教地区」に指定されているわけではないのですが・・・・

今回「徘徊」した地域はこのような範囲にあります。(地図をクリックすると大きな地図になります。) 
 
大半の施設は自宅()よりも南東方向にあるのですが、まずは自宅から近い「松蔭学園」に向かいます。以降2枚つながっている写真はそれぞれ下側の写真がグーグル・アースによるものです。

① 松蔭学園
  
ここは以前「松蔭女学校」という女子だけの中学・高校でしたが2005年(平成17年)から男女共学となったようです。 

この学校は1941年(昭和16年)に創設され、その後幼稚園(最初から男女共学:我が家の子供たちもお世話になりました)、大学、大学院と発展しますが、ここのキャンパスは幼稚園と中学、高校だけが設置されています。

学校名の由来は創設者であった松浦昇平氏が吉田松陰の言葉「知行合一」に感銘を受けて命名したとのこと。
(「松蔭」と「松陰」の違いはわかりません、ご存じの方がおられましたらおしえてください)

ところで神戸にも「松蔭女学校」というキリスト教の女学校が1892年(明治25年)に創設され、その後「松蔭中学・高校」と名前が変わったので、もしかするとある時期東京の「松蔭中学・高校」との混同がおこったのではないでしょうか。しかもこちらのほうが遥かに歴史も長いのですが。
ただ、こちらは現在「学校法人松蔭女子学院」と「女子」を入れるとともに、「神戸松蔭女子学院大学」と大学には「神戸」を入れることで混同をさけていると思われます。

なお千葉県には甲子園にも出場したことのある「八千代松蔭中学・高校」が1978年(昭和53年)に創設されましたが、こちらも創設者が吉田松陰の名前に因んで命名されたようです。

 ② 池之上小学校


私が卒業した小学校です。 

1940年(昭和15年)に創設された世田谷区立の小学校で、この学校の創設以前は生徒たちは少し離れたところにある代沢小学校まで通っていました。

井の頭線池の上駅直近にある学校ですが、駅および周辺の建物がすべて「池の上」「池ノ上」と表記されているのに対して、この学校だけは「池之上」と表記されて現在に至っています。

外見の立派な北側の通用門
 
に対して、西側にある正門

 
のいかにも貧弱なのが目立っています。

プールの壁面に描かれたサザエさん一家の壁画が有名ですが、


残念なことにこのプールは私の卒業後に作られました。
もっともここだけでなく中学校のプールも卒業後に作られたことが私の「泳げない理由」であるとずうっと言い訳してきました。

私の在籍していた昭和20年代は各学年3クラスずつで、各クラスが50名程度だったのですが、現在は各学年2クラスで、しかも各クラスが30名程度と、かなりこじんまりとした構成になっています。これも少子化の影響なのでしょうね。

ところでこの一帯の住居地番は「代沢」もしくは「北沢」であって「池の上」というものは存在しません。
さらには「池の上」と称するからにはどこかに「池」が有ったのではないか、と「池の上駅」を命名した京王帝都電鉄のお客様相談室に問い合わせたところ「この一帯の南に池があったのでそのように呼ばれたらしいが、具体的には場所が特定できない。」との回答を貰いました。

そこでネットに載っている情報をいろいろと調べてみました。本来でしたらそれぞれの出典を明記しなければ著者に失礼なのですが、申し訳ないことにそれらを記録していなかったため掲載できませんでした。(ごめんなさい!)

池の上駅を含む井の頭線の誕生は1933年(昭和8年)と比較的新しい路線で、これが開通する前1930年(昭和5年)発行の地図に井の頭線の軌道を記入してみました。この地図もクリックすると拡大します。


 この地図によれば、現在の我が家()の東側が南北にわたる谷になっていて北側の三角橋から南に向かって川が流れていたようです。私たちの家族(私を除く・・・誕生前なので・・・)が住み着いた1938年(昭和13年)頃にもここには幅の狭い川が流れていたのですが、井の頭線の盛り土によって遮られた流れは土管にまとめられて盛り土を潜り、南側に続いていました。
そして現在はすべて暗渠となってしまったためこの一帯は公園と変わっています。
下の写真で右端高台の家が我が家で、遠くの盛り土の上を井の頭線の電車が走っています。
 
