
私が2007年7月20日に出版した「ハワイアン音楽快読本」のブログにこのようなコメントを頂戴しました。すなわち
ちょっと嫌味でしょうか? (波輪伊庵留海孤)
2008-09-23 23:26:58
Matt様、「ハワイアン音楽快読本」よませて頂きました。
本当に嫌味で申し訳ないのですが、私はホテル屋なので見過ごせません。
49ページに
>このホテルは現在でも隣接していたサーフライダーホテルと合体してシェラトン・モアナ・サーフライダーホテとして営業しています。
と書かれていますがこのホテルは2007年5月よりシェラトングループを外れ同じスターウッズグループの、ウエスティンの看板を背負ったはずです。
現在はウエスティン・モアナ・サーフライダー・ホテルと言います。
つまりこの本が出版された時え点では、もうウエスティンに代わっていたはずです。
この書き込みに対しては下記のようにお答えいたしました。
ご指摘ありがとうございます。 (MATT)
2008-09-24 08:41:17
嫌味どころか貴重なご指摘に感謝いたします。
古い情報のまま掲載していまったことで関係の皆様にご迷惑をおかけしてしまいました。
ブログと異なり出版物は出たあとの修正が効きにくいのですが、もしも再版の機会がありましたら必ず修正をさせていただきます。
ほかにも私の思い違いや誤解の点があるかとおもいますので、これからもよろしくお願いいたします。
実際に調べてみますと確かに2007年の6月1日付けで上記の移管が実施されています。ただ、6月というのは「ハワイアン音楽快読本」が数度の校正を経て印刷や製本に掛かっている段階ですのでたとえ業界のニュースを知ったとしても(実際には知りませんでしたが)その版では何もできず、私の回答のようにもし「再版」が有った場合に修正するしか方法が有りません。
コメントされた方は業界の方ですのでこの動きはかなり以前からご存じのことだったでしょうから我慢ができなかったのでしょうが、一般の人たちは経済面の記事を注意していない限り知る方法はないと思われます。このタイミングでのこのようなご指摘がご本人のおっしゃるような「嫌味」かどうかは皆様が判断してくださいね。
そして当然ながら(!)初版から6年経過した現在でも再版の動きは全くありませんので、ちょっとモアナ・ホテルとサーフライダー・ホテルの関係を調べてみました。
ただ、おもにネットからの情報ですのでまたまた誤解があるような場合は再度指摘していただくことを前提にレポートさせて頂きます。
現在のモアナ・サーフライダー・ホテルが「ワイキキで最も古いホテル」という表現は正確ではありません。このホテルの元となったモアナ・ホテルが建築される以前にもたくさんのコッテージ・ホテルすなわちいくつかのバンガロー(小屋)をもつリゾートホテルがあったのですが、モアナ・ホテルがワイキキで最初に三層以上の階をもつ本格的なホテルであったためにそのように呼ばれているのです。
たとえばダウンタウンのホテル通りとリチャード通りの角に1872年建てられた三層木造のハワイアン・ホテル(のちにロイヤル・ハワイアン・ホテルと改称)がホノルルで最初の本格的ホテルでしたが、このホテルのアネックス(別館)としてシーサイド・ホテルというコッテージ・ホテルが現在のワイキキにあるロイヤル・ハワイアン・ホテルの場所に1894年に作られましたので時期的にはモアナ・ホテルよりも古いわけですが上記の定義に合致しないため対象外となっています。
そしてこのホテルを取り壊して1927年に建設された現在のロイヤル・ハワイアン・ホテルが「ワイキキで二軒目の本格的ホテル」として認められているのです。
ところでオリジナルのロイヤル・ハワイアン・ホテルはその後どうなったのでしょうか。通りの名前にまで付けられたこの「ホテル」は1903年にこのホテルの近所すなわちビショップ通りのキング通りとホテル通りにまたがる広大な地域に建てられたアレキサンダー・ヤング・ホテルに駆逐されてしまい、1917年にYMCAに売却されてしまいました。
