珍しくもない「所得隠し」事件なのだが、大企業とか有名人がやらかすと、マスコミの格好のネタとなる。今回は落語家9代目林家正蔵こと、元「林家こぶ平」のご登場と言うことになった。「読売新聞」のインターネット記事。
<落語家でタレントの林家正蔵氏(44)(本名・海老名泰孝)が2005年、九代目「正蔵」を襲名した際、支援者らからもらった祝儀の一部を税務申告せず、約2400万円の所得隠しを東京国税局から指摘されていたことが分かった。
このほか単純な経理ミスなどもあり、所得隠しを含む申告漏れの総額は同年までの3年間で約1億2000万円に上り、重加算税を含め所得税など約4200万円を追徴課税された。>(≪林家正蔵氏、襲名時祝儀など2400万所得隠し…国税指摘)07.4.16/ 14:45/)――
昨16日(07年4月)の夕方6時ごろからのTBS・イブニングニュースが羽田空港から成田線の駅へなのか、向かう林家正蔵を摑まえてぶら下がりインタビューを(と言うよりも、付き纏いインタビューと言うべきかな?)行った模様を伝えていた。
「当時の税務申告はどうなっていたのか」と言う男性記者の質問に、林家正蔵「当時色々とバタバタと、襲名披露のこととか、ネタのこととか、ご挨拶回りで、あまり詳しくタッチしていないので――」
記者「襲名披露パーティ等でですね、あの、その受け取った、あの祝儀(しゅうぎぃ)――」
林家正蔵「それも、スタッフの者がやってて、当時人数が少なかったので、私個人の、あまりに、存じ上げていないんですよ」
記者「あのー一言だけ。まあ、あの、応援されている方も多いと思うんですけども、その方たちに、まあ――」
林家正蔵「2005年のことで、今どうしてこう・・・、お話・・・。全部済んでいることなんで・・・。ご心配おかけしました、ハイ」
男性解説「正蔵さんの税理士は見解の相違があったが、修正申告した。祝儀袋は意図的に隠したものではないとのコメントしています」――
「あまり詳しくタッチしていないので――」と言うことは、取りあえずは「タッチしてい」たということになる。
同「読売」インターネット記事は、<関係者によると、パーティーや興行では、出席者や支援者から祝儀が贈られるのがならわしで、1人から数百万円もらうこともあったという。芸能人などがもらう祝儀は「事業所得」にあたり、申告しなければならないが、林家氏側は、パーティーの欠席者からあとで届けられた祝儀を隠していたほか、各地の興行でもらった祝儀のほとんどを申告しなかった。祝儀袋をその場で捨てたり、自宅に保管したりしており、同国税局から悪質な所得隠しと認定されたという。>
そして<事務所は家族で運営してい>て、<林家氏の事務所は取材に対し、「単純なミスで収入に漏れが生じたが、意図的な所得隠しはなかった。税務当局と見解の相違はあったが、修正申告は済ませた」としている。>と報じている。
「税務当局と見解の相違」と「修正申告は済ませた」は所得隠しした者の常套句となっている。いわば意図的な所得隠しではなく、経理操作に於ける「見解の相違」が生じせしめた「単純なミス」からの税漏れであり、「修正申告」によって既に問題解決した。もはや残された問題はないのだから、晴天白日なのだということなのだろう。
だが、そういった意図に反して、東京新聞のインターネット記事(2007年4月16日 夕刊/東京新聞)は、<このうち、申告しなかった祝儀の一部を含む約二千二百万円については、仮装隠ぺいを伴う悪質な経理処理(いわゆる所得隠し)に課される重加算税の対象と認定されたもようだ。>と伝えている。
この記事から窺えることは、国税当局の言う「所得隠し」とは、計画的意図的行為を指していて、決して「見解の相違」で生じるような簡単な事柄ではないと言うことであり、所得隠しした者が言う「見解の相違」とは、松岡農水相の事務所経費を「適切に公開している」と同じく、本人が言っているだけのことということになる。
そのことは「日テレ24」のインターネット記事(24/4/16 15:36)が証明している。<自宅の地下倉庫からは、05年の襲名披露の際に受け取った祝儀袋が大量に見つかった。>
「地下倉庫」という特別な場所自体が計画性と意図性を窺わせて余りあるが、「大量に見つかった」と言うことは、本人がありましたと自分から申し出るわけはないだろうから、国税側も単なる税務調査ではなく、手を入れた、家宅捜索したということだろう。国税当局側か「見解の相違」と受け取られかねない程度のことで家宅捜索までしないに違いない。このことからも、「見解の相違」は本人が言っているだけのことということになる。
今朝の「朝日」(≪1億2000万円申告漏れ「どーもすみません」≫/07.4.17)の最後に<取材に応じた正蔵さんは「父の代からお金のことは大まかでいいという部分があった。昔ながらの体質でやってきたことはよくなかった。家族みんなで反省し、今後はきちんとしていきたい」と話している。>と出ているが、これも言い逃れに過ぎない。税理士までついているのである、「お金のことは大まかでいい」から、納める税金まで「大まかでいいという」ことには決してならない。いわゆる〝税金〟を普段生活や遊興に使う「お金」と混同させる巧妙な〝粉飾〟を行って、自己正当化を図っている。
「家族みんなで反省し、今後はきちんとしていきたい」と言っているが、読売記事の<事務所は家族で運営してい>るという報道を考え併せると、会社ぐるみならぬ、〝家族ぐるみ〟の意図的な所得隠し(「仮装隠ぺいを伴う悪質な経理処理」/東京新聞)と疑えないこともない。
記憶と言う点では、既に言ったことで、まあ、よくあることだし、「修正申告は済ませた」のだから、そのうちほとぼりが冷めて忘れられていくだろうが、正蔵こと元「こぶ平」が「父の代から」と父親の林家三平の性格が影響した家の「体質」を持ち出している。とすると、エッセイストとであり、その関係からだろう、「教育再生会議有識者」に名前を連ねている母親である海老名香葉子の普段から世間に発しているに違いない立派な主義・主張は家の「体質」づくりに何ら影響はなかったということなのだろうか。
<事務所は家族で運営してい>るというものの、母親がその「運営」に関わっていたかどうかは不明だが、関わっていたとしたなら、世間に向けた顔とは別の顔を隠していたことになって、エッセイストとであり、「教育再生会議有識者」のメンバーの一人という点から、非常にまずいことになる。いや、彼女が置かれている立場から考えて、「運営」に関わっていたなどという世間に対する裏切り行為は決してなかったに違いない。
それでも、エッセイスト・「教育再生会議有識者」という点から、44歳という分別を十二分に弁えていていい年齢の息子の現在の生き方にいい方向に影響があっていい母親の存在性に反する事態だと言う問題は残る。
いわば、所得隠しに関わっていたとして、関わっていなかったとしても、彼女が世間に発している情報(=主義・主張)の有効性に避けがたく関わってくる。
昨06年の12月11日に『ガキ大将の役割に見るいじめ理論の非合理性』なる記事を当ブログに載せたが、その中で発したエッセイスト・「教育再生会議有識者」の海老名香葉子の主張から、その言葉の有効性を改めて検証しなければならない。
06年12月3日 日曜日の「テレビ朝日」の「サンデーモーニング」で行われた「教育」をテーマとしたコーナーでの議論を取り上げた記事であったが、携帯電話がつくり出し可能としている匿名性を利用して、最近のいじめが陰湿化しているという話題に対して、彼女は次のように言っている。
