
昨年(2013年)夏から不調であったPCが今年になって不完全ながらも生き返ったため、中断していたこの記事を続行することにしたのですが、案の定半年近く前の出来事はほとんど記憶の外に飛んでしまい、折角撮影した写真もその撮影場所が不明確というオソマツな状態になりました。とは言え、とりあえずそのまま放置もできない(汗)ので、いちおう書き上げることといたしました。
そして記事中の写真や説明が間違っているようでしたらぜひ皆様のご指摘をいただきたく思います。もちろん時間を見てもう一度訪問するだけの価値のある施設ですのでいずれ訪問した上で修正するつもりではおりますが・・・
(2014年1月末 記)
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ウクレレ・フェスティバル参加のためにハワイに見えたwaka-chan、ume-chan、mikarinの皆さんが「ハワイ・プランテーション・ビレッジ」を訪れた、というレポートに刺激されて二人がお休みのこの日に再訪問することにしました。
所在地はパールハーバーのさらに先でエバ・ビーチに近いところです。
ワイキキからバスで行くためには最低一回の乗換えが必要です。
たとえば42番のエバ・ビーチ行きに乗り、ワイパフのトランジット・センター(乗り換え所)で432番に乗る、というのがひとつで、waka-chanたちはこの42番にアロハスタジアムから乗って現地まで行ったそうです。
ただ、ワイキキから行く場合には42番の停車箇所があまりにも多いのでベレタニア/パンチボウルまで2番か13番で行き、そこから43番か40番またはAに乗るとこの3ラインともH-1を経由するのでワイパフ・トランジット・センターまでかなり早く到着します。そして43番でしたらそのまま、40番やAでしたら432番に乗り換えて現地まで行くのが良いかと思います。
ちなみにワイパフ・トランジット・センターでは下図のような路線が発着しています。
この図から分かるようにEも通っていて、これを利用するのが一番所要時間が短いのですが、以前と違ってEがアラパイ・トランジット・センター折り返しになっていて、ワイキキから行く場合にはちょっと面倒なので対象外としました。
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さて、現地に無事到着しました。
トップの写真はストリートビューのものですが、実際には敷地内で改良工事が行われていてこのような看板が出ていました。
どうやら本館(事務棟?)が工事中らしく、受付がトレーラーハウスであったり、トイレが使えなかったりと多少不便な環境でした。
受付でシニア料金$10 (一般は$25)を払って入場券代わりのシールと
英語と日本語による地図付きパンフレットを頂きましたので、以下この日本語の地図にしたがってご紹介していきますね。
ちょうど英語によるガイドツアーが始まったところでしたが、日本語のガイドが見えるとのことでしばらく待っていたところ、地元のボランティアのエイミーさんが到着し、たった二人だけを対象にしたツアーがスタートしました。
エイミーさんはとても88歳とは思えないお元気な方で、地元ならではのエピソードをふんだんに盛り込んだ解説は大変有意義でした。
エイミーさんは長年ここで案内をしておられるだけあって、この場所の設備や備品については知り尽くしているようで、観光客や地元の住人さらにはホームレス達までもがこの施設からいろいろなものを持っていってしまう、と嘆いて居られました。
観光客はちょっとした「記念品」として歴史的価値があるものを気楽な気持ちで「失敬」してしまうようですし、地元の人たちは組織的に「金目のもの」を持ち出してしまうとのこと、さらにホームレスは夜間に塀を乗り越えて池に飼っている鯉などの魚を食料として盗んで行くようだとのこと。
施設の入り口には「ガイド付きツアー以外は入場不可、事務所に寄るように」という注意書きが掲示されいてガイドなしでの入場は禁止されているのですが、実際には事務所にも寄らずに(すなわち入場料も払わずに)ガイドなしで入場するする観光客があとを絶たないようです。
赤字財政のホノルル市からの援助は少ないため、警備の設備や人員にお金がかけられないのでしょうがほかにもいろいろと気になる点がありました。
たとえばこの地はwaikiki(水が噴出する)同様、waipahu(水が爆発する・・・たぶん・・・)と呼ばれ湧き水が豊富な場所のようで、場内の池やタロイモ畑はすべて湧き水を使っているのですが、ちょっと高台にある住居一帯に植えられている樹木にはそれらの湧き水が流れるようにはなっておらず、かといって積極的に水道を配管しているわけでもありません。この結果たくさんの樹木が枯れかかっているのを見て大変残念に思いました。
