土曜日、TPS公演、斎藤歩さん演出の、イプセン作「ペール・ギュント」というお芝居を観た。
役者さん、よかったな。たくさんいたけど、みんな一人一人が存在している舞台だった。
舞台の奥に役者さんたちが座っていながら、次の瞬間衣装が変わっていたり、舞台転換や舞台のつくりもおもしろかった。斎藤歩さんが、このとき、札幌で、芝居を作っているというのが、ものすごく貴重なことに思えた。演出も作曲もすごい。TPSは、日本の演劇界の財産になりえる、おもしろい芝居カンパニーだと私は思ったのだった。
一方で、芝居を観ながら、この作品の主人公ペールが、聖書の中でイエス・キリストご自身がたとえ話をした、あの「放蕩息子」とだぶってみえた。
迷惑かけまくりの息子ペールをなんだかんだいって愛し最後まで守ろうとした母親から、ペールは離れ放蕩し続け、最後は、若き日に待っていてくれと言ったまま置き去ったソールヴェイのもとへ帰る。そして、彼女もペールを責めず、待っていたと言って、抱擁する。二人の女性の存在が、聖書の放蕩息子の父親とだぶる。<もちろんイプセンは、この聖書の話は知ってるはず。>ペールが「自分自身」と連発して言っていたことは、聖書では神から離れた人間そのものだな・・・と私は勝手に想像した。イプセンの作品には詳しくないが、昨日の公演でいろいろ考え、イプセンを読んでみようと思った。
ちなみに、聖書の放蕩息子の話は以下のようである。
ある二人の兄弟のうち、弟が父親に財産を分けてもらったとたん、遠い国に旅立って、放蕩して、財産をあっという間に使い果たした。その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。彼は、その国のある人のもとで、豚の世話をした。彼は十分に食べるものも与えれれなかった。そして彼は思うのだ・・・。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
彼は父のもとに帰った。父親は遠くから彼を見つけ、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は父に謝った。父は、しもべに「一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」と言った。(ルカの福音書15:11~24)。