――海老名香葉子「そういう姑息な遣り方をする子どもに育ててしまったということ、そこまでいってしまったということは親の責任です。昔は子どもの中でもガキ大将がいました。それでちゃんと差配していました。それで楽しく遊ばせました。それで社会でもそうでしたけど、そういう陰湿な(メールするような)ことはしなかったんですよ。チャンバラだって、正義の味方は勝つ。悪い奴は負ける。そういう教え方で――」
司会の田原総一郎が遮って、「ヤンキー先生がおっしゃるように、今日の被害者が明日の加害者と、昨日の被害者が今日の――、どんどん変わってしまった。ガキ大将がいなくなった。どうしたらいい?」
海老名「ですから、元に戻さなくちゃ。親の教育です。親がもっと、もう一度子育てについて検討しなくちゃいけないと思います」――
彼女は「親の教育」の大切さを強調し、子育ては「親の責任」だと言い切っている。その自信たっぷりな断定した物言いから、「親の責任」・「親の教育」が子育てのキーワードとして如何に重要か、そのことに対する強い思いが伝わってくる。子供の存在性は親の存在性によって決定する。
所得隠しなどと「いう姑息な遣り方をする子どもに育ててしまったということ、そこまでいってしまったということは親の責任です。」
この場合の「親」とは、海老名香葉子自身のことなのは断るまでもない。彼女はエッセイストとしても、「教育再生会議有識者」のメンバーとしても公人である。自分が世間に向けて発した言葉の「責任」は世間に対して取らなければならない。いや、安倍晋三、松岡某を筆頭として「責任」を取らない政治家・官僚、企業人がゴマンといるのだから、そういったムジナ公人たちから較べたら、罪は軽い方か。
◆「わが国の憲法として守るべき価値に関して」
「新憲法は、国民主権・平和主義・基本的人権の尊重という三原則など現憲法の良いところ、すなわち人類普遍の価値を発展させつつ、現憲法の制定時に占領政策を優先した結果置き去りにされた歴史、伝統、文化に根ざしたわが国固有の価値(すなわち『国柄』)や、日本人が元来有してきた道徳心など健全な常識に基づいたものでなければならない。同時に、日本国、日本人のアイデンティティを憲法の中に見出すことができるものでなければならない。」
――「歴史、伝統、文化に根ざしたわが国固有の価値(すなわち『国柄』)」は常に正と負の2面を有している。正だけの「歴史、伝統、文化」は存在しない。それをさも正だけの「歴史、伝統、文化」とすると、無誤謬な民族、即ち日本民族優越意識に化ける。
公正な価格を操作し、特定利益者だけが利益を分け合う談合も、カネで有利な取引を図るワイロも、日本の「歴史」として受け継ぎ、日本の「伝統」であり、「文化」であった。
ワイロが「歴史」に「根ざしたわが国固有の価値(すなわち『国柄』)」なのは、次の八代将軍徳川吉宗が編纂を計画・推進した<公事方御定書>を見れば一目瞭然である。
賄賂差し出し候者御仕置の事
一、公事諸願其外請負事等に付て、賄賂差し出し候もの並に
取持いたし候もの 軽追放
但し賄賂請け候もの其品相返し、申し出るにおいてハ、
賄賂差し出し候者並に取持いたし候もの共ニ、村役人ニ
侯ハバ役儀取上げ、平百姓ニ候ハバ過料申し付くべき事
かつて、談合は江戸時代以来の日本の美風だと開き直ったゼネコン幹部がいたが、談合とは、それを行う者たちがよりよく生活するため・よりよく食うための方法であろう。上は武士から下は百姓まで、すべての人間が談合の恩恵を受けて洩れることなくよりよく生活し、よりよく食えたというなら、談合は確かに美風であったろう。
だが、江戸の現実社会は食えなくて田畑を捨て、村を捨てて、江戸に流れていく百姓が跡を絶たず、そのような人口増加が江戸の治安悪化を招いて、人返しの法をこしらえて強制的に村に返すといったことをどの時代でも行っていた。食えなくて、娘を女郎に売る百姓は全国的に存在していた。
社会全体の恩恵となっていない慣習は決して時代の美風とは言えない。それどころか、一部の人間が談合等で利益を独占することからの貧富の格差である。開き直り、歴史を歪曲するのも、日本の美風・「文化」なのだろう。また、「歴史、伝統、文化に根ざしたわが国固有の価値(すなわち『国柄』)」は常に正と負の2面を有していることからして、常に「健全な常識に基づいた」「道徳心」を「日本人が元来有してきた」とは決して断言できない。
戦前の侵略戦争行為を見れば、一目瞭然であるが、さらに遡って、同じく江戸時代の年貢徴収に関わる代官・その他役人の百姓に対するワイロの強要や、年貢米を掠め取って私腹し贅沢する役得行為と称する乞食行為に対応する、現在の官僚・役人・警察官の予算の掠め取り、裏金づくりして飲み食いする乞食行為は、日本の「歴史、伝統、文化」の力学でつながっている日本人の姿・国の姿であり、「健全な常識に基づいた」「道徳心」を「元来有してきた」とは決して言えないことの有力証拠となるものであろう。
現代日本の政治性を表現する金権政治という言葉があるが、江戸時代の政治もワイロによって動き、金権政治を政治の「文化」としていたことが知られているが、そのことも、日本人が「健全な常識に基づいた」「道徳心」を「元来有してきた」わけではないことの証明となる有力事例である。
いわば、「日本人が元来有してきた道徳心」云々といった、人間の現実を知らない人間だけが言える自国民に対する綺麗事・美化は、事実に反しないならいいが、事実に反することによって日本人全体を、つまり日本民族自体を優秀であるとする日本民族絶対性への発露となる。
このことも一歩誤ったなら、日本型集団主義・権威主義の強権独裁化へのベクトルとして働きかねない衝動の抱えとしてあるものである。
当然、そのような自己民族を優秀・絶対だとする民族意識のベクトル(=突出)は、憲法が兼ね備えた国際関係に向けた広域性・求めるべき普遍性を自ら抹消する矛盾行為となって現れる。
永田町政治と言われる現在の日本の政治「文化」からして、「歴史、伝統、文化に根ざしたわが国固有の価値(すなわち『国柄』)」だとは断言できても、「健全な常識に基づいた」「道徳心」に裏打ちされた国の姿(=「国柄」)だとは言えない。
◆「安全保障の分野に関して」
「新憲法には、国際情勢の冷徹な分析に基づき、わが国の独立と安全をどのように確保するかという明確なビジョンがなければならない。同時に、新憲法は、わが国が、自由と民主主義という価値を同じくする諸国家と協働して、国際平和に積極的能動的に貢献する国家であることを内外に宣言するようなものでなければならない。
さらに、このような国際平和への貢献を行う際には、他者の生命・尊厳を尊重し、公正な社会の形成に貢献するという『公共』の基本的考え方を国際関係にも広げ、憲法においてどこまで規定すべきかを議論する必要があると考える。」
――現憲法前文の「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」と併せて、<自由と権利>のグローバル化を謳うものと解釈する。経済のグローバル化で、経済強国のみが経済的利益を恣にするのではなく、また民主国家のみが<自由と権利>を享受するのではなく、「全世界の国民」が経済的利益と共に<自由と権利>をより公平に享受できるよう、世界を構築していく義務の受諾と考える。
対話外交による問題解決は理想ではあるが、国民の犠牲の上に権力の座に胡坐をかき、自己権力に固執する独裁者には、理想は通じないものとして、武力による解決も選択肢として用意しておかなければならない。経済のグローバル化で世界の国々と比較して、より突出して経済的利益を受けている日本が、<自由と権利>のグローバル化に関しては、危険や犠牲はお断りでは、もはや通用しない。
いわば経済的利益だけ受ければいいというわけにはいかない。<自由と権利>の回復・獲得、民主主義の回復・獲得のために、人命の犠牲を伴う戦闘行為も分担すべきである。
従って、
