横尾美穂と声

シンガソングライター、ボイストレーナー、ゴスペルシンガー

横尾美穂の声と生活

ペール・ギュントと放蕩息子

2010-08-09 21:04:59 | 聖書
土曜日、TPS公演、斎藤歩さん演出の、イプセン作「ペール・ギュント」というお芝居を観た。
役者さん、よかったな。たくさんいたけど、みんな一人一人が存在している舞台だった。
舞台の奥に役者さんたちが座っていながら、次の瞬間衣装が変わっていたり、舞台転換や舞台のつくりもおもしろかった。斎藤歩さんが、このとき、札幌で、芝居を作っているというのが、ものすごく貴重なことに思えた。演出も作曲もすごい。TPSは、日本の演劇界の財産になりえる、おもしろい芝居カンパニーだと私は思ったのだった。

一方で、芝居を観ながら、この作品の主人公ペールが、聖書の中でイエス・キリストご自身がたとえ話をした、あの「放蕩息子」とだぶってみえた。

迷惑かけまくりの息子ペールをなんだかんだいって愛し最後まで守ろうとした母親から、ペールは離れ放蕩し続け、最後は、若き日に待っていてくれと言ったまま置き去ったソールヴェイのもとへ帰る。そして、彼女もペールを責めず、待っていたと言って、抱擁する。二人の女性の存在が、聖書の放蕩息子の父親とだぶる。<もちろんイプセンは、この聖書の話は知ってるはず。>ペールが「自分自身」と連発して言っていたことは、聖書では神から離れた人間そのものだな・・・と私は勝手に想像した。イプセンの作品には詳しくないが、昨日の公演でいろいろ考え、イプセンを読んでみようと思った。

ちなみに、聖書の放蕩息子の話は以下のようである。



ある二人の兄弟のうち、弟が父親に財産を分けてもらったとたん、遠い国に旅立って、放蕩して、財産をあっという間に使い果たした。その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。彼は、その国のある人のもとで、豚の世話をした。彼は十分に食べるものも与えれれなかった。そして彼は思うのだ・・・。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

彼は父のもとに帰った。父親は遠くから彼を見つけ、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は父に謝った。父は、しもべに「一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」と言った。(ルカの福音書15:11~24)。



2010-05-26 20:56:01 | 聖書
私の住む町は、風がふく。この5月は、よく吹いている気がする。

冷たい風のせいか、久しぶりに、お風邪さんになりました。お日様があっても、風が吹くと冷えますね。少し温かくなったと、油断してました。

風という言葉は、困難とか試練とか自分に向かってくるもの(逆風)にたとえられたりします。冷たい風が心に吹くと、心も冷えます。

もう一方、風という言葉にはこんな意味もあると聖書は言っています。

聖書には、旧約と新約があります。旧約はヘブル語、新約は古いギリシャ語で書かれていますが、古いギリシャ語の「風」は「プネウマ」というそうで、ふつの「風」の意味の他に「息」「霊」という意味があるそうです。


神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。(旧約聖書 創世記2章7節)


これは、聖書の人間観を表しています。
神の吹く息は、いのちであり、神が注ぐ聖なる霊と理解できます。つまり、私たちが生きるためになくてはならない風だと、聖書は言っています。(ちなみに、この聖書の箇所は、ボイストレーニングで呼吸ができなければ声は出ないということを深く考えるきっかけになった箇所であります。声を出させるようにしてくださったのは、神であると実感した聖書の言葉です。)


あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。(新約聖書 使徒1章8節)


この言葉はイエスキリストの言葉で、十字架で死に葬られた後よみがえったとき、弟子たちにした約束です。

神は私たちを生かし、私たちが生きるように風を送ってくださっている、というのです。
その風は、私たちを元気づける希望の風であり、生きる喜びであると。

今日、風邪をひきながら、私は祈る。

「神さま~、逆境の風ではなく、いつもこの「希望の風」を心に吹かせてください」と。

アーメン!?






友達

2010-05-24 23:59:50 | 聖書
この春、20年ぶりに中学の同窓生の集まりに顔を出した。年は取ったが、男の子を「男子!」とか呼んでいた、あの頃がよみがえる。とても、嬉しかった。

それからというもの、私の回想旅行のはじまり。

たくさんの出会いもあり、別れもあった。いつか連絡をとろう・・・としていたら、とらずに音信不通の人も・・・。

生きてる中で、私は、たった一人でいたことはない。家族にも愛され、友達も、いつも周りにいた。それは感謝なこと。
でもあるとき、自分は一人であることに気がついた。どんなに周りに人がいても、私の心の中にある孤独感・・・。どこからくるのか?

