安倍晋三の格差社会をつくりながらの幼児教育段階的無償化の矛盾

2015-07-21 10:16:14 | 政治


 安倍晋三は経済格差が教育格差に始まり経験格差と対人関係格差増殖装置だと気づいていないらしい。

 7月13日、安倍晋三が都内ホテルで開催の第30回全日本私立幼稚園PTA連合会全国大会に出席した。

 安倍晋三「家庭の経済状態に左右されることなく、全ての子供たちに質の高い幼児教育を保障できるよう、幼児教育の段階的な無償化へ向けた取組み。段階的にしっかりとお約束を果たしていきたい、そう思っております。

 幼児教育の振興について、政府与党一体となって取り組んでまいります」(首相官邸) 

 安倍晋三が公立幼稚園の会合ではなく、私立幼稚園の会合で「幼児教育の段階的な無償化へ向けた取組み」を公表するとは格差社会促進者であることからすると、非常に象徴的だ。

 私立幼稚園に通っている場合でも生活保護受給世帯の子どもでも公的機関から年額で30万円前後、低所得の世帯にはそれ以下の補助金(私立幼稚園就園奨励費補助金)を受ける仕組みがあるが、一般的には私立幼稚園は生活余裕世帯以上の家庭の子どもが通うのが通り相場となっている。

 このことは厚労相調査、《平成24年度子供の学習費調査・結果の概要》が証拠立ててくれる。

 「年齢及び学年別の学習費総額」

 幼稚園  3歳  公立190,185円 私立483,278円
      4歳  公立209,090円 私立451,718円
      5歳  公立260,088円 私立526,568円

 生活保護受給世帯の子どもが私立幼稚園に通う場合、年額30万円を公的機関から補助金を受けたとしても、差額として残る20万円前後を月割としたとしても、月々1万円以上の自己負担に耐えることのできる生活保護受給世帯がどれ程存在するのだろうか。

 この問題を幼児教育無償化が解決するようには見える。

 確かに幼稚園に通う経費に関しては全てが無料で親の収入に関係なく平等となるが、収入の低い家庭の子どもが相互の家庭で行うお誕生会で家の造りや間取り、調度品の違いに肩身の狭い思いをしなければならない経験を強いられたとしたら、無償化だけでは片付かないことになる。

 あるいは夏休みや春休み等、長期の休みのあと、幼稚園で子どもたちがどこへ遊びに行ったと話し合うとき、ディズニーランドに3日間行ったという子と日帰りで行ったという子と、これと言って自慢できる場所には行かなかった子と、どこへも行かなかったという子の間に肩身にも関係する親の収入に応じた経験の格差は無償化だけの問題ではないだろう。

 いわば収入格差が教育格差へと継承され、教育格差が収入格差へと世代間で継承される負のスパイラルの一つの解決方法としての幼児教育無償化であったとしても、教育もある年齢に於ける教育に関わる一連の経験として存在するが、収入格差は経験格差へと否応もなしに継承されていき、経験の過程で形成していくことになる対人関係に於いても同じ生活程度の子どもが総じて友人関係を築いていく傾向があるように経験格差が対人関係格差に直結していく現実は無償化では解決できない、その埒外にあるということである。
 
 親が裕福なために幼い頃から外国旅行に頻繁にいく経験に恵まれて成長していった子と旅客機に一度も乗ることなく成長した子では、それぞれが知る世界の違いがもたらす経験の差・質は自ずと違い、対人関係に於いても、自ずと格差が生じることになる。

 と言うことは、教育格差や経験格差、対人関係格差を決定づけている出発点は収入格差であり、それが厳然として存在し、しかも拡大方向に向かっている以上、一番の元――大本となっている収入格差を改善しない限り、根本的解決とはならず、幼児教育無償化は単に一時的、その場限りの対処療法の役にしか立たないことになる。

 幼児教育無償化が実現したとしても、収入格差そのものが変わらなければ、あるいは現在以上に拡大していくようなら、子どもそれぞれが成長の過程で影響を受ける経験格を差生み出す土壌・対人関係格差を生み出す土壌は変わらないばかりか、格差自体は更に拡大していくことになるということである。

 当然、そういった土壌、各格差を平均化するためには収入格差自体を縮小する政策を取らなければならないことになるが、安倍晋三は一方で格差を拡大する政策を取り、一方で対処療法でしかない無償化を言う矛盾に気づいていない。

 経験格差生み出す土壌・対人関係格差を生み出す土壌に決定的に変化を与えるわけでもない幼児教育の段階的無償化を学費が公立よりも2倍以上高い私立で言う。

 最初に非常に象徴的だと書いたのは、このことである。

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改めて砂川事件最高裁判決は集団的自衛権行使合憲の根拠足り得ないし、判決は国民世論に従えと明記している

2015-07-20 09:35:50 | Weblog

 7月19日(2015年)NHK日曜討論が「安保法案 衆院通過 与野党間部に問う」を放送、各党幹部をインタビューした。自民党は副総裁の高村正彦が出演、いつもと同じように集団的自衛権行使の合憲根拠として1959年(昭和34)12月16日の砂川事件最高裁判決を挙げていた。

 高村のいくつかの発言を取り上げて、果たして根拠となり得るかどうか、改めて判決を検証してみることにした。

 高村正彦「(安保法制は)選挙でも公約した。閣議決定して、内容がかなりはっきりしている。その前の参議院議員(選挙)でも公約している。その前の衆議院議員(選挙)でも公約している。そしてはっきりしたものを公約して、それを議論が熟したから、採決する。憲政の常道に従ったと思っている」

 公約がすべて国民に受け入れられるとは限らない。ところが、公約だから正しいという短絡的思考に立っている。数の力を握っている側のこういった思い込みは結果的に数の力で公約を正しいと証明したい欲求に駆られ、そういった証明を当り前とすることになる。

島田キャスター「安全保障の中身がこれ程複雑で、幅の広い法案というものを見たことがない。自民党の国会議員でも分かっている人と分かっていない人の落差というものが非常に大きかった」

 高村正彦「今までの周辺事態確保法というものが皆んな分かっていたかというと、皆んな分かっていない。自衛隊法だって、皆んな分かっていたかというと、分かっていないかもしれない。

 安全保障というものは大変難しいんでね、そのときそのとき、その国の刹那的な世論だけに頼っていたら、自衛隊はできなかったし、日米安全保障条約だもできませんよ。

 あるいはPKO法もできていなかった。その都度大多数の憲法学者は憲法違反だと言ってきたのですから、日本の国民のために本当に必要だ、日本の国の安全のために本当に必要だと思うことは多少支持率を下げてもやってきた。これ、自民党の歴史なんです」

 数の力を持つ側が数の力で公約を正しいとする証明を当り前としているから、国民の世論を刹那的な性格のものと貶めることになる。国民主権であることを忘れ、国家主権に陥っていることに気づかない。

 左の図を見せられて、「納得できないという世論にどう説明するのか」問われる。

 高村正彦「憲法で、憲法の番人、違憲立法の審査権のある終審裁判所、最高裁、決めるわけですね。そこで只一つ、自衛権について出した判決があるわけです。

 その判決では国の平和と安全を維持し、国の存立を全うするための必要な自衛の措置は取り得ることは主権国家として当然であると、こういうことを言っているわけです。

 そしてさらに安保政策のような高度な政治的な問題は国会と内閣に委ねる、一見明白に違憲無効と言わない限り、それでいいんだとこういうことを言っているわけです。

 そしてだから、国の存立を全うする必要な自衛の措置は何かということをトコトン考えたときに、どうしても、例えば朝鮮半島有事のときに米艦を防御するように、どうしても必要な自衛の措置でありながら、国際的には集団的自衛権と言わざるを得ないものが出てくる。その限りでの限定容認しようということで(す)」――

 高村正彦が砂川事件最高裁判決に言っていることを実際の判決の中から拾ってみる。

 「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。

 すなわち、われら日本国民は、憲法9条2項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによって生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによって補ない、もってわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。

 そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであって、憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである」

 確かに国家の存立を全うするための自衛の措置は国家固有の権利だと言っている。だが、日本国憲法9条2項の戦力不保持・交戦権否認の規定によって生じる「防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによって補ない、もってわれらの安全と生存を保持しようと決意した」ことに照らし合わせて「他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではない」と日米安全保障条約に基づいて米軍の日本国内への駐留を憲法違反ではないと判決づけたもので、国家固有の権利だからといって、日本が直接自衛権を行使することを認めた内容とはなっていない。

 いわば主権国家は固有の権利として自衛権を持ち、行使できるととする一般論を述べているだけのことで、日本にしても主権国家として固有の権利としての自衛権を持つが、その行使に関しては憲法9条を根拠として一般論から除外している。

 以上のことは以下の文言によって補強されている。

 「(サンフランシスコ)平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章(51条)がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である」――

 言っていることは、日本国憲法9条に基づいて「わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み」、「平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認」していることと、国連憲章が51条によって加盟国すべてに承認している「個別的および集団的自衛の固有の権利」を「わが国内およびその附近にその軍隊を配備する」アメリカ合衆国に肩代わりして貰うことは、先の文言を引き継いで、憲法違反ではないとする趣旨となって、個別的・集団的自衛権の行使を合憲とする趣旨の文言はどこにも存在しない。

 大体が日本国憲法9条に基づいた「わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状」とは、現憲法下では自衛権行使は許されていない状況にあると言っていることに他ならない。

 つまり個別的であろうと集団的であろうと、日本国憲法9条は自衛権の行使を認めていない、行使は憲法違反だと言っていることになる。

 自衛権のアメリカ合衆国肩代わり論は次の文言にも現れている。

 「憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。

 従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうも のであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留する としても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである」――

