安倍晋三の先の大戦に対する「痛切な反省」は相対化の海に呑み込ませて一般性・時代性を装わせたマジック

2015-07-13 08:40:50 | 政治



      「生活の党と山本太郎となかまた ち」

      《7月15日(水)小沢一郎代表のテレビ出演ご案内》    
  
     こんにちは、生活の党と山本太郎となかまたちです。
     小沢一郎代表がBSフジ『ブラマヨ談話室~ニッポン、どうかしてるぜ!』に出演します。
     是非ご覧ください!

     ◆番組名:BSフジ『ブラマヨ談話室~ニッポン、どうかしてるぜ!』
     ◆日 時:平成27年7月15日(水)午後11:00~11:55
     ◆内 容:「夏だ!小沢一郎登場1時間SP」衆議院議員・生活の党代表の小沢一郎に日本の「景気動
      向」、「選挙システム」を問う。

     番組の詳細 

 安倍晋三が7月9日(2015年)米ワシントンDCにある超党派のシンクタンク米戦略国際問題研究所(CSIS)が都内で開催した「20世紀のグローバル・ヒストリーの省察―21世紀の新しいビジョンに向かって」で演説したのに対して日本のマスコミは今年4月の米議会上下両院合同会議での演説と同様に先の大戦に対して「痛切な反省」に言及したと伝えた。

 そして70年談話について「反省の意」盛り込む意向だが、謝罪は見送る方向だと伝えている。

 反省はするが、謝罪は見送るとはどういうことなのだろう。反省の対象である「先の戦争」に対する安倍晋三自身の反省が形式的だから可能となる謝罪の見送りという相互対応を取らなければ、一方のみということにはならないはずだ。

 反省が心の底からのものであったなら、自ずと謝罪が伴う。謝罪という行為をそこに置かなければ、逆に自分を責めることになるだろう。

 だが、安倍晋三は自分を責めることにならないから謝罪を見送ることができ、当然、反省にしてもその程度の謝罪に対応しているはずだから、形式的という姿を取っていると見なければならない。

 CSISが都内で開催した「20世紀のグローバル・ヒストリーの省察―21世紀の新しいビジョンに向かって」で安倍晋三が述べた先の大戦に対する「痛切な反省」が形式的に過ぎないことは日本の戦争を20世紀の他の出来事と並べて相対化の海に沈めて一般性、あるいは時代性の姿を装わせているところに現れている。

 つまり20世紀という時代では日本の戦争は他の出来事と同様に一般的であったし、時代的なものであったという性格を装わせている。そういった性格を装わせた日本の戦争に対する「痛切な反省」なのだから、日本の戦争そのものに対する直接的な反省となるはずはなく、20世紀という時代をワンクッションとして置いた反省となるから、その分、自ずと形式的とならざるを得ない。

 「相対化」という言葉の意味は他の(同類の)ものと比べてそれを位置づけることとネット上に解説されているが、例を挙げると、自身の殺人行為を似たような殺人、あるいはより残虐な殺人を持ち出して、自らの殺人の残虐性を一般化させたり、比較化させることも相対化作用に入る。

 では、CSISでの安倍晋三の「反省」に触れた個所を《首相官邸HP》から見てみる。  

 安倍晋三「20世紀の人類の歩んだ歴史には、『光』と『影』があります。『影』とは、二度にわたる世界大戦を始めとする幾多の戦争、革命、紛争や暴力、自由・思想の統制などの人権蹂躙、大恐慌とブロック経済化、他民族による支配、そして人種差別でした。また、男女差別、公害と環境破壊等の問題も、大きな『影』の部分でした。しかし、20世紀のとりわけ後半には、人類の歴史に『光』が戻り始めます。人類の理性は、自らの過ちを正すことを通じて、人類の社会に道徳的な成熟をもたらしてくれます。私たちが汲み取った普遍的な教訓とは、次のようなものだと思います。

 『武力を背景に、他国を恫喝してはいけない。』、『他国に暴力を振るってはいけない。』、『他国の同意なく、領土を変更してはいけない。』、『他民族を支配したり、隷属させてはならない。』、『人には、皆、天賦の人権がある。』、『人間、一人一人の尊厳を大切にしなくてはならない。』、『性別、人種、宗教等により、人を差別してはならない。』、『男性も、女性も、全く同じ価値を持つ。』、『自由な商業と貿易を妨げてはいけない。』、『自然環境を美しいまま、次世代に渡さなければいけない。』

 これらが、20世紀から人類が学んだ普遍的な教訓です。戦後、我が国は先の大戦に対する痛切な反省の上に立ち、一貫して平和国家として歩んできました。そして、奇跡と言われた経済発展を成し遂げ、アジアを始めとする世界の国々と共に繁栄してきました」(以上)

 安倍晋三は20世紀という時代の「光と影」の「影」の出来事として2度の世界大戦や人権蹂躙、他民族支配、人種差別等々を並べ立てて、これらが20世紀という時代に特有な「影」であったとする相対化のマジックを先ず用いて、用いることでそういった「影」に一般性・時代性を装わせた上で、「影」から学んだ教訓、「武力を背景に、他国を恫喝してはいけない」とか、「性別、人種、宗教等により、人を差別してはならない」とか、「男性も、女性も、全く同じ価値を持つ」とか、「光」とすべきだが、未だ到達せず、21世紀の今日に於いても存在する「影」を並べて、日本の戦争を遙かな彼方のものとする相対化の海になお呑み込ませて、21世紀の時代も続いている一般性・時代性の中にどっぷりと沈めた上で、「痛切な反省」に触れるが、その「反省」たるや、あくまでも戦後平和国家として歩んできた動機の位置づけに置いた「反省」に過ぎない。

 決して日本の戦争に面と向かった「反省」とはなっていない。

 20世紀という時代と21世紀の時代も続く数々の「負」の出来事の一つとする相対化のマジックを用いて人間営為の一般性・時代性とした日本の戦争に対する、しかも戦後日本の歩みの動機に位置づけた「痛切な反省」に過ぎないのだから、心の底からの反省であるはずはなく、形式も形式、口先だけのニセモノの「痛切な反省」と見なければならない。

 日本の戦争に対する「痛切な反省」が一般性・時代性を装わせた形式に過ぎないニセモノである以上、「安倍晋三戦後70年談話」にしても、何をどう言おうと、同程度のニセモノ性を装わせた歴史認識の表明で終わることは間違いはない。
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