「自衛のための戦力の保持を明記すること。」
「個別的・集団的自衛権の行使に関する規定を盛り込むべきである。」
――とする自民党の憲法改正案には賛成する。
但し、東南アジア各国にとって、日本の再軍国主義化への懸念材料の重要な一つを形成し、日本を信用できない象徴的行為に位置付けているA級戦犯の合祀の廃止と、追悼兵士を英霊としてではなく、国の侵略戦争政策加担者であると同時に侵略戦争政策の犠牲者であるとの新たな位置づけを行い(侵略戦争は国家権力と軍部と国民の共同制作だからである)、国の政策とその結果(=国の運命)は国民一人一人が自らの判断で決定し、選択することの反面教師とする。その線に沿った教育を徹底させることとする。
当然従来どおりの総理大臣・国会議員の靖国参拝形式は変化することになる。
多かれ少なかれ、どのような形のものであっても、解放されたときの北朝鮮に治安維持のために自衛隊を派遣させなければならなくなる。そのとき、人道支援だけで、武器は最小限の所持などと言ってはいられない。北朝鮮国民は国民性としては日本人と近親関係にあるから、外国軍の駐留に対して、イラク人みたいに部族権利や宗派権利をむき出しにせず、戦前の日本人のように去勢された如くに従順であろうが、例え金正日支持勢力がテロ攻撃に出たとしても、それに対抗しうる武器と反撃意志を準備した派遣でなければ、既に日本国土を超えて、ミサイルを撃ち込み、その時点で、日本の国家主権と国土保全の問題となっている関係からして、一国平和主義・自分勝手と取られることになる。
「国の防衛及び非常事態における国民の協力義務を設けるべきである。」
――設けたとしても、戦前の<非常時>に役得の私腹行為に走ったのは、一般国民ではなく、そうすることのできた上位に位置する権力層である。そうした人間の私利私欲行為を律する文言も必要になる。
◆「基本的人権の分野に関して」
「新しい時代に対応する新しい権利をしっかりと書き込むべきである。同時に、権利・自由と表裏一体をなす義務・責任や国の責務についても、共生社会の実現に向けての公と私の役割分担という観点から、新憲法にしっかりと位置づけるべきである。」
――「基本的人権」が生きた思想となったのは戦後であり、「公」は「基本的人権」が死んでいた時代の、あるいは存在していなかった時代の、それに対応する価値としてあったものであり、日本型集団主義・権威主義の力学を誘導して個人を統括させる機能を果たしたことを忘れてはならない。
しかもこれまで見てきたように、「歴史、伝統、文化に根ざしたわが国固有の価値(すなわち『国柄』)」を最も明瞭に表現しているとも言える日本の政治家・官僚の金権体質・乞食体質によって「公」なるものが信用できない胡散臭い価値と化している。日本型集団主義・権威主義の意識を極力薄め、世界的普遍性を持たせるためにも、「公と私」は、
<社会と個人>、あるいは<国と国民>と表現すべきである。
◆「統治機構について」
「国家とは何であるか」 「憲法の意義を明らかにするべきである。すなわち、これまでは、ともすれば、憲法とは『国家権力を制限するために国民が突きつけた規範である』ということのみを強調する論調が目立っていたように思われるが、今後、憲法改正を進めるに当たっては、憲法とは、そのような権力制限規範にとどまるものではなく、『国民の利益ひいては国益を守り、増進させるために公私の役割分担を定め、国家と国民とが協力し合いながら共生社会をつくることを定めたルール』としての側面を持つものであることをアピールしていくことが重要である。さらに、このような憲法の法的な側面ばかりではなく、憲法という国の基本法が国民の行為規範として機能し、国民の精神(ものの考え方)に与える影響についても考慮に入れながら、議論を続けていく必要があると考える。」
――憲法が国際関係法を兼ねた国家存在の基本法であるとする考えに立つと、国際的に共通し、普遍とし得る理念にとどめるべきである。「国民の行為規範」といった事細かな規定は憲法の役目ではない。<自由と権利>の理念を基本原則として、あくまでも自ら考えて、自らの責任で行動する自律性に任せるべきである。それが社会の法律に触れた場合、
先に触れたように、刑法・民法、その他の法律・条例で律するべきである。
「国民の行為規範」とし、「国民の精神(ものの考え方)」に影響を与えようと意志すること自体、個人を上に従わせる集団主義・権威主義の網に絡め取り、自律性・主体性を抹殺する働きをするものである。
日本人がなかなかに抜け出せないでいる上下双方向の人間関係としてある、上の、下を従わせる・下の、上に従う集団主義・権威主義衝動を改めるためにも、自律性(自立性)の涵養をこそ優先させるべきである。
◆「天 皇」
「政教分離」
「政教分離規定(現憲法20条3項)を、わが国の歴史と伝統を踏まえたものにすべきである。」
「天皇の祭祀等の行為を『公的行為』と位置づける明文の規定を置くべきである。」
――「わが国の歴史と伝統を踏まえたもの」であっても、思想・信教の自由の保障に抵触する。「『公的行為』と位置づける」べきではない。
「わが国の歴史と伝統」、あるいはわが国の「文化」が常に一定の姿をしているわけではないのは既に述べた。今後とも、一定の姿を見せるとは限らない。正と負の両面を避けがたく抱え持ち、今後も抱え持つ。
そのことに反して、「わが国の歴史と伝統を踏まえたもの」とする考えは、繰返しになるが、「わが国の歴史と伝統」を絶対善とする前提に立つ。日本型集団主義・権威主義の強権独裁化につながりかねない日本民族の絶対化に他ならない。
憲法が国際関係法を兼ねる関係からも、「わが国の歴史と伝統」を絶対善とする日本民族の絶対化は前面に出すべきではない。矛盾を犯すことになる。
現前文にあるように、日本が「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたい」といった、国際的に指導的位置に立つ意志を持っていなければそれでもいいが、そのような意志を持つことと、絶対善の姿を見せるわけではない「わが国の歴史と伝統を踏まえ」ることとは、円滑な国際関係構築への矛盾した態度となって現れ、そのことへの阻害要因となる。
必要なのは「わが国の歴史と伝統・文化」を超える民族意識からの脱却と、構築すべき<自由と権利>の世界を舞台とする新たな思想ではないだろうか。大体が民族・文化への固執・拘泥が武力衝突の原因となっている世界なのである。それを超える時が来ているのではないか。
◆「今後の議論の方向性」
「連綿と続く長い歴史を有するわが国において、天皇はわが国の文化・伝統と密接不可分な存在となっているが、現憲法の規定は、そうした点を見過ごし、結果的にわが国の『国柄』を十分に規定していないのではないか、また、天皇の地位の本来的な根拠は、そのような『国柄』にあることを明文規定をもって確認すべきかどうか、天皇を元首として明記すべきかなど、様々な観点から、現憲法を見直す必要があると思われる。」
――「元首」とは、辞書に、国家を代表する機関。君主国では君主。共和国では大統領とある。
日本国憲法は元首を規定していない。
天皇は「元首」とするにふさわしい存在なのだろうか。
天皇は歴史的・伝統的に、利用される存在であった。歴史的に葛城氏・物部氏・曽我氏・藤原氏と、常に影の宰相が天皇を動かしていた。武家時代になってからは、平氏・源氏・足利・織田・豊臣・徳川と、自ら政治権力者の地位につき、天皇家の権威・権力を形式化した。明治になってからは、<大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス>、あるいは<天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス>と天皇を絶対化したが、実態は薩長政府が明治天皇の影の宰相を演じ、大正・昭和と続いて、軍部がその役目を引き継いで昭和天皇に対して演じた。天皇の利用される存在は日本の「伝統」・「文化」としてあったものなのである。