アレキサンダー・ヤング・ホテルを描いた絵葉書をネットで見つけたのでご紹介します。このような巨大なホテルに三層木造のホテルが勝てるはずがないですね。
このアレキサンダー・ヤングという方は
スコットランド生まれの技術者で、鉄工所を経て砂糖工場の経営で財をなし、このホテルのほかに、なんとモアナ・ホテルやロイヤル・ハワイアン・ホテルまでも一時手中に収める等「ハワイのホテル王」とも呼ばれていました。
上記のシーサイド・ホテルの写真です。
なお、たまたまシーサイド通りに位置していたためでしょうか昨年まで「シーサイド・ホテル」というホテルが存在していましたが、
今年から「342 seaside」の住居地番だけを残し、「ショアライン・ホテル」と改称して営業をしています。ただ、いまでも「シーサイド・ホテル」でここがヒットしますが・・・・
いまだに駐車場の案内板は「342 Seaside Hotel」となっていますが・・・
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話をモアナ・サーフライダーホテルに戻しましょう。
・・・・といいながらシェラトン・ワイキキを覗いてみることにします。
このホテルの入り口付近に「小佐野賢治ヒューマン・リソース・センター」という部屋があります。
この方の名前はおそらくロッキード事件のときに知られるようになったと思いますが、国際興業の社主でハワイのホテルの買収劇で有名な方なのです。
この様な買収に伴う動きやテクニックには馴染みがないのですが、彼(というか国際興業)はハワイに現地法人「KYO-YA Co. Ltd.」を1961年12月26日に設立し、直後の1962年1月1日にホノルルのレストラン「京やレストラン」を買収しました。・・・・なぜ京やレストランを買収したのか、それに先立って設立した会社名がなぜKYO-YAだったのかは全く分かりませんが・・・・。ちなみにこの買収劇の舞台となった「京やレストラン」は2007年まで営業を続けていましたが、現在は建物だけがひっそりと残っています。
そしてKYO-YAは翌1963年7月にプリンセス・カイウラニ・ホテルを、12月にモアナ・ホテルとサーフライダー・ホテルを、1974年9月にシェラトン・ワイキキ・ホテルとロイヤル・ハワイアン・ホテルを買収いたしました。
上記の指摘にあるようにモアナ・サーフラーダー・ホテルがウエスティンの傘下に入った後もKYO-YAはスターウッド・グループの一員Kyoya Hotels and Resorts, LPとしてモアナ・サーフライダーを含めたワイキキのホテル4軒(ほかにもあります)の運営を手がけています。
1901年に建てられたオリジナルのモアナ・ホテルは現在のカラカウア通りに面している棟だけだったのですが、1918年のその両側にそれぞれ向き合うような形で6層の建物が追加されました。これによりモアナ・ホテル独特のH形をした建物レイアウトが誕生したのです。
その後1952年にこのホテルのダイヤモンド・ヘッド側に8層の「サーフライダー・ホテル」が開業しました。
さらに上記のように1963年にKYOYAがモアナ・ホテルとサーフライダー・ホテルを買収したことに伴い、この両ホテルが同じマネージメントになったのです。
そこで1969年5月にそれまでのサーフライダー・ホテルとはモアナ・ホテルを挟んで反対側の土地に新規にサーフライダー・ホテルを開業させ、従来のサーフライダー・ホテルをモアナ・ホテルのオーシャン・ラナイとしました。
1989年にこの二つのホテルを合体させ「モアナ・サーフライダー・ホテル」として新発足し、現在に至っています。
その結果、従来のモアナ・ホテルは「バニアン・ウィング」と呼ばれ、オリジナルのサーフライダー・ホテル部分は「ダイヤモンド・ウィング」、
そして反対側の高層部分は「タワー・ウィング」、
となりました。それぞれの建物が廊下で結ばれているのが写真からお分かりと思います。
これはお向かいのプリンセス・カイウラニ・ホテルから私が撮影した写真です。
