菅首相のインターネット動画出演で分かったこと/改革者ではなく、解説者だということ(1)

2011-01-09 10:04:56 | Weblog


 この記事内容は題名と離れているが、おいおいその姿を提示したいと思う。

 昨日のブログに1昨日7日(2011年1月)に菅首相が「プレスクラブ - ビデオニュース・ドットコム インターネット放送局」の動画に出演したことを新聞記事をソース元に書いたが、改めて動画にアクセスしてみた。1時間24分50秒の長さに亘る全部を文字化する根気=集中力を年齢の関係か、既に失せているので、部分的に切り取って理解できたことを記事にしてみたいと思う。

 日を改めて視聴するつもりでいるが、全部視聴し終えていないために、視聴した範囲の発言に対する解釈に違いが生じる場合があったときは、これも日を改めて訂正させてもらうことにする。

 出演者は菅首相に「プレスクラブ - ビデオニュース・ドットコム」の神保哲生代表、それに社会学者の宮台真司氏の3人。

 菅首相が主客ではなく、宮台氏が主客で、アリストテレスやマックスウエーバーを持ち出して、政治とはこうあるべきだと滔々と菅首相に説教を垂れていて、どちらかというと宮台氏の独壇場の観があった。但しその多くは割愛し、焦点を影薄い菅首相に当てることにした。

 日本の総理大臣がインターネット動画に出演するのは初めてのことだそうだ、この出演は菅首相のほうから持ちかけたものと分かる。

 最初に神保氏が内閣総理大臣がインターネット動画に出ることの重大さを認識されているかと尋ねると、野党時代の代表のときや一議員のときも出演しているし、総理大臣になったからといって、特に自分の気持は変わらない、「多少動きにくいということは、そういう意味じゃありますが、SPさんがつくとか、色々なことがありますが、気持はあんまり変わらないですね」と相変わらず聞いてもいないことをニコニコしながら答えていた。

 活字情報が滅びることはないにしても、殆んど場所を選ばずに手軽にアクセス可能なインターネットが活字情報に取って代わって優勢な位置を占めるのではないかと言われているこの時代状況下に時の総理大臣が、例えたいしたことのペイペイの総理大臣ではあっても、日本初となる出演はある意味歴史的な出来事であり、どう受け止めるのか聞いた。

 菅首相は後で言っているように一般的なマスコミが菅首相が望まない一部分を切り取って情報発信すると常に批判しているが、自宅にいないとなかなか見ることができない記者会見のテレビ中継を除いて(最近では国会質疑をインターネット動画で同時中継しているが)、新聞やテレビ報道等のマスコミを仲介させて情報を授受するのではなく、携帯電話を持ち、電波の届く範囲なら、いつどこでも簡単にアクセス可能となる、あるいは勤務先のパソコンを通じて都合のよい時間にアクセス可能となり、国民自身がマスコミに代ってより手軽に直接的に情報に触れ、自分自身の判断と解釈で自らの情報とする機会を持つことになっているのである。

 当然、ただでさえ総理大臣と野党の代表、あるいは一議員とでは発言の責任の重みが違い、重みに応じて反響も違ってくるのだから、インターネットを介した国民の直接的な情報授受に与える影響にそのまま連動することになる。

 このようなことを考えた場合、野党の代表として、あるいは一議員として出たときと変わらない、SPがついている分「多少動きにくい」と答えることが果して合理的な判断に基づいた答と言えるだろうか。

 この一事を以てしても、的確な判断能力に欠ける政治家だと分かる。

 次に菅首相は神保代表が言ったインターネット放送に引っ掛けて、新聞・テレビのマスコミが首相自身が望まない形で部分的に切り取って情報発信する不公平さを批判している。

 菅首相「インターネット放送と言うよりも、この間、特に国会開会中はかなりタイトな時間で、自分で発信することはなかなかできないですよね。ま、確かに、あの、私自身は映ったりしてるんですが、かなり自分の中でギャップがあったんです。

 つまり、自分としてはここが重要だから、例えば本会議場でこういうことを言っているとか、委員会でこう言ってるとか、という思いがあるのですが、その部分は殆んど放送されないで、まあ、言葉は激しいけれども、それ程内容的には重要と思われないようなところを、特に政局と絡むようなところをですね、エー、どんどん流れていくと、エー、なかなか自分の思いが伝わらないという、そういう感じが強かったんです。

 それで昨年の11月頃から、あの、カンフルTV とか、カンフルブログというものをつくって、まあ、自ら始めたんですが、あの、一般のテレビ番組にでもですね、あの、少し出ようと、そして、あの、インターネットのこの番組にも出してもらって、あのー、出来るだけ、私として何を考えて、また、私として何をやっているのか、あの、生の私の姿をですね、もっと伝えたいと、ま、そう思って、今日出させて貰いました」

 国会開会中は姿は映っても、「自分で発信することはなかなかできない」と自分に都合がいいだけの自分勝手なことを言っている。例えそれが政局絡みの論争であっても、単純に写真として菅首相の姿が映るのではなく、菅首相自身の答弁を通して誠実か不誠実かといった人柄、的確か不的確かの判断能力まで映し出され、国民がインターネット動画を携帯電話やパソコンを通して、あるいはNHKの中継を通じて、あるいは新聞・テレビを通じて情報として受け止め、自らの解釈を通して自らの情報としている。

 そのことが理解できずにマスコミを批判するのは責任転嫁以外の何ものでもないというだけではなく、この程度の判断能力、この程度の責任意識で一国の総理大臣を務めている滑稽な事実を問題としなければならなくなる。