 日本国憲法第9条第2項が「その保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力」であって、「外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである」として、外国軍隊の戦力は日本国憲法第9条第2項に言う戦力に当たらず、それゆえに外国軍隊の日本駐留、あるいはその戦力は憲法違反ではないとしている。

 要するに自衛権のアメリカ合衆国肩代わり論となる。

 と言うことは、裏を返すと、日本国政府が「その主体となってこれに指揮権、管理権を行使」する自衛隊戦力は憲法違反となる。

 憲法違反を避けるためには自衛隊の「指揮権、管理権」をアメリカ政府に委ね、日本国駐留のアメリカ軍の指揮下に置く以外にないことになる。

 「同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として」と言っていることの意味は、自衛のための戦力の保持をも禁じたものと解釈した場合、アメリカ軍の指揮下でも、軍隊として行動できなくなるからであろう。

 皮肉な言い方をすると、同条2項を自衛のための戦力の保持を禁じたものとした場合、自衛隊はいくらアメリカ軍の指揮下であっても自衛の戦力としては行動できないが、自衛以外の戦力――侵略の戦力としては行動できるということになる。

 高村正彦は狡猾にも「安保政策のような高度な政治的な問題は国会と内閣に委ねる、一見明白に違憲無効と言わない限り、それでいいんだとこういうことを言っているわけです」と言って、国会と内閣の問題であって、国民の世論を排除しているが、国民の世論を刹那的な性格のものと貶めることができる政治家にふさわしい狡猾な薄汚いすり替えに過ぎない。

 高村正彦が合憲だと言っているのとは反対に砂川最高裁判決は個別的であれ、集団的であれ、自衛権の行使を違憲としているばかりか、国会と内閣に委ねる問題だと言っていることとは反対に国民の世論を重視せよと判決づけている。

 「本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて 重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであって、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。

 それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従って、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであって、それは第1次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものであると解するを相当とする」――

 砂川事件最高裁判決は日米安全保障条約に基づいたアメリカ軍の日本国駐留は違憲ではない、合憲であるとする一方、日米安全保障条約そのものについての合憲か違憲かの判断は内閣と国会の判断に従うべきだとしているが、これは前提条件であって、「終局的には」という言葉を使って、最終的にはという意味で、「主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものであると解するを相当とする」と、最終判断を国民世論に置いている。

 これは日本国憲法が規定している国民主権という立場からの判断であろう。

 と言うことは、日米安全保障条約そのものの合憲・意見判断のみならず、集団的自衛権の行使を認める・認めないも、砂川事件最高裁判決が合憲とする根拠を与えていない以上、憲法問題に絡む関係から砂川事件最高裁判決に倣って最終的には「主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべき」としなければならないはずだ。

 いわば憲法問題に絡む「高度の政治性を有する」集団的自衛権行使等の問題は国民世論に従えと最高裁は判決を下している。

 だが、安倍晋三を筆頭として高村正彦等、安倍政権閣僚と与党議員は砂川事件最高裁判決に反して判決を集団的自衛権の行使合憲の根拠に置き、なお且つ国民世論を無視している。

 二重の最高裁判決違反ではないか。

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安倍晋三が五輪は国民に「祝福されなければならない」と言うなら、安保法制も国民に祝福される必要がある

2015-07-19 06:39:52 | Weblog



      「生活の党と山本太郎となかまたち」

      《7月19日(日)山本太郎代表テレビ出演ご案内》

      こんにちは、生活の党と山本太郎となかまたちです。
      山本太郎代表がNHK『日曜討論』に出演します。
      安保法案の採決の受け止めと法案審議に求めることについて」をテーマに議論します。
      是非ご覧ください!

      ◆番組名:NHK『日曜討論』
      ◆日 時:平成27年7月19日(日)午前9:00~10:00
      ◆内 容:安保法案の採決の受け止めと法案審議に求めることについて

      ※番組詳細 

 安倍晋三が7月17日(2015年)午後、首相官邸で記者団に2020年東京オリンピック・パラリンピックのメイン会場新国立競技場の「現在の計画を白紙に戻し、ゼロベースで見直す決断をした」と表明した。

 2013年9月7日に東京開催が決定して約2年後の見直しである。なぜ2年近くも経過してからの見直しなのか、安倍政権内では民主党政権時代にデザインが決まったと、さも民主党政の責任だというふうなことを言っていたが、事実そうなのか、これまでの経緯を振返ってみる。

 文飾は当方。

 ①2012年11月16日、イギリス在住イラン人ザハ・ハディド女史のデザインが独立行政法人日本スポー ツ振興センター(JSC)主催の日本の新国立競技場のコンペ(国際デ
  ザイン・コンクール)で最優秀賞を受賞。建設予算は1300億円

 ②2013年9月7日にアルゼンチンの首都ブエノスアイレスで開催IOC総会が2020年オリンピック・パラリンピックの東京開催を決定。

 ③安倍晋三、同9月7日プレゼンで、「他のどんな競技場とも似ていない真新しいスタジアムから、確かな財政措置に至るまで、2020年東京大会は、その確実な実行が確証され
  たものとなります」と間違いのない開催に太鼓判。

 ④2013年10月、東京開催決定を受けて1カ月後、独立行政法人日本スポー ツ振興センター(JSC)が設計図から建設費用を起こす設計会社に見積りを依頼。総工費3000
  億円の見積りとなる。

 ⑤2013年10月23日、文科相の下村博文が総工費は最大約3000億円と発表。

 ⑥2013年11月26日、独立行政法人日本スポー ツ振興センター(JSC)が延べ面積約25%縮小、総工費1852億円に抑える修正案策定。

 ⑦2014年5月28日、独立行政法人日本スポー ツ振興センター(JSC)の有識者会議が基本設計了承。総工費1625億円。

 ⑧2015年5月18日、下村博文が開閉式屋根設置の大会後への先延ばしを表明 

 ⑨2015年6月29日、下村博文が総工費は2520億円と発表。

 ⑩2015年7月8日 官房長官の菅義偉が記者会見で総工費2520億円に決まったことについて「大会招致の最終プレゼンテーションで世界に発信し、東京開催を勝ち取った経緯
  があり、安易にデザインを変更することは国際的な信用を失墜しかねない」と表明。

 ⑪2015年7月10日、安倍晋三、衆院特別委で「これから国際コンペをやり、新しいデザインを決めて基本設計を作っていくのでは時間的に間に合わない。2019年のラグビー
  ワールドカップには間に合わないし、2020年の東京オリンピック・パラリンピックも間に合わない可能性が高い」と述べ、デザインの変更は困難だという認識を示す。

 ⑫2015年7月17日、安倍晋三、首相官邸で記者団に建設計画を白紙に戻し、ゼロベースで見直す方針を表明。

 安倍晋三は2013年9月7日東京開催決定前のプレゼンで、「他のどんな競技場とも似ていない真新しいスタジアムから、確かな財政措置に至るまで」と、ザハ・ハディド女史デザインの新国立競技場を頭に入れて東京オリンピック・パラリンピックを思い描き、全ての財政措置は大丈夫だと請け合ったのである。

 当然、2011年3月11日の東日本大震災以降の復旧・復興と政権獲得直後の2012年12月27日の臨時閣議で2012年度補正予算と2013年度当初予算合わせて「15カ月予算」の方針を決定、民主党政権2012年度予算公共事業費比1.7倍の公共事業総額7.7兆円を柱とした景気対策を打ち出し、2012年度補正予算を2013年2月26日に成立させて公共事業が執行されていたこと、2013年度予算を2013年5月15日に成立させ、安倍晋三が2013年9月7日のプレゼンの時点で既に公共事業の前倒し執行がかなり行われていたこと、そして2014年4月1日からの消費税5%から8%増税を受けて住宅建設駆け込み需要が既に始まっていたことなどを要因とした土木建設及び一般建設に於ける人件費の高騰、円安と在庫不足による建設資材の高騰、これらをプラスした建設費そのものの高騰という経緯を辿っていたことからすると、少なくとも新国立競技場が総工費1300億円のデザインであったかどうかは別にして、プレゼン前にどのくらいの高騰で済むか試算していなければならなかったことになる。

 試算もせずにザハ・ハディド女史デザインの新国立競技場を頭に入れて、「他のどんな競技場とも似ていない真新しいスタジアム」について語りかけたことになる。

 そのために東京開催決定を受けた1カ月後の2013年10月から、やれ総工費は3000億円だ、総工費1625億円だ、いや、総工費2520億円だと迷走することになった。

 全て安倍政権下の迷走である。

 ザハ・ハディド女史の建設事務所「コストがかさんだのはデザインのためだと伝えられたのは間違いで、デザインは、日本の建設業者の標準的な材料や技術を使って、JSC=日本スポーツ振興センターの設定した予算に見合うものだ。

 真の課題は、1年間で東京での建設コストが急騰し、完成させなくてはならない期日は決まっているという状況の中、許容可能な建設費について答えを出すことだ」(NHK NEWS WEB
 
 「デザインは、日本の建設業者の標準的な材料や技術を使って、JSC=日本スポーツ振興センターの設定した予算に見合うものだ」と言っているが、例え「標準的な材料」を使用し、「技術」を駆使したとしても、生産性という点で日本は2013年のOECD 加盟諸国の国民1人当たりのGDPで見た労働生産性は34カ国中17位。アメリカ4位の53.086米ドルに対して日本31.315米ドルと21ドルも低い。

 特に日本の土木の世界では元請会社や県からの安全パトロールが月1回はあって、現場の部署ごとにパトロールが通過する間、仕事を中止しなければならないことや、同じく月1回は仕事を中断して全従業員が1持間から2時間、安全対策会議と称して安全に関わるレクチャーを受けるなどしなければならないことも影響しているのかもしれない。

