
子供のころ父親から「戦争(もちろん大東亜戦争・・・・汗)中だったらお前の誕生日(8日)はたいしょうほうたいびだったんだよ。」とよく言われたものです。
「たいしょうほうたいび」の文字の説明まではしてくれなかったので、自分の知っている言葉の「大将」?「包帯」?・・・を引っ張り出した限りではこの言葉と「8日」とがどうにも結びつきませんでした。
そして、昭和16年(1941年)12月8日に天皇が宣戦の詔勅(大詔)をしたことを反芻し、団結を誓う日として翌年から毎月の8日という日を大詔奉戴日と呼ぶことになった、ということを知ったのはずうっとあとになってからでした。
日本ではこの開戦の日、すなわち真珠湾攻撃の日が「12月8日」として扱われていますが、ハワイでは日本より19時間遅いためにこの真珠湾攻撃日は1941年の12月7日なのです。
そして今年、すなわち2012年の12月7日は開戦71周年の日でもありますが、もうひとつの記念日を迎えるのです。
それは現存するハワイでただひとつの日刊日本語/英語併用新聞である「ハワイ報知」が牧野金三郎によって「布哇報知」として100年前のこの日に創刊された記念日なのです。
創刊号の1面はこのようなレイアウトになっていました。
現在の「ハワイ報知」の1面を集めました。
ハワイ報知社のウェブサイトです。
現在の社屋は有名な建築設計家丹下健三氏の設計になるもので、イヴィレイ地区を流れるカパラマ川の下流に面して建っています。
この川の対岸にはコアロハ・ウクレレの工場がありますが、お互いの位置関係はこのようになっています。
(その後2015年にコアロハ・ウクレレはアラモアナ・センターに近いカカアコに移転いたしました。)
このハワイ報知社からは2~3年間隔で「アロハ年鑑」という19.5センチ×13.5センチの小型書物が出版されていて、ハワイの歴史から政治・文化・観光の現状まで大変詳しく紹介されている年鑑です。
私が日本にいたときにこの年鑑の存在を知り、何とか入手できないかと調べました。
そしてこの「ハワイ報知社」が「静岡新聞社」の子会社と分かったので、もしかすると静岡新聞社へ行けば入手できるのではないかと考え、有楽町にある静岡新聞社の東京支社に行き、無事入手した経緯があります。
現在までに合計6冊の年鑑を入手しており、内容的には重複する部分が多いのですが、なによりも嬉しいのは日本語で(!)政治や社会の現状がわかることです。
6冊の年鑑を順番に紹介いたしましょう。
まずは1998年12月に発行された「第10版」で、「1998年~2000年版」となっていて、価格が10ドル、504ページというものです。
この表紙の記念碑はワイキキの米軍施設「フォート・デルッシー」の一角に建てられている第二次世界大戦で活躍した日系人部隊を讃えた記念碑で、ダニエル・イノウエ上院議員の所属した第442部隊もこの対象となっています。
次は2001年6月に発行された「2001年~2003年版」の「第11版」です。
この号から現在までページ数が大きく減っていて、この版では394ページとなっています。価格は10ドルです。
2004年8月に発行された「2004年~2006年版」の「第12版」はページ数が376とあまり変わらないにもかかわらず価格が8ドルと下がりました。
もっともいずれの「年鑑」も有料で購入されることを想定していないのかもしれませんが・・・・
続いて2006年7月に発行された「2006年~2008年版」の「第13版」も価格は8ドルで384ページです。なぜかこの版は2006年が前版とダブっています。
2008年8月に出版された「2008年~2010年版」の「第14版」も前版と時期がダブっています。そしてこの号は388ページなので前版と変わらないのですが価格だけは6ドルとまた下がっています。
発行日の記載がないのですが「2011年~2013年版」という最新の年鑑「第15版」はページ数が304と減ったためでしょうか、価格が4.50ドルと、以前の半額以下になっていました。
そして100周年を記念して「ハワイ日系パイオニアズ -100の物語-」という冊子が2012年2月15日に発行されました。発行責任者はこのときのハワイ報知社社長のポール円福氏(現在の社長は田形恵一氏)、アロハ年鑑のちょうど二倍の寸法27センチ×19.5センチで256ページの書籍です。
「100の物語」とサブタイトルにあるようにハワイでもしくはハワイ出身で活躍した日系人の個人または組織100件を紹介してあり、目次はこのようになっています。