家族が一緒だから、クラスが一緒だから、職場が一緒だから、サークルが一緒だから、一緒にいるのではなく、自分一人とじっと向かい合って寄り添ってくれる人はいるのか。生まれたときから、死ぬときまで、そして死んだ後も、ずっと私と寄り添ってくれる存在。

そんなとき、聖書を読んだ。

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。 新約聖書 ヨハネによる福音書 15:13

命を捨てるまでに、その友を思う・・・。

私のために命をすてる、と言ってくださる存在に私は畏怖を覚えた。



雪が降った

2009-12-21 21:30:30 | 聖書
降った降った。なぜか、ほっとする・・・。そして、久しぶりの雪かき。

雪といえば、いろいろイメージがあるけど、昨日、テレビで、蜘蛛の巣の研究をしている方が出ていて、その方が、蜘蛛の巣は、蜘蛛の芸術だと言っていた。その蜘蛛の巣を見て、私は、雪の結晶のことを思い出した。

「雪は天から送られた手紙である」という言葉がある。これは、北海道大学の教授だった、中谷宇吉郎博士による有名な言葉。

なぜなら、雪の結晶は、そのときの空の気温や湿度を知らせてくれるというのだ。私たちに、その情報を知らせるかのごとく、あの、なんともいえない、繊細な模様が生まれるというのだ。

中谷博士は、人口的に雪の結晶を作るのに成功したが、それはとてもとても難しいことだった。しかし、自然界では、それが瞬時に創られていく。天から降ってくる結晶には、ひとつとして同じ形がないのだという。それぞれが、気温や湿度など微妙な変化を告げ知らせる。

雪の結晶にしても、蜘蛛の巣にしても、自然の中の芸術作品を見ると、言葉を失う。

この自然や世界に存在するすべてが、偶然に創られたのか、だれかのイメージによって創られたのかは、それぞれにいろんな考えがあるだろうけど、私は、創造主がいると信じている。

もうひとつの天からの手紙・・・それは聖書。

昔も今も変わらない、人々の有様を見ることができ、私たちを照らす光の言葉だ。

雪の結晶のように、天(神)から、私たちに贈られた手紙であり、人はなぜに生まれ、何のために生き、この世では終わらないいのちについて書かれ、永遠に続く希望について知ることのできる、言葉が書き記されている。

初めに、神が天と地を創造した。(聖書 創世記1章1節)

ゴスペルと聖書

2009-11-13 23:15:21 | 聖書
たまに、聖書やゴスペルにちなんだ話を勝手に書いてみる。多少の間違いがあるかもしれないがお許しを!

大学の授業で習ったのだが・・・・

聖書は英語でBible。これはもともとパピルスという古代エジプトで使われていた紙の原料の荷揚港だった、Byblos(ビブロス)という港町の名前に由来している。パピルスが荷揚された町→パピルス→紙→紙に書いたもの→書物と意味が変化し、
聖なる書物で「聖書」となったそうな。

つまり聖書とは、Byblos→biblia(複数形=books)→Biblia Sacra(=Holy Books=聖書)→Biblia (Sacraを省略)→Bible

つまり、もともとは紙の原料であり、紙であり、最終的に「書物」という意味なのだ。そして、その聖書という書物(本)の主人公は、父なる神、イエス・キリスト、聖霊という、三位一体の神である。

私が歌うゴスペルという言葉の語源は、God(神)spell(言葉) という言葉が組み合わさったもの。つまり、「神の言葉、良い知らせ」という意味である。だから、聖書のメッセージに関する歌は、ゴスペルソングというのだ。

また、英語辞典にも書いてあるが、the Good bookというと、聖書の意味になる。聖書が、「本の本、代表的な本だ」という、英語という言語の背景にある思想や世界観には、キリスト教、聖書は欠かせない存在だ。

ちなみにgoodもGodness 神から派生した言葉。good-byはGod be with you(神があなたと共にいるように)が省略されたかたち。

The Good book、良い本、本の本・・・。読んでみる価値あり!と思います。