 毎朝の8時からの朝礼もラジオ体操や注意事項の伝達等で30分近くもかかるようである。こういったことに時間を取られて生産性が低くなれば、逆に余分にコストがかかることになる。

 但し、こういった例外を計算に入れたとしても、いくら建設コストの高騰を見たとしても、1300億円の予定が約1年後の計算が総工費3000億円というのはその差が大き過ぎる。

 だとしても、早い時期に計算していたなら、こうも迷走しなかったろう。

 安倍晋三の7月17日記者会見の全文を次の記事が伝えている。《【全文】安倍首相、新国立競技場は「計画を白紙に戻す」 記者会見で建設の見直しを表明》ログミー/2015年7月17日)     

 次の発言を見てみる。

 安倍晋三「2020年のオリンピック・パラリンピックの会場となる新国立競技場の現在の計画を白紙に戻し、ゼロベースで計画を見直す。そう決断いたしました。

 オリンピックは国民みなさんの祭典であります。主役は国民、お一人お一人、そしてアスリートのみなさんです。ですから、みなさんに祝福される大会でなければなりません。

 国民のみなさん、またアスリートたちの声に耳を傾け、1カ月ほど前から、計画を見直すことができないか検討を進めてまいりました」――

 オリンピックは「みなさんに祝福される大会でなければなりません」

 そのために「国民のみなさん、またアスリートたちの声に耳を傾ける」

 であるなら、安保法制は国民一人一人が日本の将来の進路に関わっていくことになる関係上、尚更に国民に祝福される法律としなければならないはずだ。

 当然、半数以上が反対している国民の声に耳を傾けなければならない。

 新国立競技場の建設に関しては国民の声に耳を傾け、国民に祝福される大会であろうとするが、安保法制に関しては国民の声に耳を傾けず、国民に祝福される法案であることを要件としない。

 二重基準の矛盾を犯しているばかりではなく、ご都合主義も甚だしいではないか。

 この鉄面皮なご都合主義はマスコミその他の大方が見る通り、安全保障法制で失った支持率を同じく世論調査で不人気で国民の関心がある新国立競技場建設の見直しで回復しようという思惑から発したご都合主義なのだろう。

 一国の首相が自らの発言に整合性を持たせることができない。事情に応じて言うことに違いが生じる。

 そのような安倍晋三であります。
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安倍晋三が「国民の命と幸せな生活を守る」を自身の政治の口実とするのは独裁的意志からの思い上がり

2015-07-18 09:43:03 | Weblog



      「生活の党と山本太郎となかまたち」

      《7月19日(日)山本太郎代表テレビ出演ご案内》

      こんにちは、生活の党と山本太郎となかまたちです。
      山本太郎代表がNHK『日曜討論』に出演します。
      安保法案の採決の受け止めと法案審議に求めることについて」をテーマに議論します。
      是非ご覧ください!

      ◆番組名:NHK『日曜討論』
      ◆日 時:平成27年7月19日(日)午前9:00~10:00
      ◆内 容:安保法案の採決の受け止めと法案審議に求めることについて

      ※番組詳細 
   
       《7月14日(火)主濱了副代表 公選法改正案を参院に提出》
     
      生活の党と山本太郎となかまたち、民主党、公明党、無所属クラブは7月14日、参議院4会派共同
      で、20県の10合区を含めて定数を12増12減し、1票の格差を最大で1.945倍に抑える「公職
      選挙法の一部を改正する法律案」を参議院に提出しました。
                                     詳細は党ホームページをご覧ください。

 7月15日の安全保障関連法案衆議院特別委員会採決前の締め括り質疑で野党の反対意見に対して安倍晋三は勿論賛成意見を述べている。

 長妻民主党代表代行「内閣法制局長官OBは悩んだと思うが、『憲法違反だ』と言い、安全保障政策を中枢で担った官僚OBが異議を唱えた。自民党の『安保族』と言われる重鎮のOB議員も『いったん立ち止まるべきだ』と言っている」

 安倍晋三「選挙によって選ばれた私たちは、必要な自衛の措置を考え抜く責任から逃れてはならない。その責任から逃れるということは、国民の命と幸せな暮らしを守り抜く責任の放棄と同じだ。当然、批判もあるが、批判に耳を傾けつつ、確固たる信念で、しっかりと政策を前に進めていく必要がある。

 現在、まだ、国民の皆様のご理解が進んでいないのも事実だ。だからこそ、理解が進むように努力を重ねていきたい。国民の声に耳を傾けながら、同時に、国民の命と幸せな生活を守り抜いていく責任があることからも、目をそらしてはならない」(NHK NEWS WEB

 前段と後段の発言を分けてみる。

 前段「選挙によって選ばれた私たちは、必要な自衛の措置を考え抜く責任から逃れてはならない。その責任から逃れるということは、国民の命と幸せな暮らしを守り抜く責任の放棄と同じだ。当然、批判もあるが、批判に耳を傾けつつ、確固たる信念で、しっかりと政策を前に進めていく必要がある」

 ここで「国民の命と幸せな暮らしを守り抜く」と言っている「国民」とは当たり前のことだが、一部の国民を指すのではなく、国民全般を指していなければならない。いわば国民の全般的傾向として存在する状況となっていなければならない。

 このことを無視して、選挙で選ばれたからと言って、どのような政治も許されるというわけではない。日本国憲法は主権在民を謳っている。そうである以上、国民に政治を任された者は常に国民に顔を向け、国民全般が利害を同じくするような政治を心がけなければならない。

 だが、現実にはそうはなっていない。にも関わらず、自らが行うどのような政治も国民全般に亘ってその命と幸せな暮らしを守る仕掛けとなっているかのように装う自己絶対性は思い上がりも甚(はなは)だしく、そこに独裁意志が存在することになって、主権在民を裏切ることになり、主権内閣といった違憲構造を取ることになる。

 現にアベノミクスで生活が飛躍的に豊かになった国民が一方に存在するのに対して生活が苦しくなった多くの国民が存在する。いわばアベノミクスは国民全般に亘ってその命と幸せな暮らしを守る政策とはなっていない。

 もし全ての政治がほぼ全般に亘って国民の命と幸せな暮らしを守る仕掛けとなっていたなら、いわば国民全般が利害を同じくするような政治となっていたなら、格差社会は存在することはなかったろう。

 そうであるにも関わらず、自らの政治を何かと言うと「国民の命と幸せな暮らしを守り抜く責任からの政治」だと正当化し、自己絶対性を装うのは独裁意志からの詭弁(間違っていることを正しいと思わせるように仕向た議論/『大辞林』)以外の何ものでもない。

 まさしくそのような政治家として最近の例では安倍晋三以外に例を挙げることはできまい。

 国民に顔を向けているようで、実際には日本という国家のみに目を向け、日本の世界に於ける存在感を高めるために日本の軍事的影響力を広範囲化・高度化することを狙っている。

 後段「(安保法制は)現在、まだ、国民の皆様のご理解が進んでいないのも事実だ。だからこそ、理解が進むように努力を重ねていきたい。国民の声に耳を傾けながら、同時に、国民の命と幸せな生活を守り抜いていく責任があることからも、目をそらしてはならない」
 
 ここでもどのような政治も国民全般に亘ってその命と幸せな生活を守る仕掛けを実現できていないにも関わらず、自分の政治はそうだとして、安保法制正当化の口実に利用している。

 その自己絶対性の独裁意志は目に余る。

 国民の理解が進んでいないのは説明不足からではなく、安倍晋三を筆頭とした政府・与党の説明能力不足(=言葉の能力不足)からであろう。

 と言うことは、「国民の命と幸せな生活を守る」安保法制だと国民は理解するに至っていないことになる。安保法案の中身を十分に説明し、理解を得る言葉の能力も持たず、「国民の命と幸せな生活を守る」安保法制だと国民に理解させる言葉の能力も発揮できないままに採決を先とする。

 このことは政治というものが常に国民に顔を向け、「国民の命と幸せな生活を守り抜いていく責任」を云々するなら、尚更のこと国民に顔を向け、主権在民を重視していかなければならないにも関わらず、安倍晋三は国民の理解を得ないままに採決を先にしたことは「国民の命と幸せな生活を守り抜いていく責任」から「目をそらして」、いわば手順を逆にして、主権在民よりも国家を優先させて内閣主権としたことになる。

 安倍晋三が「国民の命と幸せな生活を守り抜いていく責任」を言う程には「国民の命と幸せな生活」が国民全般の利害とすることができる安倍政治とはなっていないし、政治そのものがそういった属性を備えている以上、繰返しになるが、選挙で選ばれたからと言って、あるいは「国民の命と幸せな生活を守る」と言えば、どのような政治も許されるわけではなく、このスローガンを自己政治の正当化の口実に利用するのは国民を騙すことになるばかりではなく、国民に対して自己政治の絶対性を装うことになり、自己政治の絶対性は独裁意志から発することに留意しなければならない。

 政治というものの属性から考えて、安倍晋三の安保法制が国民全般に亘ってその命と幸せな生活を守ることを約束するわけではないし、もし法律化を考えているなら、あくまでも安全保障上の抑止力向上のみを言うべきだろう。

 しかし言うべきではない前者まで加えて安保法制の正当化を謀っている。安倍晋三が既に独裁意志を内に隠した自己絶対性の姿勢に立っていることを見抜かなければならない。
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辻元清美はバカな女、涙声で採決中止を訴えてどうなる 国民の信を問えと解散・総選挙を求める手はなかった

2015-07-17 08:57:16 | 政治

 