現在も、対外的に、<天皇のお言葉>という形で天皇を利用している。敗戦の決定にしても、昭和天皇自身が決定したとすると、開戦決定も天皇自身の意志となり、戦争責任問題に影響してくる。
本土決戦のこぶしを振り上げた手前、自分から下げるわけに行かなくなった陸軍が自らメンツを保つためにも、天皇の決定とすることが、国民を納得させるためにも必要だったから、そうと演出したのではないのか。
天皇が決定したのだから、仕方なく従った。陸軍としては、勝算を持って本土決戦で逆転を賭けていたのだが、といったふうに。
ところが、日本側は国体護持(=天皇制維持)に向けた敗戦の受入れを早い時期からアメリカやソ連に対して画策していたのである。いわば、制空権を完全に失い、アメリカ軍の思いのままに爆撃され、広島・長崎と原爆を落とされ、次は東京かもしれないという、後がないまでに追い詰められた状況がポツダム宣言の受諾以外の選択肢のないことを既に決定していたのであり、聖断は単に後追いの形式でしかない。
戦争を天皇の詔勅で開始したこととの整合性を保つためにも、聖断を必要としたのだろう。軍部、その他の指示で戦争の幕をあけ、降ろしたに過ぎない。
利用される存在でありながら、天皇の見せ掛けの権威性が力を持つのは、利用している存在の権威が力を持つことと、そういった力に対しても日本人が上に従う集団主義・権威主義を働かせるからなのは言うまでもない。
だからこそ、葛城氏以下の豪族も、平氏以下の武士も、薩長連合も、軍部も、天皇の権威を借りて、国民を支配できたのである。
昭和天皇が死んだとき、古い言葉で言えば、歌舞音曲は勿論、結婚式・旅行等のプライベートな行事に至るまで、国民は自粛した。主体的な考えに従った自粛なら分かるが、その多くは何かの影を相互作用させて社会の大勢としていき、将棋倒しのように次々と従っていった下位権威者の上に従う権威主義が自動的に働いた自粛であった。
何かの影とは、右翼に代表される妨害や世間の批判といった自らが作り出した幻影だったことは確かである。
例え見せかけのものであったとしても、既に動かすことのできない大きな権威としてあるものを元首としてさらに決定的に権威づける。そのことは、国民の上に従う行動様式・思考様式をさらに受身なものとする、自律性とは反対方向の力学への誘導を果たすものであろう。
そのことは天皇主義者、と言うよりも、天皇を最高権威と仰ぐ集団・権威主義者にとっては都合のいい国民の存在様式であろうが、国民が上に従う集団主義・権威主義の血を薄める方向にではなく、濃くする方向で国際社会に対するとき、それが権威を借りて他者を従わせようとするベクトルに変化させて、他民族排除とまではいかなくても、自民族中心の力学として作用しない保証はない。
ただでさえ単一民族意識に支配されている自民族中心的な日本民族であり、国民を従わせるには天皇は、歴史が証明しているようにどうとでも利用できる理想的な権威なのである。国民自身も、天皇を絶対権威としたとき、戦前の前科からして、他民族に優越した日本民族絶対性の根拠としないとも限らない。 参考までに、「自民族中心主義」なる言葉の意味を記しておく。
<自民族中心主義(=エスノセントリズム)>(大辞林・三省堂)<自己の属する集団のもつ価値観を中心にして、異なった人々の集団の行動や価値観を低く評価しようとする見方や態度。中華思想。自文化中心主義>
これまでの天皇支配の公式からして、天皇を元首とした場合、天皇を絶対化して、その影響力を利用して自己の影響力とする、あるいは自己の発言力を高める政治家が現れても、公式に即した出来事で、驚くに当らない。
先にも触れたように、民族意識を持たせた日本という国に拘ることではなく、民族意志超越の思想であろう。
国民主権なのだから、国民を元首としたら、民族意識の超越にも役立つし、創造的発想とならないだろうか。国の姿・政治の姿への国民の意識も高まる。外国と交渉する首相以下の大臣・政治家にしても、元首である国民の代表であると言う意識を常に持ち、政治家・官僚・役人の乞食行為は少しは収まるのではないだろうか。
国会議員が国民の代表でありながら、その多くが代表である資格を裏切っているのである。国民に道徳性を求めながら、自らは表には出せない汚れたカネで政治を動かしている。そのような国の支配層が、天皇を元首にしようと意志するのは、そもそもからして矛盾している。
◆「憲法改正発議」
「憲法改正の発議の要件である『各議院の総議員の3分の2以上の賛成』を『各議院の総議員の過半数』とし、あるいは、各議院について総議員の3分の2以上の賛成が得られた場合には、国民投票を要しないものとする等の緩和策を講ずる(そのような憲法改正を行う)べきではないか。」
――これは「国民の信託」を受けた国民の「代表者」たる「議員」が選挙で示した国民の意思に違わない姿勢を常に反映させていることを前提としている。その前提を容認するには、国民投票にかけて、乖離がないことを確認するか、国民が十分に納得し得る<説明責任>を果たす義務付けを議員に求める、2つのうち、どちらか一方の条件が必要になってくる。
<説明責任>も果たさず、国民の意思との乖離も検証しないとなったなら、一方的で、「国民の信託」を受けた国民の「代表者」としての責任放棄となる。
再度言う。何度言ってjも言い足りないが、多くの国民も好き勝手なことをしているが、政治家・官僚・役人も好き勝手なことをしている。上が下を従わせる資格もないし、下も上に従うには、上は好き勝手をする手本とはなるが、それ以外は手本とはならない。但し、上も下も集団主義・権威主義の行動様式に呪縛されているから、従わせ・従うという力学
だけは有効に働く。
そういった力学を持たせた規定を排除して、自律性(自立性)をこそ求める方向・内容に進まないことには、憲法の理念は形式的秩序――いわば空念仏で終わる。
従わせ・従う人間関係から抜け出して、戦後60年経っても到達できないでいる自律性(自立性)を短時間で獲得するのは困難であろうが、日本が国際的に指導的立場に立とうとする欲求を持つ以上は、獲得しなければならない人間関係要素である。
* * * * * * * *
最後に、「国民投票法案」を安倍ハコモノ政治とした理由について。
答は簡単、改正教育基本法や教育改革関連3法案にしても同じことが言えるが、安倍晋三なる政治家が国家主義者だからである。国家主義なる言葉の意味を改めて辞書(『大辞林』三省堂)で見てみると、「国家をすべてに優先する至高の存在あるいは目標と考え、個人の権利・自由をこれに従属させる思想」とある。
「自民党の憲法改正『論点整理案』」の内容自体も国民を従わせようとする意志を持っているが、このような国家主義的態度は安倍晋三の言動の端々に見ることができる。国家主義とは国民の外側に位置する国家なる構造体を優先して、その内側で生活者として存在する国民を十全に生かさしめる「権利・自由」を次に置く、いわば国家なるハコモノを優先するハコモノ思想を基盤としている。
かつて日本が戦後の貧しさから抜け出して経済を回復していくと、学校は校舎を木造から鉄筋コンクリートに造り替えることから始め、次の校長が体育館、さらに次の校長がプール、さらに次の校長が図書館等々とハコモノをつくっていき、それを自らの教育成果・勲章とした。
そしてその成果が教育荒廃であった。立派なハコモノを造っていったが、中身の国家に対して国民に位置する、学校に対する生徒のありようを下に置いた美しい成果だろう。