すなわち7つの「組織」に続いて93人(93件)の「個人」が紹介されているのですが、あくまでもハワイにおける日系人という視点で採り上げているため、私にとっては馴染みのない名前が多く含まれています。(ハワイで生活をしていなかった私が知らないだけと思います。)
その中でも下記のような日本とのつながりのある方々もしくは政治家として有名な方々の名前を散見します。
政治家では:上下両院議員を務めたスパーク松永、1962年から連続9期の上院議員を務め、今年引退したダニエル井上、上院議員からハワイ州知事に転じ、3期12年を務めたジョージ有吉
スポーツマンでは:阪神に在籍し、日系人として初めて野球殿堂入りした若林忠志、巨人に在籍し、中日監督としても日本一となったウォーリー与那嶺、ボクシングチャンピオンで「勝ってもかぶっても」の勝利宣言でも有名になった藤猛、力道山の師匠のプロレスラーでレフェリーとしても活躍した沖識名
近江俊郎の歌で日本でもヒットした「別れの磯千鳥」の作曲者:フランシス座波
スペースシャトル「チャレンジャー号」の事故で亡くなった宇宙飛行士:エリソン鬼塚
ヒロ・タイムズの創始者で日系移民資料の収集家(現在その資料は「ハワイ日本人センター」に保管されている)大久保清、ハワイ報知創始者の牧野金三郎
そして組織の創設者として:ハワイ最大の小売店チェーンABCストアズのシドニー小笹、マカダミアナッツを初めてチョコと組み合わせたハワイアンホストの滝谷守夫妻、ハワイ島の大手スーパーKTAの谷口幸一夫妻、中堅スーパー・マーケット:タイムズの照屋武雄兄弟、日系人向けの唯一の銀行セントラル・パシフィック・バンクの高橋栄
の各位です。(余談ですがかなりの数の日本人が「ABCストア」のことを「ABCマート」と呼んでいます・・・汗)
ここで採り上げられた個人の分野を調べてみました。厳密には同じ人物が宗教家でしかも教育者である、というようにいくつかの分野にまたがっている例が多いので或る程度独断で分類してみました。
これから分かるように、ハワイで商業に従事したことからハワイ文化に寄与した人物が多いようですが、それ以外でも軍人としてのトップになったり最高裁のトップになったりした人物など日系人の活躍した範囲が多岐に亘っていることが良く分かります。
この本は「ハワイアン・ファン」誌でも紹介されていますのでまだ入手可能かもしれません。
トップの写真は現在の真珠湾の風景で、手前にある白い施設が日本軍の攻撃によって沈没した戦艦アリゾナ号の上に作られたアリゾナ記念館です。
そして中央左遠方に係留されているのが戦艦ミズーリ号で、この船は第二次大戦終了時には東京湾に停泊していて、1945年9月2日に行われた日本の降伏文書署名はこの艦上でおこなわれました。
日本側の署名者は当時の外務大臣で政府全権の重光葵(しげみつまもる)と日本軍全権の梅津美治郎だったのですが、ハワイのクローズドTVで繰り返し放映されている「パール・ハーバー・ツアー紹介」中の動画解説では「シゲミツアオイ外務大臣」と紹介しています。
ハワイの日本人が作成したTV番組なので名前の読み方を知らないのか、単に若い世代のために歴史を知らないのかは不明ですがちょっと気になりました。「重光外相」としておけば問題なかったのですが「姓名」の「名」のほうを重視する文化が災いしたのでしょうね。
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[追記]
この記事のアップ後になくなられたダニエル・イノウエ議員についてjinjarさんがここのコメント欄にコメントされましたので、当初はこの記事後半に追加記事として紹介いたしましたが、その後追悼記事が発表されてきましたので別項目「ダニエル・イノウエ議員の記事」としてアップいたしました。
詳細はそちらをご覧くださいね。
たまたま叔父さん(母の妹の夫)がハワイの日系人だったので、なんとなくハワイに縁があります。
今年の夏、ギャビン君の父親の紹介で日本語のできない従兄弟の従兄弟に会いましたが、叔父さんの兄弟が多すぎで系図が書けませんでした。
そんな叔父さんや叔母さんもなぜかギャビン君のお母さんと同じ年に亡くなったと聞き不思議な気がしました。
この本が売れ残ったら、来年8月にハワイに行けた時に購入します。
モリパパは半分ハワイ人のようですのでこの本にも知り合いがたくさん居ることでしょうね。
お二人がハワイに移って、もう三回目のお正月!