地図の南側に書かれているようにこの一帯を「溝ヶ谷(みぞがや)」と呼んでいてその東側が「池ノ上」となっていますので、この溝ヶ谷のどこかに「池」があったと思われます。そして地図で「溝ヶ谷」の隣に書かれていた「池ノ上」という字名は近隣の「上ノ町」や「松代」などとともに住居表示の制定時に消えてしまったのでしょう。

ここ溝ヶ谷を流れていた川は、北の「三角橋」を東の渋谷方向に流れていた「三田上水」を三角橋で分流したもので、ここから一気に南下し北沢川に注いでいて名称は「北沢川溝が谷支流」と呼ばれていましたが、現在は「池」の存在はもちろんのこと「川」の名残も暗渠によってわからなくなりました。

「三角橋」という地名は別に橋が三角形をしていたわけではなく(!)昭和通の中央区役所脇に掛かっている「三吉橋」同様、三叉になっている川に掛かっていた橋のことをそのように呼んだのでしょうね。
 
グーグル・アースで見た我が家(手前中央の青い屋根)と公園広場、そして井の頭線の軌道です。左上の白い建物はタイトル写真に使った駒場リサーチ・キャンパスの一部分です。


地図上には三角橋から航空研究所(現在の駒場リサーチ・キャンパス)の敷地を通って南下する「計画道路(補助26号・・・表記されていませんが)」と下北沢方向に進む「計画道路(補助54号・・・これも表記はありません)」が破線で示されています。これらが実現すれば三角橋は三叉路ではなく十字路となり下北沢と渋谷を結ぶかなめともなるのでしょうが、すでに80年以上たっていることで下北沢方面の住宅の立ち退きには大変手間が掛かると思われます。

なお、地図の右下にある「獣医学校(古い漢字がないので)」の敷地は現在の「駒場学園」と「富士中」そして「都営代沢一丁目アパート群」に変貌しています。

③ 都立国際高校


新宿区山吹町にあり1991年(平成3年)に廃校となった都立赤城台高校の後継高校として1989年(平成元年)に誕生した高校で、都立高校としては唯一の国際学科を持っています。

赤城台高校の前身は1942年(昭和17年)に開校した東京府立第二十高女でしたが、1948年(昭和23年)に赤城台新制高校となり、さらに都立赤城台高校と改名いたしました。

我が家の三男はこの赤城台高校に合格し、新入生を代表した挨拶までしたのですが、本人はそのときすでにアメリカ本土の高校に入学する意思を持っていました。
当時の校長からは「この学校は翌年から国際高校となって国際人を育てるのだから、わざわざリスクを冒してまで留学することはない」と説得されたのですが、結局初志貫徹ということで留学し、大学を卒業してから日本に戻って来ました。 

その意味で、この学校は我が家にとって縁があるようなないような不思議な存在なのです。

④ 目黒区立駒場小学校


この学校に限らず、各地の小学校と中学校はセキュリティーの面からなのでしょうがいずれも校内立ち入り禁止となっています。
私の母校の池之上小学校も以前は自由に立ちいれたのですが、最近はガードマンが警備をしているようです。

ということでたまたま通り道にあるこの駒場小学校も閉ざされた門から望む景色以外はまったくわからないのですが、グーグル・アースの威力で上空からこの学校の全貌を望むことができました。
このシステムを構築したグーグルの底力には敬服いたします。

⑤ 東京大学駒場地区キャンパス


普通。東大の駒場キャンパスといえばこの写真の一帯を指していますが、正確にはこの場所は「駒場Iキャンパス」と呼ばれ、もうひとつ我が家のすぐそばにある「駒場リサーチ・キャンパス」





が東大の「駒場IIキャンパス」と呼ばれていて、この二つを合わせたものが「東大駒場地区キャンパス」なのです。

そうは言っても一般に「駒場の東大」といえば「駒場Iキャンパス」のことを指しています。

もともとこの駒場Iキャンパスの土地は東大農学部の前身である駒場農学校の校地だったのですが、1935年(昭和10年)に本郷の旧制第一高等学校と校地を交換したことにより、ここに旧制一高が移ってきました。