このことはまた地方自治体が立派な庁舎を造りながら、慢性的な赤字財政を持病として肝心の住民サービスを悪化させていることに対応すハコモノ優先でもある。
安倍晋三は戦後生まれ初の首相として、アメリカが関与したものではない教育基本法、憲法を日本人が自らの手で改正したものだと、それを自らの勲章とし、現代史にも記されることになるだろうが、如何せん国家優先の国家主義者のやることである。国民無視のハコモノ優先で終わることは目に見えている。
このことは国民が緊急に必要としている「離婚後300日規定」の見直しの先送りや企業の立場を優先させて「パート法案」の内容を後退させ、何よりも「国民投票法案」の衆院通過を優先させた国民軽視にも現れている。
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件名 : 「市民ひとりひとり」<どうしようもない戯言シリーズ・その37>
日時 : 2005年2月26日 21:49
「市民ひとりひとり」<どうしようもない戯言シリーズ・その37>
――「市民ひとりひとり」――
<教育を語る 社会を、政治を語る そんな世の中になろう>
2005年/2月/26日号(不定期刊行)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「 自民党の憲法改正『論点整理案』を読む」
結論から先に言うと、自民党の改憲意志には、国民に対して、上(国)に従わせようとする支配欲求が色濃く反映している。その頂点に、元首とした天皇を置きたいと願っている。
この上に従わせようとする意志は、日本人が行動様式としている、上は下を従わせ・下は上に従う集団主義・権威主義から派生した、上に位置している人間集団の下に対する支配への疼きなのは言うまでもない。
このような疼きは集団主義・権威主義をDNAとしている影響を受けて、殆どの日本人が上に立つと、本能的な行動原理となって現れる。
平等を行動原理とするアメリカ人主体のGHQがつくった日本国憲法を、国の機関に関わる日本人政治家が改正しようとするのだから、下を従わせる構造に変えたい衝動を抱えるのは自然の流れとも言える。すべては国民がそのような構造を疑問もなく受入れて、上に従う関係を当然とするかどうかにかかっている。
日本国憲法の前文に次のような宣言が盛り込まれている。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」
――多分これは小泉首相がイラクへ自衛隊を派遣する理由に用いた文章であろう。ここから出発する。
上の宣言は、国民に<自由と権利>を保障し、と同時に世界に向けて、それを求めていく姿勢を謳ったものである。これは絶対原理としなければならない全世界の人間の存在形式であろう。
言葉を変えて言うなら、<自由と権利>の自国内にととまらず、グローバル化への宣言と見なすことができる。
そのことは、<憲法>とは、国内法としてある国家存在の基本法であると同時に、日本が世界の一員として世界に向けてあるべき姿を規定する国際関係法をも兼ねていることを示している。
<自由と権利>の理念は、戦前の日本の軍国主義に対する反省を出発点としているはずで、少なくとも日本という国に於いては、<自由と権利>とは、アンチ軍国主義を以って、イコールとしなければならない。
戦前の日本の軍国主義とは、日本人が歴史的・伝統的に行動様式としている日本型集団主義・権威主義の上に築いた、軍部による軍事的強権独裁化を構造としていたものであろう。
と言うことは、憲法の前文を例え変えるにしても、国内的にも国際的にも、<自由と権利>の保障と、日本型集団主義・権威主義の強権独裁化の排除(=アンチ軍国主義)、この二つをベクトルとすることを絶対条件としなければならない。
以上のことを踏まえて、議論を進めていく。
以下、自民党憲法改正プロジェクトチーム「論点整理(案)」から検討していく。
※ ◆、以下と、「」内文章は、すべてプロジェクトチーム作成によるものである。
――、以下は、私自身の解釈。
◆「前文に盛り込むべき内容」
「現行憲法の基本原則である『国民主権』『基本的人権の尊重』『平和主義』は、今後ともこれを堅持していくべきである。
ただし、『基本的人権の尊重』については行き過ぎた利己主義的風潮を戒める必要がある。」
――何が「行き過ぎた利己主義的風潮」なのかは、個人や、同じ個人でも立場・階層によって、また社会や時代によって、それぞれに判断が異なってくるから、改正に困難な手続きを必要とするゆえに改正サイクルが長い憲法で規定すべきではないことと、憲法に規定した場合、政党といった特定な立場に立つ特定の人間集団が持つ特定な価値観で、それぞれに異なる価値観を固定・支配する畏れが生じる危険がある。
人間は所詮利己主義の生きものであるから、「行き過ぎ」・「行き過ぎ」ないの判断は、憲法以外の、時代や社会を臨機応変に反映させた民法や刑法、その他の法律・条例で、規定した事柄に触れた場合はそれぞれの規定に従って処理する従来の方法に従うこととする。ゆえに、「基本的人権の尊重」だけで十分とする。
大体が、「行き過ぎた利己主義的風潮を戒める必要」という文言は、国民に対する評価であって、自分たち国の機関に関わる人間集団を省き、さも道徳正しい人間であるが如きに振舞っている。
しかし実際には、多くの国民も好き勝手なことをしているが、政治家・官僚・役人も好き勝手なことをしている。国の姿・社会の総体は日本人が協同してつくり上げた風景であって、その点、上とか下とか関係なく、風景制作には共犯関係にある。
その認識も踏まえて、「行き過ぎた利己主義的風潮を戒める必要」は、国家運営の指導的立場にある人間にも向けなければならない文言であろう。
尤も指導的立場にある人間ほど、自己を無誤謬視して、釈迦に説法となっている。釈迦に説法は、特に政治家・官僚・役人の文化としてあるものである。
◆「新憲法が目指すべき国家像について」
「新憲法が目指すべき国家像とは、国民誰もが自ら誇りにし、国際社会から尊敬される『品格ある国家』である。新憲法では、基本的に国というものはどういうものであるかをしっかり書き、国と国民の関係をはっきりさせるべきである。そうすることによって、国民の中に自然と『愛国心』が芽生えてくるものと考える。」
――憲法が国家最高の法規範だと言っても、所詮約束事を纏めた言葉の集合体でしかない。「国民誰もが自ら誇りにし、国際社会から尊敬される『品格ある国家』」を実現させ得るか否かは、偏に国民の意思と、その意思を如何に受け継ぎ、如何に表現するかの政治家・官僚の意志にかかっている。
但し、政治家・官僚の品格もしくは政治の品格のあるなしは国民の品格のあるなしの反映であり、「国際社会」に映る「品格」は政治家・官僚の品格もしくは政治の品格がより大きく影響する。
そのことを踏まえていないと、義務の形を取った国民への要求、もしくは規制に偏ることとなる。憲法の理念の実現如何は、「国民の厳粛な信託」を受けた国民の「代表者」たる政治家と、政治家を補佐する官僚の姿勢こそが問われる。
もし憲法に謳うのだったら、「国民誰もが自ら誇りとし、国際社会から尊敬される『品格ある国家』」の実現には、如何なる「代表者」を選択するか、国民の意思と「国民の厳粛な信託」を受けた国民の「代表者」の意思にかかっているとすべきである。
いわば、政治家・官僚の、自らの責任を自覚させる文言も付け加えなければならない。現実の国の姿に対応して、憲法の条文が空文化したり、綺麗事化したりする。憲法を生かすも殺すも、国民の意思の内容と、政治家・官僚がそれをどう生かし、憲法の理念に添った国づくりができるかどうかにかかっている。政治家・官僚がより重い責任を有していることを銘記すべきである。
