横尾美穂と声

シンガソングライター、ボイストレーナー、ゴスペルシンガー

横尾美穂の声と生活

クリスマスの祈り② ~ 内なる自分を新たに

2013-12-17 23:37:43 | 日記・その他

人は、生まれた瞬間から一歩ずつ「死」に向かって歩んでいる。その期間はそれぞれ。各々の場所で生き、老いて行く。

20代のときには目の前のことで悩んでいたが、ここ最近は、残りの人生について考え、時に不安になったり、思い煩うことがある。

数年前、20代の頃できていた逆上がり(鉄棒)が出来なくなっていたときは、肉体的な変化を痛烈に感じ、失うことへの不安を覚えた。

意識して鍛えなければ身体の衰えのスピードは高まるばかり。

「できなっていく」という失うことへの恐れは、生きていくことをどんどん辛くさせる。

こんなことを考えていたとき、ある方のブログでおもしろい表現をみつけた。


「老婆は1日にして成らず」

(「ローマは1日にして成らず」から)

 

上手いこと言うもんだな。

老婆には1日ではなれない。「変身!シュワッツチュ!」と呪文を唱えてもなれない。

つまり、生まれてからこれまで、そして今、これからの日々の積み重ねが、老婆たるものであるという。

見かけが老けてきても、昔できたことができなくなっても、その分、老婆には思い出や経験、知恵が増していく。そう、老婆は人間的魅力の宝庫に成りうるのだ。

こう考えると、年をとることも悪くない。

「老婆=魅力の宝庫」という意識の方が、「老婆=老いの象徴」と思うよりも前向きだし、生きる姿勢も変わり、その結果、精神的にも、きっと肉体的にもより元気でいられるのじゃないか。

 

またあるエッセイにこう書いてあった。

「40歳から70歳までは第2の新しい人生だ」と。40歳は折り返し地点であり、その新しい扉に立っていると言うのだ。

新しい人生のスタートを始めるためにオススメされていたことは、

1.今までの自分の出来事を年代ごとにふりかえり、書き留める。この作業で忘れていた感謝すべきことや転機、出会いなどに気づかされる。

2.書き留めた自分年表にある過去の自分をリセットする。もちろん、今まで一緒だった家族を捨てるとかそう意味ではなく、「自分はこういうことができた」など自分の栄光ややってきたことに固執しない、囚われないということだ。今の自分にできることを、はじめから考えてみる。また何をすべきかを新しい気持ちで考え、そこに向かっていく。

うん、なるほど!ちょっと気持ちが軽くなったぞ。そして、もうひとつ新しい自分の人生が用意されていると思うと、楽しみになってくる。

古い自分の鎧で自分を覆い隠さず、ときにはその鎧を脱いで、まっさらな自分になってみる勇気も必要だということかな。

いつまでも自分の若い頃を思い出して今の自分を嘆くことは、必要ではない重たい鎧までも着けてしまうようなもの。新しい鎧に着替えて、気持ちよく歩みたい。

この文を書いてるうちに、ある映画を思い出した。十数年前に流行った「永久に美しく」。キリスト教の聖書観の「神を信じるものには永遠のいのちを与えられる」というところを捩って、肉体的な美(若さ)を永遠に持ち続けるために奮闘する女性たち3人の話である。皮膚を張り替えたり重ねたりしながら、上っ面の美を追求する。人間の計り知れない欲深さや虚栄心を感じつつ、3人のドタバタがちょっと怖くも笑える映画だ。

聖書観の「永遠のいのち」は、今の見える形の(肉体をもった)自分が永遠に続くという意味でなく、もっと霊的な、魂の部分においての話である。つまり、老いて、「肉体の死」を遂げた、その先にある「いのち」のこと。

神が与える「いのち」は、肉体の死が老いて行くのとは逆に、日々新しくされていくとある。「老婆は1日にして成らず」の老婆のように、「いのち」も少しずつ磨かれ、成熟されていくのだ。


これまでの人生、良いときも、悪いときもあった。でも、いつもそこには助け人や支え、恵みがあった。不安や悩みの渦に巻き込まれそうなときは、心沈め、その恵みを数えよう。

そして、今、人生の折り返し地点にいる。

肉体は衰えてはいくが、このあとの30~年どんな人生を送るのか。素敵な老婆になれるように、そして神が与えてくださった「いのち」を良いもので満たし、磨いて、内なる自分が新しくされていくようにと願いつつ、祈りつつ、自分も努力し続けられるように。

「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(聖書 コリントII4-16)

 

祈り:温かいお友達との交わりに心から感謝。これまでの出会いや感謝や恵みを数えながら過ごせますように。

欲しかったものが与えられない世界中の子供たちに慰めと励まし、恵みが与えられますように。愛する人と共にすごし、温かい食事や寝床など必要が与えられ、恐怖や圧迫のない生活が与えられますように。

 