現在の井の頭線「駒場東大前駅」は「駒場駅」と「東大前駅」がお互いに歩み寄って(笑)1965年(昭和40年)にひとつの駅になったのですが、その「東大前駅」は1951年(昭和26年)まではもともと「一高前駅」でした。
もちろんこの「一高前駅」から「東大前駅」への変更は旧制第一高校が新制の東京大学に吸収されて消滅したことに起因しています。

私は両親から「歩いて通えるんだから何としても東大に合格せよ」と言われ続けていたのですが、どうしても地方に住みたくて(ウソ!)地方の大学に入りました。これに対して我が姉はまじめに勉強したおかげで目出度く合格しただけでなく、普通の東大生は大学前期の二年だけをここ駒場の教養学部に通うのですが、なんと彼女は後期二年も教養学部の教養学科に進んだため4年間というもの我が家から歩いて?通いとおし、家計を大いに助けました。

なお、土地の交換としては、現在の駒場Iキャンパスに隣接していた前田公爵邸の所有地を現在の駒場リサーチキャンパス近くにあった東大の農学部跡地と1936年(昭和11年)に交換し、その後1967年(昭和42年)に前田公爵邸はその敷地ごと「東京都駒場公園」となりました。



⑥ 日本工業大学付属駒場中学・高校


創立が1907年(明治40年)と大変歴史のある日本工業大学の付属で首都圏唯一の私立工業高校の「東京工業高校」でしたが、2008年(平成20年)に普通科を新設したことにより「工業」が名乗れなくなって名称を「日本工業大学付属駒場中学・高校」と変更しました。

以前、この学校の文化祭に顔を出したことがありました。
いろいろと文化部や運動部のある中で「ハワイアン部」というのがあったのでその部屋に向かうとなんとスチールギターの音色が聞こえてきました。
「いまどきの高校生がスチールを弾くのは素晴らしい!」と部室をのぞいたところ、何人かの部員が一台のスチールを囲んでその音を楽しんでいましたが、トーンバーを使っていてもギター用の三角ピックで弾いていました。せっかくみなさんが楽しんでいたのでそのままその場を離れましたが、今でもその伝統は残っているのでしょうか?

この学校のある駒場東大前駅付近から駒場高校のある淡島通りまでのあいだにこれまた「駒場」の名前のついた駒場保育園がありました。


⑦ 目黒区立第一中学校


淡島通りに出ると目の前に都立駒場高校が現れますが、その脇の道をさらに進むと目黒一中に突き当たります。
こちらもほかの小中学校同様、外部のひとは立ち入り禁止になっているようですが、なかなかしゃれたデザインの校舎になっていますね。なんでも内部の階段も4色に塗られているとか。

この学校の創立は比較的新しく1947年(昭和22年)とのことです。

⑧ 都立駒場高校


1902年(明治35年)麻布に創設された東京府立第三高女からの歴史を持つ学校です。
その昔は浅草の府立第一高女(現在の白鴎高校)、小石川の府立第二高女(現在の竹早高校)と並ぶ「麻布の第三高女」と謳われる高等女学校の名門校でした。

第三高女は1946年(昭和21年)に現在の地に移り、1950年(昭和25年)からは「都立駒場高校」と改名するとともに男女共学校となりましたが、女子高の伝統があるため都立を受験する女生徒にとっては最大難関校といわれてきました。

1950年(昭和25年)に「都立駒場高校」となった際に普通科のほかに保健体育科と芸術科も併設しました。しかし詳しい事情はわからないのですが1972年(昭和47年)にこの「芸術科」を「東京都立芸術高校」として独立させ、その校舎も隣接地に設けました。
しかしながら、これまたどういう事情かはわかりませんが2012年(平成24年)にこの「都立芸術高校」が閉校となり、2010年(平成22年)から新宿の富久町に新規開校していた「東京都立総合芸術高校」に合流して現在にいたっています。