「諸国民との協和」も、「自由のもたらす恵沢」の「確保」も、「戦争の惨禍」の回避も、「国民主権」の確保も、「福利」の「享受」も、「恒久の平和」も、「人間相互の関係を支配する崇高な理想」も、「平和を愛する諸国民の公正と信義」も、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」することも、「国際社会において、名誉ある地位を占め」ることも、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」の「確認」も、すべて国民の意思と、それを受けた「国政」の「代表者」たる政治家とそれを補佐する官僚の意志(意思)にかかっている。
◆「国旗及び国歌」
「諸外国の憲法の規定例を参考にして、国旗及び国歌に関する規定を憲法に置くべきだとする意見があった。」
――前記の、「新憲法が目指すべき国家像について」の説明文にある、「国民の中に自然と『愛国心』が芽生えてくるものと考える。」とする文章と併せて説明する。
――国旗掲揚・国歌斉唱に関して、アメリカでは国旗が公私の区別なく、多くの場所にどこでも掲揚されていて、誰もが敬意を表し、国歌斉唱にも熱心だと、それを理由に日本人に同じことを求める考えがある。
日本人は下を従わせ・上に従う集団主義・権威主義を行動様式としている。アメリカ人にも権威主義的な人間はいるが、一般的な国民性としては、集団主義・権威主義は日本人ほど強くDNAに組み込まれてはいない。思想・行動とも、独立した一個の個人として把えた自己を基準とすることができる自律性を国民性としている。自分で判断し、自分で行動する。
日本人のように大勢を占めた権威の命令に従って集団で行動する習性にはない。政治に関して言えば、日本のように殆ど常に一つの政党に権威を与えて、政権党に座らせるようなことはしない。それはかつては自民党が上・社会党は下、現在で言えば、実勢は違った姿を見せているが、それでも無意識的な固定観念として、与党(自民党)は上、野党(民主党)は下という、何事も上下で権威づける権威主義的価値判断から出ている一党独裁状態であろう。
それは読売ジャイアンツが常勝状態から大きく外れていながらも、地方の球団を超え、時代を超えて全国的な人気を獲得・集中させ、一番だと言う権威(=地方球団、もしくは他球団を下に置く権威)を伝統とさせている状況と同じである。
監督としては見るべき成績は残していないのに、読売ジャイアンツのスター選手であり、監督であったと言うだけで、長嶋茂雄が今もって神様の如くにもてはやされる理由も、ジャイアンツが一番と言う権威主義に助けられての光景であろう。
アメリカでは、民主党・共和党のどちらか一方の政党を権威とせず、必要に応じて適宜政権を交代させるバランス感覚を自らの感覚としている。このバランス感覚とは、単に政権党の選択のみを意味するわけではなく、政策の一方的偏りをゆり戻す働きをも含む平衡感覚であろう。勿論、時代の空気を受けて、そのゆり戻しが悪い方向に振れる場合もあるが、国民の選択であることに変わりはない。
日本人がただでさえ集団主義・権威主義を行動原理としているところへもってきて、国旗・国歌を憲法で規定するのは、国旗・国歌を権威付けて、それに従わせる強制力として働く危険を抱えかねない。
権威付けとは、言うまでもなく、その権威に従わせて、初めて成果を得る。国旗・国歌を権威付けて、国民に従わせてどこが悪いという意見があるだろうが、それを義務としたとき、<自由と権利>の理念に真っ向から反することとなる。従うのも自由・従わないのも自由を条件としなければ、精神の自由を犠牲とした個人の束縛へと向かう。
戦前、国旗・国歌は国家によって絶対的権威とされ、国民に従うことを絶対的義務とし、個人の行動・思想を縛った前科を抱えているのである。再犯への怖れは単なる杞憂なのだろうか。
杞憂ではなく、既に絶対化の足音が忍び寄っている証拠を示さなければならない。福岡県久留米市教育委員会が、小中学校の卒業式と入学式で、国旗掲揚の有無と国歌斉唱の声量を大・中・小の3段階に分類して調査した事実、東京都が国歌斉唱時に起立しない生徒を出した担任の教師を懲戒処分した事実は、国旗・国歌の絶対化以外の何ものでもないだろう。
「君たちがしっかり歌わないと、先生方が処分を受けかねない」と生徒たちを暗に強迫した校長もいたという報道もある。
これらのことは国旗・国歌を道具に国家が意志することを国民に強制する、上に位置する人間の下を従わせ、下の人間に上に従わせようとする集団主義・権威主義のストレートな発揚であろう。 そうなった場合の国旗・国歌に対する要求態度、「愛国心」表明に対する要求態度からは、憲法の「前文」に言う、「専制と隷従、圧迫と偏狭」の国家対国民の関係しか生まれない。憲法が謳う、「個人の尊重」、「思想及び良心の自由」といった<自由と権利>の保障は排除されかねない。
また、 「愛国心」涵養の方法としての国旗掲揚・国歌斉唱は、形式で済ますことのできるものであるから、意味を成さない。「愛国心」を口喧しく説く人間が、必ずしも愛国心溢れる人間とは限らないし、国旗に敬意を表し、国歌斉唱を熱心に行う人間が、愛国心ある人間だとは限らない。私利私欲・私腹行為を隠すために、愛国心を隠れ蓑にする人間もいる。
戦前、食うや食わずの国民をよそ目に物資の横流しで食糧に事欠かなかった日本人の多くは、社会的上層に位置している人間だったから、愛国心を口やかましく言い立て、一般国民に愛国心をうるさく求めたに違いないが、愛国心を隠れ蓑に公の態度と違う愛国心に反した行いをしていた。
従わせていた側の人間が、従わせようとしていた行為と陰では違うことをしていたのである。このような裏切りから導き出される答は、当然、国旗・国歌に対する態度で、人間は判断できないという事実であろう。そうである以上、愛国心涵養の道具とはならないばかりか、愛国心を計るバロメーターともならない。
人間は利害の生きものであり、自己に卑近な利害で動く。断っておくが、利害で動くことは決して悪いことではない。悪いかどうかはケースによる。
人間は一般的には「愛国心」で行動しない。「愛国心」からの行為に見えたとしても、利害行為であることが多い。「愛国心」で行動するのは、そのときの優先的利害に位置するからというケースが多い。
失われた90年代に「愛国心」がより喧しく語られるようになったのは、政治家自身の国家運営の無能、その先にある自らがつくり出したお粗末な国の姿という成果を「愛国心」の問題にすり替え、国民に責任転嫁して、さも自分自身は無関係を装う自己正当化のための利害行為であろう。
戦前の戦争にしても、当たり前に部隊を展開し、例え犠牲が多かったとしても、実力に応じた戦闘を行って、勝利を収めることができると計算して、実際にもそのようにできたなら、「愛国心」だ何だと、あるいはやたらと標語をつくり立てて喚き立てなくても済んだだろう。戦略と戦術のまるっきりの無能、その先にあった無残な結末を覆い隠すために、選択肢がそれしかなかった「愛国心」を必要としたのである。
ここで<戦略>の意味を記しておく。
<長期的・全体的展望に立った闘争の準備・計画・運用の方法>(大辞林・三省堂)
日本人の<戦略>の欠如は、戦後50年経っても、阪神大震災で遺憾なく発揮された。
この<戦略>性の欠如は上が下を従わせ・下が上に従う集団主義・権威主義が持つ、上を基準とする準拠性の、命令・指示をなぞることのできる事柄には計算が働いて力を発揮するが、想定外なためなぞることができない事柄には咄嗟の計算が働かない弊害からきているものだろう。