 ここで神保代表は、メディアだけの問題なのか、政権側が必要なことを発信してきたのかと政権側の発信能力を問題とするが、自分の姿は映っているが、自分が望む情報発信をマスコミは応えていないと責任転嫁するような男だから、聞く耳は持たずの判断能力を欠いた自説を押し通す。

 大体がカンフルTV やカンフルブログが発する情報すべてが正しい情報だ、国民が受け入れてくれると価値づけ、国民によっては諾否が分かれると考えない性善説は合理的判断能力を激しく疑わせる。

 菅首相「例えば臨時国会の冒頭のあの所信表明で、私はこの20年間ですね、本来やらなければいけないことで先送りされてきた問題が、大きく言って五つ政策課題があると。それは経済の成長が止まっている。あるいは財政が非常に厳しくなっている。社会保障が収支(?)の安定が危なくなっている。それに加えて、地方主権の問題と、外交の問題と、五つの問題を所信表明で言ったんです。できればそれを中心に与野党に議論をしてもらいたいとも言ったんですが、残念ながら国会の場では、そういう私の問題提起を、まあ、野党のみなさんもなかなか乗ってくれなかったし、そういう問題提起していること自体が殆んど報道としてはならなかった。

 ですから、勿論、こちらの発信力の弱さというか、そういう問題はありますけども、そういうことは必ずしも本会議、委員会で言っているからといっても、あの、それを選択するのはメディアのみなさんなんです。

 ま、敢えて言えば、あの、私に反省があるとすればですね、やはりもっとこの、時間をですね、非常に拘束のない(ママ)委員会が多かったんですが、もっと時間を自分で使えるようにして、で、色んな場所に出て行って、そして現場の人間と話をするとか、ということを通してですね、もっと積極的に、あの、発信する。それをやることが必要だなと、まあ、あの、12月の3日に国会を終わってからはかなり、それに務めているところです」

 神保代表からメディアだけの問題なのかと指摘されながら、自らを省みる自省心を働かせもせず、自身の情報発信能力欠如のマスメディア責任転嫁論が固定観念化しているのだろう、頑強に守り続けた。
  
 そして「できればそれを中心に与野党に議論をしてもらいたいとも言ったんですが、残念ながら国会の場では、そういう私の問題提起を、まあ、野党のみなさんもなかなか乗ってくれなかったし、そういう問題提起していること自体が殆んど報道としてはならなかった」と言っているが、これはマスコミの問題でも何でもなく菅首相自身の指導力の問題である。問題提起は誰でもできる。提起した問題を自らの指導力によって具体化し、望んだとおりの議論を展開させることができたなら、報道もそれに従う。展開したとおりの議論を報ずるしかない。

 また、マスコミを味方につけるには先ず国民を味方につけければならない。国民の支持があれば、例えねじれ国会という不利な状況下にあったとしても、問題提起は実現に有利な条件を獲得するはずである。

 このことは公明党の民主党に示している態度を見ればわかる。支持率が高かったなら、民主党と連立を組む姿勢だったが、あまりにも支持率が低いために、共倒れとなる恐れから、あるいは支持者から批判を受ける恐れから、結果として距離を置いて対決する姿勢を取っている。

 こういった状況分析すらできないから、マスコミ責任転嫁論を恋々と繰り広げることになっている。自分には何も悪いところはないとばかりに妄信して。大体が責任転嫁者であること自体が既に改革者の姿を失っていることを示す。

 菅首相は一応は「こちらの発信力の弱さというか、そういう問題はありますけども」と言っているが、ここで実際に問題となっていることは自身の指導力欠如が生み出している問題提起の非実現であって、発信力とは関係ないことなのだから、神保代表が政権側の発信力にも問題があるのではないかと指摘した手前の口先だけ言った体裁に過ぎないだろう。全体の文脈はあくまでもマスコミ責任転嫁論となっている。

 このことは次の発言も証明している。「私に反省があるとすればですね」と反省の対象を自身の発信力の程度、発信能力に置くのではなく、それとは無関係の、野党の追及を受けることのない外の世界に出て自身の発言と態度を発信する機会を増やすことに置いている。

 外の世界からの情報発信だとしても、これとて一般的にはマスコミを通じた情報提供となるのだから、菅首相の望みどおりとなる保証はない。朝鮮有事の際に拉致被害者救出に自衛隊機が出て行って、韓国を通って行動できないか韓国と取り決めたいなどと何の準備も議論もなく、その場の雰囲気で不用意に発言したことがマスコミばかりか、インターネットやツイッターで叩かれた例もある。

 こういったことまで広く考えることができずに色んな場所に出ていって発言すればすべてうまくいくと思っている楽観主義にしても、やはり一国の指導者にはふさわしくない極めて合理的判断能力に関係することであり、色んな場所の一つとして菅首相はインターネット動画に出演することによって多くの国民に自らの判断能力の程度、その劣りをマスコミを通して間接的にだけではなく、直接的にも情報伝達したのである。

 当然、インターネット動画に出演することが総理大臣と代表、一議員の場合と変わりはない、SPがつくから多少窮屈になるなどとノー天気なことは言ってはいられないし、また自身の支持率の低さをマスコミ報道に責任転嫁などしていられないのだが、現実の菅首相の姿は情けないながら一国の首相でありながら、そうはなっていない。

 指導力にしても政権担当能力にして合理的判断能力なくして成り立たない。あらゆる状況に対して合理的な判断ができなければ、間違った行動を取り、間違った発言を繰返すことになる。指導力など生れようがないし、政権担当能力に結びつきようがない。さらにそのような人間に解説者の姿を演じることはできても、改革者の姿は取りようがない。それが現在の菅首相の姿である。


 菅首相インターネット動画出演記事は何篇か続く予定。

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