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案内パンフレットの説明によるとこの「ハワイ・プランテーション・ビレッジ」をつくる、という構想は1976年に何名かの有志が集まってスタートしました。
1900年ごろから1930年代後半までに実際にプランテーションで働いていた各国からの労働者たちの生活を表す展示物がそれぞれの国を代表する住居に収められる様に考えられ、これらの建物は1982年から約10年掛けて復元され、1992年に一般公開されました。
敷地内にはこの構想の中心人物(たぶん)の記念碑が建っていました。
これ以外にも各国の国旗とハワイ州旗、米国国旗が掲揚できるポールや、日系移民で独身のまま亡くなった労働者たちのための碑や
朝鮮からの労働者に対する碑
さらにはフィリピンからの労働者に対する碑
そのほか三つの大きな石碑も建てられていました。
事務所の近くにこんな実が生っている木がありました。
名前はLa`aumiaと言い、これを乾燥させ、中にAli`ipoeの種子を入れてウリウリやマラカスをつくるのだそうで、たべてもおいしくないとのこと。なるほど、いかにもウリウリになりそうな実ですね。
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それではエイミーさんの案内で100年以前にタイムスリップすることにいたします。
このトンネルは名づけて「Time Tunnel」です。
(ここからの写真には「ハワイ・ナビ」の記事からも一部分借用させていただきました。ありがとうございます。)
トンネルを抜けるとハワイに入植した国の順に当時の家が復元されています。
最初にあるのは中国からの移民の家、というか中国人たちの集会所です。
残念なことにここの階段のところで観光客?が火遊びをしたようで一部が焼け焦げていました。
建物の中には仏像や彫刻などが設置されているだけでなく、当時の生活を示す資料の数々が展示されています。
もしかすると現在改築中の事務棟にあったインフォメーションセンターに展示されていた資料もこちらに移設されているのかもしれません。
これは代表的な村の配置を表すジオラマで、管理者は丘の上に住居を持っていたとのこと。
これの3D画像です。
・・・でもこのジオラマと壁に貼ってある当時の日本人村?のイメージがまったく違うのです。このジオラマは何を示しているのでしょうか???
壁には当時の日課、というか労働の時間割がありました。
女性は朝4時に起きて食事作り、作業者は6時から午後4時半のPau(終了) Hana(労働)時刻までわずか40分の食事休憩だけで働き詰めだったようです。
各国からの労働者への賃金を出す際に見分けられるように国別の札がありました。おそらく国別に賃金が異なっていたのでしょう。
当時も蚊には悩まされたようで蚊帳が展示されていました。
中国人の料理所での大きなかまどと鍋です。
中国人はいろいろな漬物を作っていたようです。
この中国の建物の近くに当時使われていたと思われる天水溜めがありました。
住民たちはここから水を汲んで行ったのでしょうね。
上の写真の右端に見えているのは昔のハワイ人の住居をアラン・ウォン・レストランの協力で復元したものとのことでした。 バックに中国の建物が見えています。
中に入ると窓が全くないのですが、椰子の葉を巧みに組み合わせて壁を作っていて、風が吹き抜けていくため大変涼しいと感じました。当時の人たちの知恵の結晶なのでしょうね。
さて中国の次はポルトガル移民の家です。
室内は明るく
立派な調理用オーブンもありました。
奥の食器戸棚?の脚には空き缶が履かされていて普段はそれに水を張って蟻の侵入を防いでいるとか。生活の知恵ですね。
なにしろ家の周囲ではたくさんの蟻が行列を作っていましたので、当時もおそらくこういった状況だったと思われます。
家の外には立派なパン焼き窯がありました。彼らの主食をこれで作っていたのでしょうね。
ところでポルトガルといえば「ウクレレの先祖であるブラギーニャ」がポルトガルから持ち込まれたことが知られていますので、この家のどこかにその楽器が置かれていないかと期待していたのですが有りませんでした。
なぜ無かったのかを考えてみました。
1) この家の住人は音楽に興味がなかった。
2) 音楽好きの住人だったが楽器を持って町に移住してしまった。
3) ほかの展示物と同様に観光客が「失敬」してしまった。
・・・・等々
でも、たしかブラギーニャをハワイに持ち込んだのはポルトガル本土からの移民ではなく大西洋上のマデイラ諸島からの人たちだったので、もしかしてこのプランテーションビレッジに来た「ポルトガル人」はマデイラ諸島からの人ではなかったのかも・・・・と思ってちょっと調べてみると、どうやら「アゾレス諸島」からの移民だったようなのです。この諸島もマデイラ諸島同様に大西洋上にある島々なのです。