      「生活の党と山本太郎となかまたち」

     《7月16日 安全保障関連法案の衆議院通過を受けての談話》    

     こんばんは、生活の党と山本太郎となかまたちです。
     本日の安全保障関連法案の衆議院通過を受けて、小沢一郎代表が談話を発表しました。党ホームペー
     ジに掲載しています。ぜひご一読ください。

 7月15日、与党が衆院特別委員会で安全保障関連法案の採決に踏み切った際、民主党は採決時に、「アベ政治を許さない」、「強行採決反対!!」、「自民党感じ悪いよね」などと書き入れたプラカードを掲げて抵抗、浜田靖一委員長(自民)を取り囲んで「反対」と大合唱を浴びせたと、「The Huffington Post」が伝えていた。

 スローガンめいた言葉を書いたプラカードを掲げて委員長を取り囲んだ。どのような成算・効果を考えてしたことなのだろう。「アベ政治を許さない」は理解しょうと思えば、それでもまだ理解できる。だが、「自民党感じ悪いよね」といった感じの良し悪しのレベルに置いて取り扱う問題なのだろうか。

 相手は法案を成立させさえすれば、こっちのものだと思っているのである。成立させることによって法案は法律として既成事実化し、その既成事実に則って世の中を動かしていく。それを感じのレベルで良い悪いを言う。幼稚さが目立つだけである。

 幼稚さを見せただけではない。同記事は、〈採決の際、民主党議員は浜田氏に詰め寄り、マイクや議事進行の資料を奪おうとしたが、浜田氏は懸命に議事を続行。辻元氏は、浜田氏の目の前で手を合わせ、涙声で「お願いだから、やめて」と繰り返した。〉と書いている。

 強行採決は最初から分かっていたことで、最初から分かっていた強行採決を浜田委員長は予定行動として進めていたに過ぎない。そうであるのに委員長の前で手を合わせ、涙声で「お願いだから、やめて」とお願いして、相手が、「ハイ、分かりました」と採決を中止するとでも思っていたのだろうか。

 そういった合理的判断もできずに感情的な訴えに走る。バカな女だとしか表現しようがない。

 国会は否応もなしに数(頭数)の世界となっている。尤も単に数を求めて得た数ではなく、基本的には政策の優位性を訴えて得た数の優位性であって、多くの場合、それが全てとなる。あるいは絶対となる。

 安倍晋三は第1次安倍内閣2006年9月26日成立2カ月前の2006年7月20日初版の自著『美しい国へ』の中で、「日米同盟の構図」という章に「“行使できない権利”集団的自衛権」と一節を設けて既に集団的自衛権行使の実現欲求を露わにしている。

 〈日本は1956年に国連に加盟したが、その国連憲章51条には「国連加盟国は個別的かつ集団的自衛権がある」ことが明記されている。集団的自衛権は個別的自衛権と同じく、世界でも国家が持つ自然の権利だと理解されているからだ。

 今の日本国憲法は、この国連憲章ができたあとにつくられた。日本も自然権としての集団的自衛権を有していると考えるのが当然であろう。権利を有していれば行使できると考える国際社会の通念のなかで、権利はあるが行使できない、とする論理が、果たしていつまで通用するだろうか。〉・・・・・・

 日本国憲法が集団的自衛権を認めている国連憲章ができたあとにつくられたからこそ、日本国憲法は過去の反省から、そのことを忌避して認めなかったと解釈することもできる。

 辻元清美は安倍政権の強行採決を非難する前に2012年12月の総選挙で民主党を大敗させ、自民党を大勝させて集団的自衛権行使の実現欲求を持った安倍政権を産み出し、数の絶対的な力を提供した鳩山・菅・野田の民主党政権の無能を最低限頭に入れておかなければならなかったろう。

 辻元清美は連立与党の一員として、後に民主党員として民主党政権に一枚加わっていたはずだ。いわば民主党敗戦に関わったA級戦犯の一人として名前を連ねていた。

 民主党政権の無能は2014年の総選挙にもその悪影響を長持ちさせて、再び国家主義者の安倍晋三を数の絶大な力を持たせて日本の政治の表舞台に立たせた。

 その一つの結末としての採決でもある。

 過去の連鎖としてある現在の場面であって、現在の場面が過去とは断ち切った単独の状態で突如として現れたわけではない。

 勿論、覆水盆に返らず。だが、相手に絶対的な数の力を与えている以上、同じような質問を続け、同じような答弁でかわされ、ほぼその繰返しであった国会審議に何か工夫することがなかったのだろうか。

 多くの憲法学者が集団的自衛権の行使は憲法違反だと言っている。対して安倍晋三を筆頭に政府・与党の面々は集団的自衛権行使は憲法9条に反するか反しないかを真正面に据えた裁判でもない砂川最高裁判決を日本国憲法は認めているとする根拠としている

 だとしたら、根拠の有効性・無効性に絞った審議を求めて徹底的に議論して、シロクロの決着をなぜつけなかったのだろう。

 また、国会審議以外に有効な打つ手はなかったのだろうか。

 多くの憲法学者のみならず、世論調査で半数を超える国民が集団的自衛権行使に否定的な態度を示している。

 違憲だとする国民の声が多い以上、その声の多さを根拠として、法案の成立が許されるかどうか、その賛否を唯一の争点とした解散・総選挙をなぜ求めなかったのだろう。

 選挙に例え勝てなくても、現在の安倍内閣の支持率と安保法案に関する国民の態度から自民党の議席をかなり減らすことができるはずだ。

 勿論、勝てなければ安倍政権の安保法制に正当性を与えることになるが、議席を減らし多分、その正当性は絶対的ではなくなり、相対化させることができる。

 例え選挙を行わなくても、既に触れたように数の力によって法案は法律として既成事実化し、その既成事実に則って世の中を動かしていくことになる。

 7月16日付の「asahi.com」記事が、首相に近い参院議員の「消費税や年金と違い、国民生活にすぐに直接の影響がない。法案が成立すれば国民は忘れる」との発言を伝えている。

 与党の議席を現在の状態で残したまま集団的自衛権を既成事実化させるのと減らして既成事実化させるのとでは、減らす数に応じて違いは大きくなる。

 だが、有効な手を何も打たなかった。辻元清美は特別委での採決という最後の最後の土壇場に至って自分たちが招いた与党の絶対的な頭数だと考えもせず、考えもしなかったからできたのだろう、感情に訴えるだけで何の役にも立たない「自民党感じ悪いよね」などと書いたプラカードを掲げて委員長を囲み、手を合わせて涙声で「お願いだから、やめて」と採決中止を懇願する、甘っちょろい考えの手しか打つことができなかった。

 全くバカな女だ。何となく民主党を代表しているようなアホ臭さしか感じることができない。

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NHKが7月15日安保法案最終審議中継せずは内閣支持率を今以上下げないよう自民党が圧力をかけたからか

2015-07-16 10:03:59 | 政治



      「生活の党と山本太郎となかまたち」

      《7月15日 小沢代表 緊急記者会見動画党HP掲載ご案内》  

     こんばんは、生活の党と山本太郎となかまたちです。
     小沢一郎代表は7月15日、政府与党の安保法案の強行採決を受けて開かれた5野党党首会談に参加
     した後、国会内で記者会見を行いました。

     小沢代表は、4野党(民主、維新、共産、社民)が16日の衆議院本会議の討論に参加するけれども
     、採決には5野党が欠席することで一致したと説明。

     我が党の対応については「あまりにも無責任でいいかげんな法案を成立させるべきでないという以上
     、採決を認めるわけにはいかない。討論は採決の一場面であり、討論参加は採決を認めることになる
     」と指摘し、我が党は衆議院本会議の採決だけでなく討論にも欠席すると述べました。

 NHKが15日の審議を中継しなかったのは自民党が圧力をかけたなどと、そんなことはあるはずはないと思う。だが、そうではないかと疑いたくなる。

 安倍晋三は衆院特別委員会での安全保障関連法案の審議が進むに連れ内閣支持率を下げてきた。そして野党が反対する中、予定していた衆院特別委での7月15日の採決の方針が迫る7月半ばの新聞各社の世論調査で支持率と不支持率が逆転した。

 法案の賛否、法案に関わる国民への説明を尽くしたかどうか、今国会での成立の是非、どれを取っても世論調査は反対、もしくは否定的回答が半数以上を占めた。

 政府・与党としては国民の反対を無視し、野党の反対を押し切って強行採決に走った場合の議場の混乱が安倍内閣支持率下降へと影響することを最小限にとどめるためにも、その混乱を少しでも国民の目から密室化したかったはずだ。

 そのためには国民が最終審議に目に触れる機会――いわば国会審議に関わる情報提供の機会を少なくしなければならない。その大きな機会の一つが地上放送ではNHKしか行っていない審議中継である。NHKが放送するときは普段は衆参の審議を午前中3時間、午後4持間、合計7時間放送している。国会審議に関しては国民が最も利用しやすい情報媒体であろう。

 昼間勤めに出ていても、テレビ録画しておいて、いつでも好きな時間に再生できる。

 もう一つの主な情報媒体は衆参両院のそれぞれのインターネット中継である。いつアクセスしてもパソコンで審議を最初から視聴できるし、衆議院の場合はその日の審議終了後何時間かして、質問者ごとの審議をパソコンにダウンロードでき、好きな時間に再生できる。

 但し後者はパソコンやスマホ等の端末利用者に限られていて、テレビ放送程には一般的な利用とはなっていないはずだ。パソコンを持っていても、NHKの審議中継を視聴しながら、パソコンで別の作業をすることもできるから、前者の利用範囲は広い。