学校運営の直接的な責任者である校長・教頭が、上からの命令・指示をなぞれば片付く国旗・国歌問題では力を発揮するが、なぞるだけでは片付かない生徒の生活態度や創造性の育みに力を発揮し得ていないことも、上記の例に入る傾向であろう。
また、戦前の「愛国心」が殆どの国民になぞらせることに成功したものの、日本という国家意志の一方的利害といった国家レベルの利害行為でしかなく、アメリカ・イギリスのように<独裁との戦い>、あるいは<自由のための戦い>といった世界的普遍性を持ち得なかった。
国際関係法も兼ねている憲法が<自由と権利>の保障と、日本型集団主義・権威主義の強権独裁化の排除(=アンチ軍国主義)の二つをベクトルとすることを絶対条件とするなら、「愛国心」といった一国の利害にとどまるのではなく、それを超えて人類共通の人間存在のルールとして位置し、世界に普遍性を持ち得る<自由と権利>の理念をこそ追求すべきである。
各国様々な人権法によって描いた、その共通項を成す理念・思想が国民及び人間相互の、国家と国民相互の、さらに国家間相互の行動原理として働き、必然的に自律・他律の規制を受けた人間の存在形式を形成していくこととなるはずである。
◆「21世紀にふさわしい憲法のあり方に関して」
「新憲法は、21世紀の新しい日本にふさわしいものであるとともに、科学技術の進歩、少子高齢化の進展等新たに直面することとなった課題に対応するものでなければならない。同時に、人間の本質である社会性が個人の尊厳を支える『器』であることを踏まえ、家族や共同体が、『公共』の基本をなすものとして、新憲法において重要な位置を占めなければならない。
――「『公共』の基本をなすもの」は、「家族や共同体」ではなく、あくまでも個人である。両者は相互関係にあるが、行動主体は常に個人でければならず、「家族」でもなければ、「共同体」でもない。人間は基本的には「家」や「共同体」で行動するわけではない。個人として行動する。行動しなければならない。
個人を主体として把えるべき人格性、もしくは権利性を「家」に統括して把え、さらに「共同体」に統括して把える人格性及び権利性の統括は、個人の否定(個の否定)以外の何ものでもなく、さらに進めば国家での統括を最終局面とする、あるいは最終結果とする国家主義・全体主義への傾斜を暗流とした改正意思であろう。
個人の公約数的な姿が「家族」を姿づけ、「共同体」を姿づける。にも関わらず、「家族や共同体」を行動主体とし、そこに個人を埋没させる。
個人を「家族」に、「家族」を「共同体」にと、順次、下を上に従わせる集団主義・権威主義の権威的衝動から発した社会の序列化・階層化と言える。国民統制の役目を担わせた戦前の部落会・町内会を末端組織とする大政翼賛会組織に通じる、集団主義・権威主義からの国民支配意志が否応もなしに見えてくる。
個人ではなく、「家」・「共同体」・「国旗」・「国歌」と、いずれも集団主義性・権威主義性を包摂したキーワードを揃えて、それを国民の集団主義・権威主義の血に注入して、その部分の血をより濃くし、その先に国家なる着地点に誘導しようとする。憲法改正の意図・テーマが全体主義、とまでいかなくても、少なくとも国家主体を主眼としていることが否応もなしに透けて見える。
これは<自由と権利の保障>に明らかに抵触する。是非を自ら判断し、自ら行動する個人の自律性(自立性)をこそ求めるべきである。
(安倍ハコモノ政治からの「国民投票法案」3に続く)
最初に断っておくが、私は憲法9条の改正に賛成の立場である。元々は自衛隊の存在そのものに反対であったし、平和憲法擁護派でもあった。だが人間の現実の姿・社会の姿を知るにつれ、考え方が180度変わった。
まず、沖縄の米軍が日本人基地従業員の解雇を行ったとき、関係組合だけではなく、当時あった総評・社会党も解雇反対の声を上げたことだった。当時の総評も社会党も基地反対・自衛隊反対・米軍撤退を主張し、平和憲法擁護を叫んでいた。基地そのものに反対していながら、従業員解雇に反対は矛盾行為でしかない。
基地反対を叫ぶなら、逆に社会党は所属する国会議員からそれ以下の各県市町村議員、総評は幹部からすべての所属組合員が自らの身を可能な範囲でそれぞれに削って、その資金を手当てに日本人従業員全員に解雇を勧め、その生活保障に基地の待遇相応の新たな職を斡旋して基地が成り立たなくさせる手段に出るべきだったろう。
一方で基地反対を叫びながら、その一方で基地従業員の身分保障を求める。もし米軍がすべて日本から撤退することになって日本人従業員は全員解雇ということになったとき、基地労働者の身分を守るために撤退反対を叫ぶのだろうか。
このこと「asahi.com」の2004年05月13日の記事、≪職と反基地 ジレンマ もうひとつの沖縄1≫が証明している。
<1969年から76年ごろまで、米軍による基地従業員の大量解雇が続いた。これに反発した全駐留軍労働組合(全駐労)沖縄地区本部は「クビを切るなら、基地を返せ」をスローガンに闘争を展開し、沖縄の反基地運動の先頭を走ってきた。だが、県内の雇用状況が改善されないなか、97年から「基地撤去」を掲げなくなっている。
中嶋さんは言う。「基地賛成なんて思っている者は一人としていない。ただ、就職のためには『基地反対』と大声もあげません」>――
「クビを切るなら、基地を返せ」は最たる矛盾であろう。基地を返したら、すべての日本人従業員が職を失うことになる。沖縄に今以て求職希望者を吸収できる産業が基地以外にこれといってないことは失業率が全国一高いことが証明している悲しい現実であるが、2004年05月13日の「asahi.com」記事≪沖縄、基地求人に殺到 失業率、全国一≫が如実に伝えている。
<失業率が全国一高い沖縄県で、米軍基地で働く従業員の04年度募集に申し込みが殺到している。基地従業員の雇用をあっせんしている独立行政法人・駐留軍等労働者労務管理機構那覇支部によると、10日までの応募件数は3478件。今月21日に締め切られ、秋には追加募集がある。ここ数年、競争率は25~30倍になっており、今年も例年並みになりそうだという。
沖縄県内の基地従業員は3月末現在、8813人。出納事務や電気装置修理工、警備員、コックなど約1300の職種に従事している。就職先としては沖縄電力や地元銀行などをしのぎ、県職員2万2000人に次ぐ大きな職場である。
03年度は675人の採用に対し、1万5582人の申し込みがあった。
1972年の本土復帰前後には、基地従業員の大量解雇があって社会問題化した。しかし、今では定年まで働く人も少なくなく、「安定した職場」とみなされ、給与や休みなどが「国家公務員並み」という待遇が人気を支えている。
同機構が書類選考し、米軍側が面接する。面接を受けられる人は10人に1人程度だ。採用は米軍側の要求に応じて随時実施されるため、人数は確定していない。
沖縄の03年度の完全失業率は7.6%(全国平均5.1%)。特に15~24歳の若年層は18.6%(同10.0%)と高い水準になっている。>――
今以て失業率全国一であることから、現在もさして状況は変わっていないだろう。
日本の軍隊・自衛隊にしても、その経営は平和団体の反対の声に関係なしに年月の経過と共に地元経済と深く結びついていき、地元経済にとって雇用問題だけではなく、物資納入や自衛隊員が地元にカネを落とす経済効果等によって必要不可欠の存在と化している。
自衛隊反対の平和団体や政党はそれに何らブレーキをかけることができなかった。
そうなると、基地以外に産業のない地方にとって、基地の撤退は死活問題となる。炭鉱が閉鎖されたのちの夕張の状況に擬(なぞら)えることができる。1950年代(昭和30年代)に炭鉱不況に襲われたとき、各種パートといった仕事で吸収できる程には日本の経済は成長していなかったために、手っ取り早く収入を得る道が売春と限定されていた炭鉱労働者の妻たちの存在は基地以外に産業がない、あるいは炭鉱以外に産業がないといった地方の限定状況と重なる。