お互いの位置関係はこのようになります。
このことがこの家にブラギーニャが無かったこととつながるわけではないのですが、ちょっと勉強になりました。(それだけです・・・・汗。)
お隣はプエルトリコ移民の家です。
建物の外壁に洗濯場?が貼り付いています。
そして庭には紅の木(Lipstick Tree学名:Bixa orellana)がありました。この木の原産地は熱帯アメリカや西インド諸島で、種子をつぶすと赤い色が出てくるのでハワイ人はタパ(カパ)の着色に使い、プエルトリコ人、フィリピン人は油に溶かして食用の着色料として使うそうです。またこれの粉末は頬紅にも使うほか子供たちの口紅としても使われるとのこと。そうです、オシロイバナの仲間?ですね。
寝室にはキリストの像が
台所?にはなんとコーヒーミルまであります。その下にある擂鉢?はたぶん紅の木の種子をすり潰す道具ではないでしょうか。
ところでこの居間には以前ギターが掛かっていました。
でもどなたかに「失敬」されてしまったので、今ではその霊魂が壁にくっきりと残っていますね。
さて次はいよいよ日本人の住居(長屋)となります。
もう一軒の一戸建て日本住宅が建っていますがそれとは違ってこちらのほうは集合住宅、いわゆる長屋の構造を持った建物です。
台所(居間?)はすっきりとしていて、卓袱台にはお燗のセットが載っていました。
居間には仏壇があり、
超ワイドの写真が飾られていましたが、おそらく何枚か分けて撮影したものをつなぎ合わせたのでしょうね。
建物の外側には元年者すなわち明治元年に移民をした人たちを記念した植樹がされていましたが、植樹後45年も経っているにもかかわらず成長の遅い樹との印象を受けました。
どの建物かの記憶が確かではないのですが(汗)鶏を飼っていたと思われる跡がありました。でも再現されたものでしょうね、新しすぎますので。
つぎの建物は豆腐屋さんです。
日本人の入植者が多いので豆腐は必需品だったようですね。
建物の内部は日本でもよく見かける「町の豆腐屋さん」といった雰囲気です。
続いては「長屋」ではない日本人の一戸建て住宅です。
飾られている昭和天皇ご一家の写真は大変貴重なものではないでしょうか。
リビングには日本語の書籍や聖書が開いて置かれていました。
本棚の上にはキリスト教普及に尽力をした賀川豊彦(1888~1960)の写真が飾られていました。
お茶のセットも日本らしく半ダースではなく5個の湯飲みが置かれています。
台所には
鰹節削りや
熱湯を入れて使うアイロンもありました。
このあたりには共同で利用する施設があり、
ここは散髪屋です。
そしてこちらは銭湯(Penny Bath?)です。
体を洗うときに使う長椅子と衣類の棚があり湯船があるのですが、
この湯船は壁で仕切られた向こう側にある女湯と共通になっています。素潜りの達人でしたら・・・(以下自粛)
これら共同施設のある路地の突き当りには
若宮稲荷神社が設けられています。
ここではおそらく季節ごとの行事が行われたことでしょう。
メイン・ストリート(!)の反対側には沖縄と朝鮮からの移民の住宅があります。
こちらは沖縄(当初は琉球?)からの移民の住宅の内部です。
蛇皮線(三線)と大正琴が飾られていました。
一方こちらは
朝鮮からの移民(上記地図には「韓国」とありますが、移民当時はまだそのような国はなかったと思いますし、もちろん「言いつけ」に生きがいを見出しているヒトも居なかったはずです)の住宅内部です。
居間と
寝室です。
一番あとから入植したフィリピン人は独身者が多かったので寮が作られました。
室内には民族楽器の可愛らしいバンデュリアが吊ってありました。案内のエイミーさんは「あれはマンドリンよ!」と言ってましたが・・・・
廊下から玄関?に出る境界にこんな木片がありました。これは掃除の掃きだしようで、掃除が終わったらピタっとはめ込むようです。
つづいてフィリピンの一戸建てです。
ここには大小2台のバンデュリアが吊ってありました。
弦の数が14本とかなり多いですね。でもピアノの弦と同様高音側の弦数が多くなっているようです。
14本弦といえば、カマカに14本弦のウクレレをオーダーした方がいましたが、バンデュリアと関係あるのでしょうか??
もっともバンデュリアはギターと同様の6コース(1弦から3-3-3-2-2-1本)で、こちらのカマカはウクレレと同様の4コース(1弦から3-4-4-3本)ですが・・・
ご存じ10本弦ティプル(1弦から2-3-3-2本)でさえ押さえるのが大変なのに、はたして指一本で同時に4本の弦を押さえられるのでしょうか??