 しかもNHKは国民の受信料で成り立っている公共放送である。

 にも関わらず、衆議院特別委員会での節目となる採決の中継を見送った。そのため衆議院のインターネット中継にアクセスが集中し、一時見られない状態になったと「asahi.com」が伝えている。

 朝日新聞がNHKと衆議院に取材している。

 NHK広報局「独自の編集・編成判断に基づいて国会中継を放送している。その際、国民的な関心が高い重要案件を扱う委員会の質疑であることや、各会派が一致して委員会の開催に合意することなどを適宜、総合的に判断している」

 衆議院広報課担当者「審議中継が見られなくなることはそうそうあることではない。重要な法案の審議で、NHKの中継がない、ということが重なった時に起きるが、今回はその典型例。今日の安保法制の審議は注目度が非常に高い」(以上同asahi.com

 NHKは中継の条件として「国民的な関心が高い重要案件を扱う委員会の質疑であること」と同時に「各会派が一致して委員会の開催に合意すること」を挙げているが、前者は国民の受信料で成り立っている公共放送という立場上から当然である国民の関心を第一義とした条件となっているが、後者は国民の関心を第一義とした条件とは別の、NHK自身が規定した条件となっていないだろうか。

 もしそうであるなら、国民の受信料で成り立っている公共放送という立場から国民の関心を第一義とした条件に基づいた放送を国民との契約としなければならないはずだが、その契約に反することになる。

 後者が国民の関心を第一義としているのではなく、NHK自身が規定した条件であることはNHK自身が7月10日から7月12日までの3日間行った世論調査が証明することになる。

 「安倍内閣が、集団的自衛権の行使容認を含む安全保障法制の整備を進めていることを評価するか」

 「大いに評価する」8%
 「ある程度評価する」24%
 「あまり評価しない」31%
 「まったく評価しない」30%

 「集団的自衛権の行使を可能にすることなどを盛り込んだ安全保障関連法案を今の国会で成立させるという政府・与党の方針について」

 「賛成」18%
 「反対」44%
 「どちらともいえない」32%

 「安全保障関連法案について、これまでの国会審議で議論は尽くされたと思うか」

 「尽くされた」8%
 「尽くされていない」56%
 「どちらともいえない」28%

 「『安全保障関連法案は憲法違反だ』という指摘があるのに対し、『憲法違反ではない』としている政府の説明に納得できるかどうか」

 「大いに納得できる」4%
 「ある程度納得できる」20%
 「あまり納得できない」37%
 「まったく納得できない」29%・・・・・・

 かくかように国民世論は他の新聞やテレビの世論調査同様に安保法制関連法案に関連する安倍政権の各対応に否定的評価を下しているのである。

 当然、国民の関心は安倍政権が各対応を進めることができるか、逆に阻止できるかに集中していたはずであり、世論調査から見て、阻止できるかどうかの採決により多くの関心が集中していたと見なければならない。

 と言うことなら、国民から見た場合、「各会派が一致して委員会の開催に合意すること」という条件は国民の関心に則り、国民の関心を第一義として規定した条件とは決して言えないということであり、あるいは野党が委員会の開催に反対して各会派一致の委員会開催の合意を見ないことの方が安倍政権の安保法制関連法案に否定的評価を下しているより多くの国民世論にとっては委員会開催中止の力となることへの期待として国民の関心はそこに逆に集中することもあるだろうから、「各会派が一致して委員会の開催に合意」はNHK自身が国民の関心とは無関係に自分たちで決めた条件に過ぎないと言わざるを得ない。

 NHKは国民の受信料で成り立っている公共放送でありながら、「国民的な関心が高い重要案件を扱う委員会の質疑である」にも関わらず、国民の関心とは無関係に自分たちが規定した条件を用いて中継を行わなかった。

 その理由を考えるとしたら、安倍政権がNHKの経営委員に自身に近い右翼の人脈の中から送り込んだばかりか、安倍晋三と歴史認識を同じくする籾井勝人を国会人事でありながら、数の力を以てしてNHK会長に据えたこと、2014年12月14日の総選挙前の11月20日、安倍晋三の側近である「自由民主党 筆頭副幹事長 萩生田光一/報道局長 福井照」の差出し人名で在京テレビキー局の編成局長、報道局長宛てに番組報道の公平・公正・中立を求める口実の文書を送って、報道の自由を牽制したこと、安倍シンパの中に「マスコミを懲らしめるには、広告料収入がなくなるのが一番」だといった言論の自由・報道の自由を無視する体質の政治家を飼っていること、安倍晋三自身がかつてNHKの従軍慰安婦に関係する放送に政治家の意志を忖度させる圧力をかけていること等を考えると、最初に指摘したように衆院特別委員会での安全保障関連法案の審議が進むに連れ内閣支持率が下降線を辿り、ついには支持率と不支持率が逆転したため、多くの国民世論が否定的評価を下している法案の国民の反対を無視し、野党の反対を押し切って強行採決に走った場合の議場の混乱を安倍内閣支持率下降への影響を最小限にとどめるために国民の目から密室化させようと安倍晋三と歴史認識を一致させている籾井勝人が会長を務めているNHKに籾井勝人なりを使って中継中止に持っていったのではないかと疑いたくなる。

 もしこの疑いが事実に反した下衆の勘ぐりに過ぎないとしたら、NHKは国民の受信料で成り立っている公共放送という立場上国民の関心を第一義とした条件に基づいた放送を国民との契約としなければならないはずだから、果たして「各会派が一致して委員会の開催に合意すること」が国民の関心を第一義とした国会審議中継放送の条件であるかどうかを言葉で誤魔化すのではなく、誰もが納得できるように的確に証明しなければならないはずだ。

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安倍晋三の安保法制泥棒戸締まり論の単細胞・合理的判断能力の欠如

2015-07-15 08:27:26 | 政治



      「生活の党と山本太郎となかまたち」

     《 7月14日 小沢代表、山本代表記者会見動画 党HP掲載ご案内》

     こんばんは、生活の党と山本太郎となかまたちです。
     小沢一郎代表と山本太郎代表は7月14日、国会内で記者会見を行い、安保法案の採決問題、廃案方
     法、新国立競技場問題などに関する質問に答えました。安保法案の廃案方策について問われた
     小沢代表は、「国民の応援を受けて野党が不信任案連発を覚悟すれば、1週間や10日は審議できず、
     安保法案(成立)を阻止できる」と明言した。

      《7月15日(水)小沢一郎代表のテレビ出演ご案内》    
  
     こんにちは、生活の党と山本太郎となかまたちです。
     小沢一郎代表がBSフジ『ブラマヨ談話室~ニッポン、どうかしてるぜ!』に出演します。
     是非ご覧ください!

     ◆番組名:BSフジ『ブラマヨ談話室~ニッポン、どうかしてるぜ!』
     ◆日 時:平成27年7月15日(水)午後11:00~11:55
     ◆内 容:「夏だ!小沢一郎登場1時間SP」衆議院議員・生活の党代表の小沢一郎に日本の「景気動
      向」、「選挙システム」を問う。

     番組の詳細 

 大方の世論調査で安倍内閣の集団的自衛権行使容認等の安全保障法制整備に対して国民の半数以上が否定的評価をしていて、その関連法案の今国会での成立を狙う政府・与党の方針についても半数以上が否定的評価を示し、今国会での審議が十分に尽くされたと思うかについての評価についても半数以上が否定的で、安全保障関連法案が憲法違反ではないとしている政府の説明に対する評価にしても、半数以上が否定的であることから、今日7月15日の衆議院特別委員会で強行採決に踏み切郎としていることも関係しているのだろう、安倍晋三は自由民主党本部1階の喫茶店にある特設スタジオのインターネット生放送に出演、ニコニコ生放送で放送されたという。

 但し総視聴者数は初日の7月6日が1万2825人、3日目の7月8日が1万760人と、盛り上がる方向とは逆の下降方向を辿ったというから、最近の世論調査でも自民党支持率が30%を超えていることからすると、政府関係者や自民党支持者の間でもそっぽを向いた者が大勢いたということなのだろうか。

 インターネット生放送の直接的な視聴者が少なくても、新聞・テレビが取り上げて記事にしてくれれば、その方がより多くの国民の目・耳に触れることができると考えていたのかもしれない。

 7月7日夜の発言。

 安倍晋三「(集団的自衛権行使容認について)友達のアソウさんと一緒に帰り、3人ぐらい不良が出てきて、いきなりアソウさんに殴りかかった。私もアソウさんを守る。今度の法制でできることだ。

 (強盗に入られたスガさんのケースを設定)家まで行って助けることはできない」(産経ニュース

 スガさんのケースに関して、〈首相自身(=日本)に危機が迫っていないため、集団的自衛権の発動要件である存立危機事態には該当しないという論理だ。〉と記事は解説している。

 7月13日夜の発言。

 安倍晋三「(安全保障関連法案は)決して戦争をするための法律ではなく、全く逆だ。もし外国から攻められた時に、国民の命を守るための備えだ。戸締まりをしている家に泥棒が入らないように、備えをしていることによって事前に戦争を防ぐことができる」(NHK NEWS WEB

 安全保障法案戸締まり論である。しかしこれは日本が侵略を受けないよう(泥棒が入らないよう)前以てそれ相応の軍事的措置を取ることのできる法的裏付けを用意しておく(戸締まりをしておく)ということで、その法的裏付け(安保法案)は国民各個人が戸締まりをするという比喩からすると、専守防衛を内容とすることになる。 

 しかし7月7日夜の発言では強盗に入られたスガさんのケースを持ち出しているが、泥棒戸締まり論は戸締まりをしっかりしておけば泥棒に入られないとしていることと矛盾することになる。