同じ位置から撮影したと思われるホテル自身のサイトにある写真です。
シロート写真とプロによる写真の差が歴然としていますね。これはカメラに「アオリ」すなわちレンズをシフトさせるメカニズムがない限り実現できません。さ・す・が・・・といったところでしょうか。
ところでこの「バニアン・ウィング」にはその名の元となった樹齢100年を越えるバニアン・トリーがあります。
ちょっと見ると何本も生えているようですが、実際には1本なのです。すなわちこの木は中央にある木の枝から「根」が地上に降りてきて地中に潜り、それが成長して幹のように育つのです。この庭だけでも大小あわせて7~8本の「幹」がありますが、すべて中央の幹につながっています。
この写真の左遠方に半円形のバルコニー状の部分は「ベランダ」と呼ばれていて、ここでいろいろな催しが行われています。
1935年から40年間続いたラジオ番組「ハワイ・コールズ・ショーも基本的にこのベランダで収録されました。
NUAが2000年のウクレレ・フェスティバルに出演した際にもこの場所で前宣伝の演奏をいたしました。
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ハワイの道路の名前にはその場所に因んだ人物や建物の名前が使われていることが多いようです。
上記の「シーサイド通り」はその突き当たりにその昔存在したシーサイド・ホテルに因んだものですし、その一本アラモアナ側の隣にある「ロイヤル・ハワイアン通り」はこの通りの突き当りがロイヤル・ハワイアン・ホテルであることから名づけられています。
さて、そのもう一本となりの「ルワーズ通り」の由縁は何でしょうか。
実はこの通りの突き当たり、すなわち1833年に現在のハレクラニ・ホテルのある場所にロバート・ルワーズ氏が豪華な自宅を建てたことに由るものなのです。
その後この住居は貸し出され、1907年に5棟のコッテージを持つ「ハウ・トリー・ホテル」となり、
さらに1917年には「ハレクラニ・ホテル」となりましたが
1981年に三井不動産USAが39棟のコッテージを取り壊して再開発に着手するまでワイキキで一番遅くまであったコッテージ・ホテルだったのです。そして1984年に現在の姿の近代的ホテルに変身いたしました。
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ところでモアナ・サーフライダー・ホテルのダイアモンド・ウィングは近々改築されるようです。
上記Kyoyaのサイトによると高層建築になるようで、
カラカウア通りを挟んでお隣のハイアット・リージェンシーは目の前に壁が立ちはだかるようなので、ダメージは大きいでしょう。
この建設が着手されるとダイアモンド・ウィングにあるウクレレぷあぷあの一号店にも影響がありますね。
バブルの時オプショナルツアーで「あのホテルは千?夫のホテルですよ。」と説明されました。
しかし、ワイキキで泊まる人が多く、まだまだホテル建設ラッシュが続きそうです。
タイムシェアーの商法は当たったようです。
さしあたり、我が家はネギを背負った鴨?ですね。
ハイヤットリージェンシーワイキキのコロニーステーキハウスで演奏していたオータサンが、ハワイ島ワイコロアに建設された大掛かりなホテルのハイアットリージェンシーワイコロアのために「ワイコロア」という曲を作りましたが、そのホテルは現在ヒルトンワイコロアとなっています。
マヒビーマーがピアノで弾き語りをしていたワイキキのプリンスクヒオも今はヒルトンワイキキとなっています。
現在のマリオットリゾートワイキキもいぜんはハワイアンリージェントでしたし、ホテルの経営はめまぐるしく変わりますね。
ヒルトンハワイアンビレッジ自身ももともと鉄鋼王といわれたヘンリーカイザーがつくったカイザイーハワイアンビレッジだったのですが、お気に入りのアルフレッドアパカのために専用のバンドまでつくったのにアパカが若くして亡くなったのでホテルを手放してしまいました。