⑨ 旧・都立芸術高校校舎


都立駒場高校のグランドに隣接して「都立芸術高校」の校舎が残されています。
ただしその正門からは学校名をあらわす銘板が取り外されていて通りすがりの人にはこの施設が何であるかはわからないと思います。

都立駒場高校からの独立による都立芸術高校の開校、そして閉校、都立総合芸術高校の開校の背景については「徘徊」のテーマとしては重過ぎますのでこの辺で切り上げることにいたします。

なお、駒場高校のすぐ隣に「目黒区立駒場幼稚園」があり、児童たちの作品になるカラータイルの壁が目を引きます。


⑩ 駒場東邦中学・高校


私の母校である都立日比谷高校は千代田区永田町にあるのですが、1950年(昭和25年)に新制高校となった際に当時の校長であった菊池龍道氏がこの学校の名称としてその前身である東京府立第一中学の校舎が一時期あった日比谷の地名をとって名づけました。

その菊池氏は新制高校としては大変ユニークな制度をこの日比谷高校に導入しました。

○ まず授業時間を100分単位とし、2週間単位の時間割を作成、しかも2週目の土曜日は休日とする。

○ 全部の授業ではないのですが「発表授業」すなわち授業はあらかじめ割り当てられた生徒たちが交互にリードする発表形式で、教師はそれに対する助言を中心に担当する。

○ ホームルーム(HR)制度を導入し、あらかじめ担任の決まっているHRに生徒の意思で集まる。(この結果、教師の人気がはっきりと分かってしまう)

○ 府立一中時代から存在していた卒業生を対象とした「補習科」すなわち大学受験浪人のための指導クラスをそのまま新制高校の校舎に残した。

これらの制度の結果でしょうか、当時の東大合格者数は全国の国公私立高校の中で群を抜いての第一位をキープしていました。

このユニークなシステムについては庄司薫(本名:福田章二:昭和56年日比谷高校卒)が芥川賞を受賞した作品「赤頭巾ちゃん気をつけて」に詳しく紹介されています。

ここからは私の推測ですが、これらの革新的な制度は東京都の教育委員会のなかでは問題視されていたのではないでしょうか、いろいろと菊池氏にも圧力がかかったと思われます。そしてこの日比谷卒業生の東大合格者数はその後1967年から1981年まで実施された「悪平等制度」とも言える「学校群制度」の導入などの「学力平均化」の動きによって国私立高校の後塵を拝することとなってしまったのです。

私が在学していたころの日比谷高校は東大合格者数のトップを走っていたため、全国の進学校からの見学が頻繁にありました。
でも「発表授業」を見た見学者(進学校の教師たち)は皆さん「ウチのほうが遥かにしっかりと教えている!」と期待はずれだったとの印象を残して帰られました。

地方公務員である学校長という身分はいつ移動させられてもおかしくないので、菊池氏は彼の信念を貫くために「自分の学校」を作ることにしたのだと思います。幸いにして東邦大学の創立者であった額田豊氏というよき理解者を得て日比谷高校で確立し成功したシステムをそのまま導入する受験校を1957年(昭和32年)に創立いたしました。これが「駒場東邦高校・中学」(現在は中高一貫教育)だったのです。

この結果この駒場東邦高校から東大への合格者は常に上位を占めるようになりましたので、「小日比谷高校」と呼ばれることもあるようです。

ここでご参考のために2016年(平成28年)の東大合格者の出身校別ランキングをご紹介いたしましょう。
もちろん東大以外にも京大や早慶など一流大学の合格者出身校も比較すべきですが、この場では駒場東邦や日比谷、そして筑波大駒場などを話題にいたしましたのでその実情をご紹介することにいたしました。

2016年東大合格者出身校別ランキング

1 開成高等学校 170名
2 筑波大学附属駒場中・高等学校 102名
3 灘高等学校 94名
3 麻布中学校・高等学校 94名
5 渋谷教育学園幕張中学校・高等学校 76名
6 聖光学院中学校・高等学校 71名
7 桜蔭中学校・高等学校 59名
8 栄光学園中学校・高等学校 57名
8 駒場東邦中学校・高等学校 57名
8 東京学芸大学附属高等学校 57名
11 東京都立日比谷高等学校 53名
12 ラ・サール高等学校 44名
13 豊島岡女子学園中学校・高等学校 40名
14 早稲田中学校・早稲田高等学校 38名
15 久留米大学附設高等学校 36名
16 女子学院中学校・高等学校 34名
17 西大和学園中学校・高等学校 33名
18 東京都立西高等学校 32名
18 筑波大学附属高等学校 32名
18 千葉県立千葉高等学校 32名