 それとも、戸締まりをしておけば泥棒には入られないが、強盗には入られることもあるということだとしたら、「備えをしていることによって事前に戦争を防ぐことができる」としている専守防衛抑止論そのものを自ら否定することになって、論理矛盾を犯していることになる。

 大体が例え国連憲章第7章第51条で、「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が必要な措置をとるまでの間、加盟国は個別的・集団的自衛権を行使できる。加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない」と規定していようと、日本は独立国家として日本国憲法第2章「戦争放棄」第9条で武力の不行使を謳い、戦力の不保持と交戦権の否認を謳っている以上、そのことに反して一内閣が国民の承認を得ないで集団的自衛権行使を一般法を裏付けとする憲法解釈変更で行おうとしていることについて、「友達のアソウさんと一緒に帰り、3人ぐらい不良が出てきて、いきなりアソウさんに殴りかかった。私もアソウさんを守る」といった単純な喩えに代えることができるだろうか。

 単純な喩えに代えて国民の理解を得ることができると考えること自体があまりにも単細胞――合理的判断能力を欠いていて、こういった単細胞・合理的判断能力欠如者の安倍晋三を一国のリーダーとして日本の安全保障を安心して任すことができるだろうか。

 答は否であろう。国家主義者・軍国主義者・戦前の日本の戦争を正当化する歴史修正主義者・天皇主義者であって、当然、軍事的血合いを色濃くした政治思想の持ち主と見なければならない。これまでの言動から各国への人道支援を積極的に行って平和主義者を装う一方で日本の世界に対する軍事的関与を積極的に進めて、経済大国だけであることに飽き足らずに軍事大国としての地位を高めようとするはずである。

 その積極性がアメリカのアフガン戦争やイラク戦争が予想もしなかったテロの跳梁跋扈という鬼子を生み出したように何らかの国家的危険を生み出さない保証はない。

 万が一生み出した場合、安倍晋三がその責任を首相辞任や解散で取ったとしても、一内閣による憲法解釈を根拠とした軍事行動という経緯が経緯だけに国民は納得するだろうか。
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安倍政権の2020年東京オリンピックメイン会場新国立競技場建設に関わる責任転嫁が始まっている

2015-07-14 09:11:26 | 政治



      「生活の党と山本太郎となかまた ち」

      《7月15日(水)小沢一郎代表のテレビ出演ご案内》    
  
     こんにちは、生活の党と山本太郎となかまたちです。
     小沢一郎代表がBSフジ『ブラマヨ談話室~ニッポン、どうかしてるぜ!』に出演します。
     是非ご覧ください!

     ◆番組名:BSフジ『ブラマヨ談話室~ニッポン、どうかしてるぜ!』
     ◆日 時:平成27年7月15日(水)午後11:00~11:55
     ◆内 容:「夏だ!小沢一郎登場1時間SP」衆議院議員・生活の党代表の小沢一郎に日本の「景気動
      向」、「選挙システム」を問う。

     番組の詳細 

 2020年東京オリンピック向けメイン会場となる新国立競技場の当初1300億円の予定建設費が2500億円に膨らむ計算になって、安倍政権の民主党政権への責任転嫁が始めっている。

 7月10日衆議院の特別委員会。

 安倍晋三「民主党政権時代にイラク人の女性建築家のデザイン案が決まり、これでオリンピックを招致すると決まった。その後、検討を重ねていくなかで、確かに費用がかさみ、変えることが可能か、検討しているところだが、工期として可能かということも当然ある。私も率直に、『どうなんだ』ということも、繰り返し、事務方にも投げかけてきた」(NHK NEWS WEB

 デザイン案が決まったのは確かに民主党政権時代、野田政権時だが、「これでオリンピックを招致する」と決めたのは安倍政権である。まるで野田政権自体が決まったデザインでオリンピック招致を決めたかのような言い方となっていて、責任転嫁も甚だしい。

 麻生太郎「建設費用が決まった経緯がよく分からない。(2012年当時の)野田内閣に聞いてください。政権交代のときに渡されただけで、我々は額も知らされていなかった」(毎日jp

 イラク生まれ、イギリス在住の女性建築家ザハ・ハディド女史の案が日本の新国立競技場のコンペ(国際デザイン・コンクール)で最優秀賞に決定したのは2012年11月16日。 

 奇しくも野田首相が安倍晋三の挑発に乗って勝てる要素のない選挙に乗り出すための解散を決行した日である。戦前、日本が勝てる要素のない対米戦争に乗り出したように。

 そして民主党は2012年12月16日投開票の総選挙で大敗し、野田内閣は同2012年12月26日に総辞職。安倍政権が同2012年12月26日に発足している。

 言ってみれば野田政権がザハ・ハディド女史の新国立競技場デザインに関わったのは1カ月余しかない。

 日本スポーツ振興センター(JSC)が新国立競技場国際デザイン・コンクールの手続き開始公告を出した2012年7月20日から関わったと見たとしても、5カ月しか関わっていない。

 また、前政権の政策、あるいは決定事項を引き継ぐか引き継がないかを決定するのは次政権の責任行為である。

 2006年3月8日、東京都議会でオリンピック開催招致を決議。自民党政権下の2007年9月13日、東京は2016年夏季オリンピック開催地に立候補。2009年9月16日発足の民主党政権鳩山由紀夫内閣時の2009年10月2日のデンマーク首都コペンハーゲンで開催のIOC総会は開催都市をブラジルのリオデジャネイロに決定、東京は2回目の投票で落選している。

 東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会が安倍政権下の2013年1月7日、14項目から成る立候補ファイルを国際オリンピック委員会(IOC)本部(ローザンヌ)へ提出。 

 そして2013年9月7日にアルゼンチンの首都ブエノスアイレスで開催のIOC総会で安倍晋三と当時の猪瀬都知事の大盤振舞いのプレゼンテーションが功を奏して、東京開催を獲得した。

 猪瀬都知事はブエノスアイレス総会前の5月にロシア・サンクトペテルブルクで行われた国際スポーツ会議では東京都が積み立てた開催準備基金が4000億円に上る経済的強みを身ぶり手ぶりを交えて強調、「キャッシュ・イン・ザ・バンク(現金なら銀行にある)」と豪語したとネット上には記録されている。

 2020年オリンピック東京開催に関して言うと、新国立競技場のデザインにしても、前政権の政策、あるいは決定事項を引き継ぐか引き継がないかを決定するのは次政権の責任行為である以上、国が関与する政策や予算等の全ては安倍政権の責任事項であって、民主党政権に関係しない。

 特にメイン会場となる新国立競技場のデザインを引き継ぐと決定して以降の新国立競技場に関わる責任は安倍政権が全面的に負わなければならない。

 それを新国立競技場のデザインと予算に関しては民主党政権に責任があるかのように言う。 

 問題はコストを確認せずにデザインを決定した疑惑が浮上していることである。

 7月10日の閣議後の記者会見。

 下村博文「(当初予定した総工費の)1300億円がデザインする人に伝わっていたか。値段は値段、デザインはデザインということならば、ずさんだったことになる」(毎日jp

 《特集:「東京オリンピック」からの問い──2020年の都市計画は可能か》10+1 web site/2013.12)によると、このコンペはデザイン・コンペで、設計コンペではないという指摘が記されている。   

 確かに正式名称は独立行政法人日本スポー ツ振興センター主催の「新国立競技場 国際デザイン・コンクール」となっている。

 但し審査委員長の建築家安藤忠雄氏は7月11日放送の日本テレビ「ウェークアップ!ぷらす」に寄せた「安藤忠雄建築研究所」名のファクスによるコメントで建設予算1300億円を条件として提示していたと証言している。

 安藤忠雄氏「コンペの与条件としての予算は1300億円であり、応募者も認識しています。提出物には建築コストについても示すように求められていました。それは当然評価の一つの指標となりました」(スポーツ報知

 記事は辛坊治郎の話として安藤氏の発言を伝えている。

 安藤忠雄氏の発言「デザイン決定後の基本設計や実施設計には、審査委員会はかかわっていない。

 辛坊ちゃん、何でこんなに(建設費が)増えてるのか、分からへんねん!」

 要するに応募要項に建設費1300億円以内の条件を出し、その条件で応募したものとして最優秀賞を決定した。その1300億円があくまでもイギリス在住の建築家の頭にあるイギリスの工事単価を基準としたものである可能性等は一切考慮もせず、世界的にも高いと言われている日本の工事単価で1300億円内に実際に収まるのか設計事務所か建設会社の見積りによる検証もせずに最優秀賞にしたことになる。

 だとしても、東日本大震災の復興公共事業とさらに安倍政権の公共事業に偏った景気回復策によって資材の高騰と人出不足による人件費高騰を受けた工事費の高騰、これらを背景とした公共工事の入札不調・不落が日本全国で発生、このことが工事単価高騰に更に拍車をかけてきたのだから、安倍政権はその時々で建設費の検証を行わなければならなかったはずだ。

 当然、麻生太郎の「我々は額も知らされていなかった」という弁解は通用するはずもない。通用させようとしたら、飛んでもない連中だ。

 こう見てくると、独立行政法人日本スポー ツ振興センター主催の「新国立競技場 国際デザイン・コンクール」があくまでもデザインコンクールであって、設計コンクールでなかったとしたら、当然安藤忠雄氏が言うように「デザイン決定後の基本設計や実施設計には、審査委員会はかかわっていない」とする主張は正当性を持つことになり、最優秀賞に決定したデザインが実際に130億円の建設費で収まるのか、その顕彰の責任は独立行政法人日本スポー ツ振興センターが負うことになるはずだから、その検証を行わなかった独立行政法人日本スポー ツ振興センターの責任と、安倍政権が2020年夏季オリンピック東京誘致に成功してそのデザインを引き継ぐ際、その建設費がどの程度高騰しているか検証しなかった責任は大きいはずである。