クリスマスの祈り①~自分を満たす愛

2013-12-03 11:57:32 | ゴスペル

先日、シュトーレンをつくりました。作りはじめて4年目になります。

近所の「麦の香」というパン屋さんで作るシュトーレンが美味しくて、自分でも作ってみたい衝動に駆られて作り始めました。プロのようには上手く行かないけど、毎年美味しくできます。

出来上がっていくプロセスを味わい、完成した喜び、そしてそれを味わう満足感は、手作りの醍醐味です。家族も私の手作りを喜んでくれて、嬉しくなります。

それを薄切りにして、語らいながら、蝋燭に火を燈し、紅茶やワインなどと一緒にクリスマスの時期を楽しみます。他には、イギリスやフランスのこの時期のお菓子を作ってみたり、ジンジャークッキーも子供たちと一緒に作ります。アドベントカレンダーも昨年手作りしてみました。今年はその中に日本の駄菓子を詰め込んで・・・。そして、クリスマスは家族で食事をします。教会のクリスマス会、礼拝に出席します。子供たちはサンタからのプレゼントを喜び、親はその後片付け!

こんな感じが最近の我が家のクリスマスの様子です。

クリスマスの過ごし方についてはいろいろな意見があると思います。

そもそも、クリスマスはChirt+masで救い主キリストの礼拝・ミサ・降誕祭という意味だといいます。つまり、イエス・キリストの誕生を祝う時期ですが、実のところ、ほとんどの人々はお祝いとは思っておらず、自分のスタイルで過ごしています。そもそもクリスマスツリーやプレゼントはじまりも時代の流れの中でキリストの降誕に結び付けられていったことが多いので、「これが正しい過ごし方」はないですよね。

私が10-20代のころは、クリスマスイブとクリスマスの日の過ごし方をどうするかがアベック(恋人)の問題だったりしてましたね。(今もそういう人もいるのだろう。)
最近はアドベント(キリストの生誕を待ち望む期間)も話題になり、なんでもビジネスにしてしまう国だから、クリスマスツリーも街のあちこちで以前より早くから飾り、人々のクリスマス気分を盛り上げ、購買意欲を掻き立ててるなーと思います。

私も確実にそんな商戦に引っかかる一人でした。

でも、ただプレゼントを渡すだけでは一瞬の楽しみや欲求を晴らすことしか出来ないとが分かっていただから、子供を授かってからは子供たちにクリスマスの過ごし方を伝えていくとき、どういったスタイルを我が家のクリスマスにするかを考えてきました。

私にとって大きな影響は、中学3年でアメリカのクリスマスを体験したことです。とくにそこのご家族の過ごし方です。クリスマスは家族で過ごすもので、母の手作りを子供たちは喜び、大人から子供だけでなく、家族同士全員が互いに用意したプレゼントを交換し合うということです。それは手作りのものだったり、大切なお小遣いの中から購入したもの。向こうのクリスマスシーズンは、こっちでいうとお正月の感覚に近いかもしれません。
そして、私の場合、ゴスペル音楽がきっかけでキリスト信仰を持ちましたので、それ以後は、クリスマス言葉の意味も大切にしたいと思っています。

自分の中身はきれいでもなく、子育てしながら、自分の足りなさに悲痛の叫びを上げる日々です。

そんな自分を省みたとき、自分が満たされていなければ、子供たちに温かい心も安心も与えられないと思いました。そして、私が一番嬉しいときは、やはり周りの人が嬉しいとき、喜びを分かち合う人がいるときと気づきました。そこで、クリスマスの時期は、とくにその実践をするチャンスの時期、つまり、自分が満たされることを大切にしてみようと考えました。

1年の最後はできるだけ笑顔で過ごしたい。悲しい自分、イライラの自分、心貧しい自分でいたくない。家族のためとか他の人のためと言いたいけど、まずは自分のためです。子供たちの喜んだ顔をみて嬉しいのも自己満足ですし、おいしいものや手作るりするのも自分への満足感のためです。
 
でもその結果、自分の満足が自分だけでは成り立たないことがわかり、またときに自己満足は他の人にとって苦しみや嫌悪になっていることもあると気づきました。自分が与えられるだけでなく、周りの人も与えられていなけらば、自分も乏しいと感じるのです。
 
私には、イエス・キリストのように、自分のいのちを真っ先に差し出すほどの愛はないと実感しています。でも、欠けだらけの私を受け入れてくださる神が、その愛を私にくださり、その愛に満たされ、溢れ出たとき、はじめてその愛を他へと流すことが出来る・・・という聖書のメッセージには励まされました!
 
 
祈り:どうか、クリスマス、その愛を深く知ることができ、そしてその愛で心が満たされ、笑顔いっぱいの自分でいられ、そして家族もお友達も、世界の人々が、その場に合って祝福で満たされますように。
とくに、フィリピンの洪水で亡くなられた魂と、そして被災しまだ生活もままならない人々を覚え続け、支援の手が届きますように。祈り続けていけますように。東日本大震災の被災者の上にも、引き続き、心の慰めと具代的な支援が届きますように。