早いですね~。
私は元気に生きています。
いつも気に掛けて頂き有り難うございます♪これからも明るく、楽しく過ごすよう頑張ります♪♪
良い新年をお迎え下さいね。
遠藤智恵子
エンちゃんも良い年をネ!
日米間の戦争と平和の歴史を投影した、貴重な活字媒体で、日系人社会の情報源として、心の拠り所として、愛読されてきたことを、うかがい知ることができました。
おりしも「ハワイ日系パイオニアズ100物語」の目次の14
番目に挙げられているダニエル・井上氏(ハワイ出身の日系二世上院議員)の訃報が、日本のメディアで連日、大きく報じられています。
第二次大戦の欧州戦線に従軍して、右腕を失った英雄で、半世紀にわたり、ワシントン政治の表舞台で活躍。戦後は、日米の太いパイプとして、日本から頼られる大きな存在でした。オバマ大統領は「真の米国のヒーローを失った」と、その死を惜しんでいます。
東日本大震災の被災地を訪れたところにも、井上氏の深く日本を思う気持ちがうかがえました。永眠の直前、ハワイ語で「ALOHA」と一言いって息を引き取ったと伝えられています。
ハワイ報知が訃報をどのように、報じているか?ネット検索してみましたが、まだUPされていないようです。日本語版は数カ月遅れる場合があるそうなので、ゆっくり、待ちたいと思っています。
MATTさんのレポートに、MAHALO!
単に英語の資料より日本語の方が読みやすいのでたまたまハワイ報知にめぐり合った次第です。
お探しの記事を追加アップいたしましたのでご覧いただけましたら幸いです。
英語版より、先に日本語版を掲載してあったとのこと。日系社会の読者へ配慮した編集方針であることが、この点でも、うかがい知ることができました。
記事内容も、現地取材ならではの、詳細さで、たいへん、思い深く、読ませていただきました。
ワシントン大聖堂で、元首級の葬儀が行われたあと、ホノルル国立太平洋記念墓地で、告別式が行われ、日本から首相特使として、福田康夫元首相が派遣されています。
オバマ大統領が惜しんだ「アメリカのヒーロー」は、日本にとっては「偉大な恩人」だったといえるでしょう。あらためて、合掌、そして、ALOHA NUI LOA !
もちろん翌日の英語パージにはしっかりと掲載されました。
いずれにしてもこの記事よりもjinjarさんの情報のほうがはるかに詳しいのには「さすがジャーナリストとしての大先輩!」と感動いたしました。
第二次大戦中、イタリア戦線に従軍して、右腕を失ったくだりもありますが----。たまたま、日本では、年末年始にかけて「二つの祖国で」と「442日系部隊。アメリカ史上最強の陸軍」の二本のドキュメンタリー映画が上映されました。
双方とも、イノウエ氏が所属した442部隊の勇猛果敢
な戦闘ぶりを伝え、イノウエ氏が生き証人の一人として登場し、当時を回顧しています。
ただし、上映館が限られ、首都圏では、都内の二館のみだったため、都合がとれず、見そびれてしまいました。再映の機会を待つことにします。その際、感想をお伝えします。これまでの、ご配慮に多謝。
ここワイキキの一角にある米軍施設フォート・デルッシーは軍事博物館で知られていますが、その一角に442部隊で活躍し、狙撃で命を失ったロバート・トシオ・クロダの功績を称えた広場「クロダ・フィールド」があり、第100歩兵大隊、第442連隊、MIS(陸軍情報部隊)、第1399工兵大隊など日系人によって組織された各部隊の活躍を称える記念碑が建てられていますが、これの設置にもおそらくイノウエ氏が関係していたと思われます。
記念碑の写真は本文中の「アロハ年鑑第10版」の表紙に使われています。