室内にはココナッツを半分に割ったものが置いてありました。これは床に伏せておいた状態で動かすことで、床の掃除が簡単にできる道具とのことでした。
居間にはゲームに使うのでしょうかこんなものがありました。
いよいよメインストリートも終点に近づきました。
ここはプランテーションの売店「よろずや」です。
入り口には燃料(灯油?)の量り売りのポンプが置かれていました。
店内は結構広く、名前の通り何でも売っていそうでした。
ここのプランテーションの製品なのでしょう「オアフ・シュガー」の看板が置かれていました。
売店の横には「うどん店」の小屋があり、横文字で「SAIMIN」と書かれています。この両者は別物のはずですが、果たしてどちらを売っていたのでしょうか。もしかしたら両方かも。
売店の向かいがオフィスです。
実は、冒頭に書きましたように本館が工事中だったため、トイレを利用するためには入り口からは最も遠い場所であるこのオフィスまで来る必要があったのです。
オフィス内部はこんな具合です。
オフィスの向かい、売店の横には診療所があります。
内部の診察台です。
さてメイン・ストリートの終点には
集会所がありました。
ここでどのような集まりがあったのでしょうか。いろいろと想像してみました・・・・
ところでこのメインストリートよりも遥かに高い場所にこのプランテーションの監督の家があったとのこと。
この写真の左に見える建物の位置かもしれませんね。
メインストリ-トから分岐した道の途中に
相撲の土俵の四本柱が残っていました。
そしてその道を出口に向かって進むと二つの建物があります。
右側の草葺の建物は「Hale Moe」すなわち「寝るための家」で左側の三角屋根の建物は「Hālau Wa`a」すなわち「カヌーの格納庫」です。カヌーはすぐ近にあるワイパフの海岸か真珠湾から漕ぎ出したのでしょう。
建物を見終わって広い庭に出ると、催しに使うのでしょう、ステージが用意されていました。
出口に向かう道の右側には湧き水を貯めた池があり、以前は鯉などの魚がたくさん棲息していたのですが、どうもホームレスさんたちが夜間に忍び込んで盗んでいったようだとのことでした。
池の反対側はタロイモ畑になっています。
池のはずれには昔懐かしい井戸ポンプがありました。このあたりは湧き水が多いので水には不自由しないようですが、なぜが高台となっているメインストリート沿いには水の供給が不十分のようで、枯れた樹木が結構たくさんありました。
出口のところに大きなハラの木があり
足元にはたくさんの実が落ちていました。
もともとパイナップルのようにまとまって生った実が熟して落ちたもので、昔の人はこれを乾燥させて筆や刷毛としてつかったとのことですので、がんばって自宅で乾燥させているのですが、筆ではなく不出来のようですね。
今回、庭園内に数多くある植物の説明を興味深く伺いながらそのほとんどを写真に収めてあるのですが、あまりにも種類が多すぎて写真の分類ができませんでした。見学直後でしたらかなりの数の植物が見分けられたのですが、PC不調が復旧して庭園の植物の写真にたどり着いたのが半年も経ってからだったため上記のハラを除いて全滅してしまいました(号泣!)
出口のところに柵で囲われてサトウキビが栽培されていました。いまでもサトウキビを育てる研究がつづいているとのこと。その努力には頭が下がります。
この地域にはその昔のオアフ鉄道も走っていたようで、その象徴である蒸気機関車も保存されていました。
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このような歴史的施設へは市バスで簡単にいくことができますので、日本から来られる方も見学されることをお勧めいたします。
私自身もこれが二度目ですがそのたびに新しいことを発見するという楽しみを味わっています。
毎年のようにハワイに行っているのですが、「ハワイ・プランテーション・ビレッジ」は、あることすら知りませんでした。
タイムトンネルはくぐってみたいですね。
いろいろなエピソードが入り混じってしまい、頭が混乱しているところですので、もう一度行きたいと思っています。
備品がこれ以上無くならないうちに・・・・
南太平洋だっと勝手に思っていました。
続編、のんびり待っています。
拡大してみたら「カナリア諸島」ということが判明、・・・・でも全然黄色くない・・・・って当たり前か!
昨日PCが強烈なウィルス攻撃を受け、メールソフトをはじめほとんどのソフトが使えなくなったのです。
果たして修復できるか不明で、もしかしたらこの未完成レポートが最後の作品になるかも・・・・
レポート楽しませて頂いています。
私も、出来ることならビレッジ
もう一度、ガイド付きでゆっくり観たいです。
オアフはついついワイキキかカイルア等のビーチ
への観光が多いですが、美術館もゆっくり
行ってみたいです。
エムマ女王博物館、ドリス・デューク邸など・・・も
興味ありです。レポート、ウィルスに負けず(!?)
頑張って下さい
よく捕まりませんでしたね!
それほど警備が緩いのでダメなんでしょうけど・・・・
アロハスタジアムへ行ってからだったので、
ガイドさんにご案内頂ける時間には残念ながら
間に合いませんでした。
まぁ、私達は盗みをするようには見えなかった(笑)
のもあったのでしょうね、事務所で代金を支払い
ガイドさん向けの説明文をお借りして、
自分たちでそれを読みながら回りました。
> 私達は盗みをするようには見えなかった・・・
事務所の人は祈るような気持ちでいたかも(笑)
来年、ハワイに行ったら、是非行ってみたいと思います。