 だが、自らの責任の大きさを認めずに民主党政権への責任転嫁で自身の責任を凌ごうとしている。安倍晋三らしいといえば、安倍晋三らしいと言うことができる。

 独立行政法人日本スポー ツ振興センターのデザイン応募に関して国民向けの鼓舞なのか、次のような謳い文句が並べてある。

 「いちばん」をつくろう。

 日本を変えたい、と思う。新しい日本をつくりたい、と思う。

 もう一度、上を向いて生きる国に。

 そのために、シンボルが必要だ。

 日本人みんなが誇りに思い、応援したくなるような。

 世界中の人が一度は行ってみたいと願うような。

 世界史に、その名を刻むような。世界一楽しい場所をつくろう。

 それが、まったく新しく生まれ変わる国立競技場だ。

 世界最高のパフォーマンス。世界最高のキャパシティ。

 世界最高のホスピタリティ。

 そのスタジアムは、日本にある。

 「いちばん」のスタジアムをゴールイメージにする。

 だから、創り方も新しくなくてはならない。

 私たちは、新しい国立競技場のデザイン・コンクールの実施を世界に向けて発表した。

 そのプロセスには、市民誰もが参加できるようにしたい。

 専門家と一緒に、ほんとに、みんなでつくりあげていく。「建物」ではなく「コミュニケーション」。

 そう。まるで、日本中を巻き込む「祝祭」のように。

 この国に世界の中心をつくろう。

 スポーツと文化の力で。

 そして、なにより、日本中のみんなの力で。

 世界で「いちばん」のものをつくろう。・・・・・・・・・・・

 謳い文句は立派でも、どこかやることが抜けていたなら、様にはならない。ドタバタだけが目立つメーン会場建設と安倍政権の騒動となっている。
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安倍晋三の先の大戦に対する「痛切な反省」は相対化の海に呑み込ませて一般性・時代性を装わせたマジック

2015-07-13 08:40:50 | 政治



      「生活の党と山本太郎となかまた ち」

      《7月15日(水)小沢一郎代表のテレビ出演ご案内》    
  
     こんにちは、生活の党と山本太郎となかまたちです。
     小沢一郎代表がBSフジ『ブラマヨ談話室~ニッポン、どうかしてるぜ!』に出演します。
     是非ご覧ください!

     ◆番組名:BSフジ『ブラマヨ談話室~ニッポン、どうかしてるぜ!』
     ◆日 時:平成27年7月15日(水)午後11:00~11:55
     ◆内 容:「夏だ!小沢一郎登場1時間SP」衆議院議員・生活の党代表の小沢一郎に日本の「景気動
      向」、「選挙システム」を問う。

     番組の詳細 

 安倍晋三が7月9日(2015年)米ワシントンDCにある超党派のシンクタンク米戦略国際問題研究所(CSIS)が都内で開催した「20世紀のグローバル・ヒストリーの省察―21世紀の新しいビジョンに向かって」で演説したのに対して日本のマスコミは今年4月の米議会上下両院合同会議での演説と同様に先の大戦に対して「痛切な反省」に言及したと伝えた。

 そして70年談話について「反省の意」盛り込む意向だが、謝罪は見送る方向だと伝えている。

 反省はするが、謝罪は見送るとはどういうことなのだろう。反省の対象である「先の戦争」に対する安倍晋三自身の反省が形式的だから可能となる謝罪の見送りという相互対応を取らなければ、一方のみということにはならないはずだ。

 反省が心の底からのものであったなら、自ずと謝罪が伴う。謝罪という行為をそこに置かなければ、逆に自分を責めることになるだろう。

 だが、安倍晋三は自分を責めることにならないから謝罪を見送ることができ、当然、反省にしてもその程度の謝罪に対応しているはずだから、形式的という姿を取っていると見なければならない。

 CSISが都内で開催した「20世紀のグローバル・ヒストリーの省察―21世紀の新しいビジョンに向かって」で安倍晋三が述べた先の大戦に対する「痛切な反省」が形式的に過ぎないことは日本の戦争を20世紀の他の出来事と並べて相対化の海に沈めて一般性、あるいは時代性の姿を装わせているところに現れている。

 つまり20世紀という時代では日本の戦争は他の出来事と同様に一般的であったし、時代的なものであったという性格を装わせている。そういった性格を装わせた日本の戦争に対する「痛切な反省」なのだから、日本の戦争そのものに対する直接的な反省となるはずはなく、20世紀という時代をワンクッションとして置いた反省となるから、その分、自ずと形式的とならざるを得ない。

 「相対化」という言葉の意味は他の(同類の)ものと比べてそれを位置づけることとネット上に解説されているが、例を挙げると、自身の殺人行為を似たような殺人、あるいはより残虐な殺人を持ち出して、自らの殺人の残虐性を一般化させたり、比較化させることも相対化作用に入る。

 では、CSISでの安倍晋三の「反省」に触れた個所を《首相官邸HP》から見てみる。  

 安倍晋三「20世紀の人類の歩んだ歴史には、『光』と『影』があります。『影』とは、二度にわたる世界大戦を始めとする幾多の戦争、革命、紛争や暴力、自由・思想の統制などの人権蹂躙、大恐慌とブロック経済化、他民族による支配、そして人種差別でした。また、男女差別、公害と環境破壊等の問題も、大きな『影』の部分でした。しかし、20世紀のとりわけ後半には、人類の歴史に『光』が戻り始めます。人類の理性は、自らの過ちを正すことを通じて、人類の社会に道徳的な成熟をもたらしてくれます。私たちが汲み取った普遍的な教訓とは、次のようなものだと思います。

 『武力を背景に、他国を恫喝してはいけない。』、『他国に暴力を振るってはいけない。』、『他国の同意なく、領土を変更してはいけない。』、『他民族を支配したり、隷属させてはならない。』、『人には、皆、天賦の人権がある。』、『人間、一人一人の尊厳を大切にしなくてはならない。』、『性別、人種、宗教等により、人を差別してはならない。』、『男性も、女性も、全く同じ価値を持つ。』、『自由な商業と貿易を妨げてはいけない。』、『自然環境を美しいまま、次世代に渡さなければいけない。』

 これらが、20世紀から人類が学んだ普遍的な教訓です。戦後、我が国は先の大戦に対する痛切な反省の上に立ち、一貫して平和国家として歩んできました。そして、奇跡と言われた経済発展を成し遂げ、アジアを始めとする世界の国々と共に繁栄してきました」(以上)

 安倍晋三は20世紀という時代の「光と影」の「影」の出来事として2度の世界大戦や人権蹂躙、他民族支配、人種差別等々を並べ立てて、これらが20世紀という時代に特有な「影」であったとする相対化のマジックを先ず用いて、用いることでそういった「影」に一般性・時代性を装わせた上で、「影」から学んだ教訓、「武力を背景に、他国を恫喝してはいけない」とか、「性別、人種、宗教等により、人を差別してはならない」とか、「男性も、女性も、全く同じ価値を持つ」とか、「光」とすべきだが、未だ到達せず、21世紀の今日に於いても存在する「影」を並べて、日本の戦争を遙かな彼方のものとする相対化の海になお呑み込ませて、21世紀の時代も続いている一般性・時代性の中にどっぷりと沈めた上で、「痛切な反省」に触れるが、その「反省」たるや、あくまでも戦後平和国家として歩んできた動機の位置づけに置いた「反省」に過ぎない。

 決して日本の戦争に面と向かった「反省」とはなっていない。

 20世紀という時代と21世紀の時代も続く数々の「負」の出来事の一つとする相対化のマジックを用いて人間営為の一般性・時代性とした日本の戦争に対する、しかも戦後日本の歩みの動機に位置づけた「痛切な反省」に過ぎないのだから、心の底からの反省であるはずはなく、形式も形式、口先だけのニセモノの「痛切な反省」と見なければならない。

 日本の戦争に対する「痛切な反省」が一般性・時代性を装わせた形式に過ぎないニセモノである以上、「安倍晋三戦後70年談話」にしても、何をどう言おうと、同程度のニセモノ性を装わせた歴史認識の表明で終わることは間違いはない。
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岩手県矢巾町教育長の教育関係者らしからぬイジメに関わる愚かな認識とイジメアンケートの形骸化の防止方法

2015-07-12 10:46:20 | 教育



      「生活の党と山本太郎となかまた ち」

      《7月15日(水)小沢一郎代表のテレビ出演ご案内》    
  
     こんにちは、生活の党と山本太郎となかまたちです。
     小沢一郎代表がBSフジ『ブラマヨ談話室~ニッポン、どうかしてるぜ!』に出演します。
     是非ご覧ください!