灘高やラ・サールなどの常連私立高を押さえて開成高校がダントツの1位で、今回の徘徊先である筑波大駒場と駒場東邦がベスト10に入っています。
そして都立高のなかでは最近盛り返してきた日比谷が都立では最高の11位となったのが注目されます。ちなみに私が在籍していたころの日比谷高校からの合格者数は毎年100名を超えていましたが、そのうち現役すなわちストレートで合格する生徒は半数以下でした。(私などは挑戦さえしませんでした・・・汗) 

⑪ 筑波大付属駒場中学・高校


1947年(昭和22年)に旧制東京農業専門学校付属として誕生し、その後1952年(昭和27年)に東京教育大学付属駒場中学・高校となりました。さらに1978年(昭和53年)に教育大が筑波に移転し「筑波大学」と改称したため、ここも「筑波大学付属駒場中学・高校」と改名しました。

国立で唯一の男子校で、しかも有数の進学校のため、都立高校の凋落を尻目に東大への合格者数上位を常に争っています。

教育大の移転前にその農学部のあった一帯は現在「駒場野公園」として公開されていますが
 
「駒場農学校」時代に招聘した教師オスカル・ケルネルが実習用に設けた通称「ケルネルたんぼ」

では現在は筑波大付属駒場の中高生が毎年田植えから収穫までを担当しています。

⑫ 大学入試センター


今回の「徘徊」のテーマである「駒場学校群」ではないのですが、同じ駒場の地に「大学共通一次学力試験」を担当する組織として1977年((昭和52年)にこの「大学入試センター」が設立されました。

場所は駒場野公園の敷地内にあり、写真の後方中央白色の大きな建物は同じく駒場野公園内にある目黒区立体育館です。

⑬ 駒場学園高校


前にご紹介しました古い地図に記載されている「獣医学校」すなわち陸軍獣医学校はこの場所にありましたが、終戦に伴い1947年(昭和22年)に蹄鉄を扱う学校としての「日本装蹄高等学校」がこの地に誕生しました。
この学校はその後「日本装蹄畜産高等学校」と改名しましたが1956年(昭和31年)に普通科を新設したことに伴い「駒場学園高校」となり、現在に至っています。
当初あった「畜産科」がなくなり、現在は「普通科」と「食物科」の2学科で男女共学となっています。

世田谷区立富士中に隣接しているために富士中の生徒たちはこの学校のことを「ウマ校」という愛称?で呼んでいるようです。

⑭ 世田谷区立富士中学


前記の「陸軍獣医学校」の敷地跡(たぶん)には駒場学園高校と都営住宅数棟そして私の母校でもあるこの富士中が建てられています。

もっとも「母校」といっても中学一年生のときだけの在学で、その後自分の意思ではなく(・・・と言い訳して)千代田区立麹町中学に転校してしまいましたので、厳密には「母校」とは言えないかもしれません。
でも、両方の中学でそれぞれ友人がたくさんできましたので、いちおう「母校」ということにしておきます。

写真の左に少しだけ見えているアパートは以前はオンボロの「都営住宅」だったのですが久しぶりに見るとかなり近代的なアパート群「都営代沢一丁目アパート1~4号館」に変貌していました。

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以上、簡単ではありますが(どこが?)駒場地区の学校群を回る「徘徊」の記録を閉じることにいたします。

今後の「徘徊」の予定ですが・・・・・・何も決まっていません。すべてその日の調子次第ということで・・・・

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14 コメント

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Mattさんの周辺は (あたごウクレレ)
2016-09-20 16:06:02
Mattさまの周辺は、有名な学校が多く文教都市ですね。
グーグルの図面は、詳細で有りがたいです。
以前も書きましたが、駒場高校に妹が通学していたので懐かしい場所の一つです。加藤登紀子さんなんかと同じだったようで。
こんな周辺を散策(徘徊ょできるMattさま 羨ましい。
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あたごウクレレさん (MATT)
2016-09-20 17:00:46
徘徊の先としては「学校」や「公園」がうってつけです。

そしてネット情報でそれらの歴史もわかりますので勉強になりますね。

ただし自分だけで納得しても先がありませんからできるだけたくさんの人に知っていただければと書いた次第です。
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さすが!池の○様 (TAD)
2016-09-20 21:54:14
MATTさんの調査能力はハワイアンに限らずすごいですね。これからも「徘徊」してください。楽しみにしています。
返信する
TADさん (MATT)
2016-09-20 22:29:05
トシをとるにつれて記憶力が急激に衰えるため、忘れないようにとメモをしただけなのです。

この記事を書かないとその日のうちに全部どこかに消えてしまいますので・・・
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新しい趣味に・・!? (ウクレレオヂサン)
2016-09-24 07:20:02
とても楽しく拝見しました。
ネットを活用した斬新なまとめ方で、とても興味がわきました。
今後も「徘徊」してください。「身分証明書と携帯電話」を忘れずに・・・(笑)
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徘徊の道はキビシイのです。 (MATT)
2016-09-24 11:00:43
徘徊中に撮影した写真は当然ですが地上から見たものですが、衛星から分解能1mで撮影した写真を3Dで入手できるようになったグーグル・アースの写真を使うことによってレポートの質が大幅に向上しました。

こんなことはわずか10年前でも思い及ばなかったことですね。

私がいなくなった今から10年くらい後の技術はどのように発展しているかひとごとながら興味があります。
返信する
とうとう (Boo!)
2016-09-28 22:56:46
MATTさんも「回顧録」に手を付け始めましたか?

これからシリーズとして続くのでしょう。できましたら、誕生から順次お願いします(笑)。

日比谷高校とありますが、本当に日比谷ですか?事実は「渋谷」では?よく「シブヤ」を「ヒビヤ」と訛る方がいるからです(笑)。

しかし我々世代にとっては、ヒビヤといったら大変です。日比谷、西、戸山が都立のベスト3でしたでしょうか?最近は再び都立が伸びているようです。このような現象を見ると、教育の仕方、制度の在り方で学校が生まれ変わることを示しています。
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そうなんです (MATT)
2016-09-28 23:26:14
もはや来年のオフ会参加が危ぶまれる今日この頃です。
光り輝く方とお会いできなかったのが唯一の心残りになるかも知れません。(ならないかも知れませんが・・・)

「言い間違い」どころかBoo!さんのように同姓同名の偉人がいるとお困りでしょうね!
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鳥の目 と 虫の目 と (jinjar)
2016-09-29 16:07:58
空からの写真と、地上からの写真を、ふんだんに組み
合わせた、フォト・レポートの大作。凄いです。興味深
く、読ませていただきました。
明治以来の教育史の一端を垣間見る思いで---。

文教の街の一角に佇む青い屋根のMATT家も確認で
きました。閑静な豪邸に、お住まいのようで。

歴代の都知事の資質を問われている昨今。日比谷高
の凋落を招く、悪しき制度を敷いた知事を思い起こし
ました。

かつての栄光の輝きを取り戻すまでの苦難の足跡
を、日比谷高のOBから聞いたことがありました。

別件。HAWAII FIVE-O のシーズン4が民放(テレビ
東京)で、放映されています。



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都立高校の (MATT)
2016-09-29 19:57:27
学力を均一化する、という狙いは結構なのですが、それが原因で優秀な受験生がどんどん国立と私立に流れてしまうということに気づかずに「学校群制度」を設けたお役人たちは、その制度の過ちに気づいて廃止しても提起した人たちに何の処分もしないという「典型的な」無責任体制を敷いていました。
この悪制のおかげでどれだけの学生たちの青春を奪ったかなんて考えていないのでしょうね。
私たち卒業生も「学校群制度時代」の卒業生たちには申し訳ないのですがどうしても「同じ境遇の仲間」という意識が薄くなってしまうのです。
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