     ◆番組名:BSフジ『ブラマヨ談話室~ニッポン、どうかしてるぜ!』
     ◆日 時:平成27年7月15日(水)午後11:00~11:55
     ◆内 容:「夏だ!小沢一郎登場1時間SP」衆議院議員・生活の党代表の小沢一郎に日本の「景気動
      向」、「選挙システム」を問う。

     番組の詳細 

      《7月7日 小沢一郎代表記者会見要旨・党HP掲載ご案内》    
 
     【質疑要旨】
     ○安保法案の強行採決について
     ○安保法案審議について
     ○自民党の安保政策の変質について
     ○川内原発の核燃料搬入について
     ○保守本流政治について
     ○自民党の変節について
     ○リニア鉄道、新国立競技場の財源問題について
     ○橋下大阪市長の「関西維新の会」設立発言について
     ○小林節慶応大名誉教授との合同街頭演説企画について

     《YMF全国研修会「森ゆうこと語る会」を開催お知らせ》    

     参加フリー・会費:2千円・申し込み《森ゆうこ公式サイト》 

     日時:8月8日(土) 13:30開場 開会14:00~16:30
     場所: 丸の内トラストタワーN館11階 会議室
     定員:150名(定員に達し次第〆切とさせて頂きます。)

     14:00開会宣言 森ゆうこ挨拶
     14:15小林 節慶應義塾大学名誉教授講演
     15:15森・小林トーク対談(質疑応答あり)
     16:30閉会

 岩手県矢巾町の中学2年男子生徒のイジメを受けた電車飛び込み自殺でマスコミが次々と新しい事実を炙り出している。自殺した生徒に対するイジメの兆候が1年生のときから明らかになっていながら、学校が解決につながる対策を打ってこなかった事実である。

 生徒は2年生になってから生徒が担任に相談し、担任が相談に乗る交換日記形式の「生活記録ノート」にイジメの事実と自殺を匂わせる記述を残していたが、一度は生徒と生徒をイジメている生徒との三者面談を持ちながら、結局のところ根本的な解決につながる努力を怠った。

 この「生活記録ノート」は1年生のときもそのときの担任と遣り取りしていて、そこに昨年春からイジメを窺わせる記述があったと、7月11日付け「YOMIURI ONLINE」記事が伝えている。

 「(別の生徒から)何回も『死ね』って言われる」

 「まるでいじめられるような気分でいやです」(2014年5月1日)

 「先生にはいじめの多い人の名前をおしえましょう。もうげんかいです」(2014年7月15日)

 生徒は昨年秋、「(別の生徒から)わざと体をぶつけられたりして困っている」と家族に打ち明け、父親が学校に相談、関係する生徒を交えて当時の担任らで話し合いの場を設けた。

 だが、「生活記録ノート」に「先生どうか助けてください」などの記述が続いた。

 1年生の時からイジメを受け、それが2年生になっても継続していた。

 ここから浮かんでくるのは孤立した状況に立たされている生徒の姿であり、生徒を孤立した状況に立たせたまま、解決に向けて何ら奔走しない教師たちの姿である。

 いわば1年2年と「生活記録ノート」にイジメの存在を記し、特に2年の「生活記録ノート」には自殺を窺わせる記述がありながら、教師の誰もが生徒の命に対する危機感を持たなかった。

 ブログに何度か書いていることだが、生命(いのち)とは心臓を動かし、血液が流れて、歩いたり、食べたり、眠ったり等々の物理的な身体動作のみの状態を言うのではなく、精神的に健全に生きて在る状態――健全な精神的存在性までを含めて生命(いのち)と言う。

 イジメは身体的と精神的と両面の生命(いのち)に同時に作用し、損ない、歪め、非人間的状態に貶めていく。

 いわばイジメは身体的にも精神的にも健全であるべき存在性、健全であるべき人間性を奪う。当たり前の人間であることを許さない。当たり前の喜怒哀楽の感情の発露を歪め、抑圧する。

 こういった生徒の諸々の生命(いのち)に対して何ら危機感を募らせることはなかった。

 記事は、〈学校から町教委に対してイジメの有無を伝える報告が昨年度から今年6月末現在までゼロだった〉いう事実まで伝えているが、これを偽装と受け取るか、少なくとも自殺した生徒に関して1年生のときも2年生のときもそれぞれの担任とイジメに関わった生徒とが面談しているものの、事実ゼロと思ってしたことと受け取るかである。

 偽装と受け取ると、町教委が7月10日の記者会見で「いじめの認知がゼロであることが、(いじめ防止の)成果という意識が教委や学校にあった」と発言したそうだが、成果を偽装するために認知ゼロの偽装を対応させたことになって、生徒それぞれの日々の在り様=それぞれの生命(いのち)の在り様を考慮の外に置いた偽装ということになる。

 考慮の外に置くことができるのは生徒それぞれの日々の在り様=それぞれの生命(いのち)の在り様に何ら危機感を持っていなからできる考慮外の措置であろう。

 事実ゼロと思ってした報告だとすると、やはり敏感に対応すべき生徒それぞれの日々の在り様=それぞれの生命(いのち)の在り様に敏感に対応できない危機感のなさだけが浮かび上がってくることになる。

 前者・後者いずれであっても、教育者の態度とは倒錯したそれぞれの対応であることは間違いない。

 矢巾町教育委員会の教育長が7月10日記者会見している。

 越秀敏教育長「(因果関係について)最終的には第三者委員会が結論を出すと考えている。(自殺した生徒に)手を差し伸べられなかった。ただただお詫びするほかない。

 (2年担任が自身を混じえて一度はイジメられていた生徒とイジメ側の生徒と面談したことについて)(イジメは)一旦収まったが、その後も続いていたと推測される」(時事ドットコム

 「ただただお詫びするほかない」の自殺生徒に対する深い謝罪は学校側や町教委側の責任を深く認識していて初めて心からの謝罪となり得る。

 責任を感じない者の謝罪が心からのもの足り得るはずはない。

 「一旦収まったが、その後も続いていた」と言っていることはイジメ側の生徒とイジメられる側の生徒の問題としている一方、他方に於いて1年生のときも2年生のときも面談していることから、それぞれの担任のみならず学校自体が経過観察を怠っていたということを意味していて、生徒一人の命を失わせた学校全体のその怠慢の責任は償いきれない程に大きいはずである。

 だが、教育長の発言は学校側の経過観察の怠慢を認識していない、単に生徒たちの問題とする認識に立った表面的な事実経過を述べるのみで、それでおしまいにしている。

 教育長も教育関係者である以上、「一旦収まったが、その後も続いていた」と言っている自身の言葉が何を意味することになるのか的確に認識しなければならないはずで、生徒たちの問題とするのみならず、学校側の経過観察の怠慢とその責任への言及と、学校側から町教委にいくら報告がなかったとはいえ、監督責任はあるのだから、町教委の責任にまで言及があって初めて「一旦収まったが、その後も続いていた」という言葉を口に出す資格が出てくることになるが、その言及がない以上、自殺した生徒に対する「ただただお詫びするほかない」の深い謝罪は形式的であることから免れることはできない。

 教育長の発言に現れたこのような認識不足も生徒それぞれの日々の在り様=それぞれの生命(いのち)の在り様に日々さしたる危機感を持っていないことが原因となっているはずである。

 もしそのような危機感を持っていたらと逆のことを考えると、十分に理解できる。

 また、そのような危機感の不在・欠如がまた、「生活記録ノート」やアンケートの形骸化・儀式化を招いている原因であろう。イジメを訴える言葉やイジメを目撃した言葉が記述されていても、愚痴や不満程度に受け止めて、言葉だけの対応を見せたからこその深刻さの見落としであろう。

 あるいはいじめ防止の成果とするために、例えイジメの兆候があったとしても、どうにかなるだろうと高を括って、イジメ認知をゼロと偽装した報告をする。 
 
 特にアンケートが文科省通知「いじめ防止基本方針」に基づいて毎年度5、11、2月の計3回実施するイジメ問題に特定した調査である以上、生徒一人ひとりの生きて在る存在性に関係していながら、形骸化・儀式化するというのは教育という使命に真っ向から反する許されないことでありながら、使命を忘れて形骸化・儀式化させている。

 単にイジメを見たことがあるか見なかったかを書かせるのではなく、イジメとはどういう行為なのか、担任とクラスの生徒が議論し合って、生徒それぞれにイジメに関わる自身の認識を持たせた上でアンケートに取り掛かるべきだろう。

 そのためには大河内清輝くんいじめ自殺事件や類似のその他の事件を教材としてイジメから自殺に至る経緯を学び合うことも必要になり、そこからイジメという行為の何たるかを生徒なりの判断で認識化、もしくは概念化していき、自分なりに獲得した認識、あるいは概念に基づいてアンケートに向き合えば、イジメを見た・見ないの単なる事実の伝達を超えて、イジメというものが如何なる行為であるかを考えながらの記述となり、それだけ学びの部分が加わって、生徒にしても形骸化・儀式化のキッカケとなる機械的記述を避けることができるようになる。

 学びの場に居合わせた教師にしても、生徒の記述をテストの答案に対するように疎かにはできなくなり、そのような対応が形骸化・儀式化を防ぐ手立てとなるはずである。

 生徒がそれぞれに得意な勉強や運動を自己の活躍行為とするのと同じくイジメはそのことを自己の活躍行為とする。イジメと勉強や運動との違う点はイジメの対象とする生徒に対して自己を精神的にも身体的にも優越的な上の位置に導き(一人で無理なら、多数を組むことによってそのように謀る)、その上下の力関係を利用して下の位置に置いた者を様々な手を使ってイジメる、いわば自分の思い通りに相手の行為や感情・人格を支配する権力行為を行う。

 イジメにしても学校という生活の場で自己を活躍させる自己活躍行為としているる以上、一般的な生徒が学校社会で好きな勉強や好きなスポーツ、あるいは好きな趣味を武器に自己活躍を通して自己実現を確立しようとしているのと同じくイジメる生徒はイジメによって自己実現を確立しようとしていることになる。

 そして自己実現を果たし得たとき、それは自己という人間の存在証明となる。

 学校社会でイジメで自己実現を図り、その自己実現を自己存在証明にするという存在性の構造は表面的なそれ自体は他の構造と同じであっても、イジメられる生徒の健全であるべき身体的・精神的存在性を否定して損ない、歪め、ときには抹殺してしまう点で他の構造とは大きく違って、決して許されない。

 「生活記録ノート」やアンケートの形骸化・儀式化を防ぐためにはこういったことを学んでから取り掛かるべきだろう。 
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