経済的な(=カネのための)自己利害優先が生存条件(=生活成立の条件)となっているために、経済(=カネ)が人間存在の主導権者に位置することとなっている。多くの日本人が戦争に反対していながら、日本は朝鮮戦争(1950.6/S25~1953.7/S28)への間接的な参戦によって、その特需の経済的な恩恵を受け、敗戦による経済的な壊滅状態から抜け出ることができ、さらにベトナム戦争(1961/S36~1975/S50)への間接的参戦による特需を受けて、日本は高度成長に向けた飛躍を果たすことができた。
戦争に反対していた日本人もいない日本人も、米軍基地撤退を叫んでいた日本人も叫んでいなかった日本人も、反対も賛成もせずに傍観者であった日本人も、戦争の果実が重要な位置を示していた経済成長の恩恵を受けて、一億総中流とまで言われるようになった生活を成り立たせていた。そして日本は世界第2位の経済大国にまで上り詰めた。
だが、そのような日本の経済発展の基盤を成した戦争の果実は米軍兵士、あるいは韓国・朝鮮人・中国人の血や恐怖、死、そして国土の荒廃といった犠牲を栄養源とした果実で、それに対して日本、あるいは日本人は何ら犠牲を払わなかった美しいだけの果実であるという逆説性に満ちた果実であった。
このことは公平・公正なことなのだろうか。経済のグローバライゼイション(globalization=世界的規模化)を言うなら、あるいは人権擁護を言うなら、自国の利益・自国の人権だけを考えることは決して公平・公正とは言えない。如何なる果実も、他者の犠牲の上に成り立たせた逆説性を持たせてはならない。自らがそれ相応の犠牲を払うことで、手に入れる資格を持ち得るはずである。
当然在日米軍も自衛隊も日本の経済的利益を生む存在にとどめておくことは許されない。「自民党・新憲法草案」の「前文」に言っている「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に願い他国とともにその実現のため、協力しあ合う。国際社会において、価値観の多様性を認めつつ、圧政や人権侵害を根絶させるため、不断の努力を行う。」に賛成であるし、「第2章安全保障」【9条の二の3】が言うところの「自衛軍は、第一項の規定による任務を遂行するための活動をほか、国際社会の平和と安全確保するために国際的に協調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。」にも賛成であるし、集団的自衛権の行使にも賛成している。
またすべての戦争が悪で、すべての戦争に反対と言うことなら、如何なる戦争も起こさせない・起きない絶対的基準を用意しなければならない。それを不可能としながら、反対を叫ぶのことも矛盾行為であろう。
但し条件付の憲法改正であることを断らなければならない。自民党政権下での憲法改正は反対であることと、非核3原則の堅持、軍事力は最小限にとどめること。
非核三原則の堅持は説明するまでもないだろう。最小限の軍事力を条件とする理由は、最小限を補って外交政治を自国防衛の最大要素とするためである。経済大国を誇るなら、外交大国たる地位・創造性を獲得すべきである。しかし現実は反対の状況にある。
外交大国を武器に軍事力行使はギリギリの最後手段としなければならない。
自民党政権下での憲法改正は反対であるとするのは、項目化された「自民党・新憲法草案」を読んだだけでは見えないが、2005年に発表した「自民党の憲法改正『論点整理案』」が自民党の主だった議員の様々な意見の集約の形を取っているゆえに読み取り可能とさせている彼らの改正意志を反対の理由としている。
いまは止めてしまったが、以前発行していたメーリングリストから引用してみる。(安倍ハコモノ政治からの「国民投票法案」2に続く)
日本人は口先だけの国民で推移するのか
「朝日」4月12日(07年)朝刊≪温首相国会演説(要旨)≫から。
<友情と協力のために、不幸な歳月の歴史的教訓を総括する必要がある。日本が発動した中国侵略戦争で中国人民は重大な災難に見舞われ、中国人民の心に言葉では表せないほどの傷と苦痛を残した。戦争は日本国民にも苦難と痛みを改めた。
侵略戦争の責任は、ごく少数の軍国主義者が負うべきであり、一般の日本国民も被害者であり、中国人民は日本国民と仲良く付き合わなければならない。
中国政府と人民は、歴史を鑑として未来に向かうことを主張している。歴史を鑑とすることを強調するのは、恨みを抱え続けるのではなく、歴史の教訓を銘記して、よりよい未来を開いていくためだ。
中日国交正常化以来、日本政府と日本の指導者は何回も歴史問題について態度を表明し、侵略を公に認め、深い反省とおわびを口にした。中国政府と人民は積極的に評価している。日本側が態度の表明と約束を実際の行動で示すことを心から希望している。
――(攻略)――>
後段部分の「日本政府と日本の指導者は何回も歴史問題について態度を表明し、侵略を公に認め、深い反省とおわびを口にした」。しかし「日本側が態度の表明と約束を実際の行動で示すことを心から希望している」について。
これを裏返すと、「反省とおわびを口にした」が今以て「実際の行動で示」していないとなり、厳密に解釈するなら、口先だけで終わらせていると読み取り可能となる。「反省とおわび」は約束不履行のまま今日に至っているということだろう。
温家宝首相は「日本政府」や「日本の指導者」と日本国民を分けているが、それぞれが独立して存在するわけではなく、同じ日本人性で通じ合った同質的存在である。完璧に別個の存在として扱うことはできない。ということは、本人が意図していなくても、口先だけは日本人全体が担っている性向と受け止めなければならない。
百歩譲って、温首相が口先だけは「日本政府」や「日本の指導者」だけのことと意図したとしても、それでも日本国民全体に降りかかる問題であろう。口先だけの「日本政府」や「日本の指導者」は国民の選択にかかって存在しているからだ。いわば「日本政府」や「日本の指導者」が口先だけであるとするなら、そのことに日本国民は深く関わっていることになる。
尤も日本側には、十分に謝罪は尽くされた。中国の戦争賠償請求放棄に対して、日本側は在外資産放棄と、謝罪と償いの意味を込めたODA等を通した「経済援助」によって、相当な補填を行ってもいる、「実際の行動で示」していないなどと、言いがかりに等しいと受け止める日本人も多いに違いない。
例えその受け止めが国際的な認知を得ていたとしても(得ていないから、アメリカで日本軍の従軍慰安婦問題で日本政府に「明確な謝罪」を求める決議案が下院に提出されるのだろうが)、具体的行動が伴っていない、口先だけで終わらせていると見なしている中国側の判断との食い違いは事実として残る。
その食い違いを埋める努力は日本側も負うべき責任事項であろう。何度謝ったらいいんだ、歴史認識問題は決着している、首相の靖国参拝は国内問題、中韓の非難は内政干渉だし、事実誤認に基づいていると言うだけでは片付かない〝事実〟であることは、そのことが信頼関係構築を左右する重要な要因となるからなのは言を俟(ま)たない。
食い違いを埋めないままの信頼関係に裏付けられたものではない経済的利害追及優先の戦略的互恵関係では、小泉靖国参拝や歴史教科書問題、日本の国連安保理常任理事国入り活動等への反発に端を発した中国の大規模反日デモに象徴される危険な状況を恒常的に背中合わせに抱えることにならないとも限らない。
「朝日」の13日(07年4月)の朝刊が<12日夜に東京都内のホテルで開かれた温家宝首相の歓迎パーティー>で、温家宝首相の後に続いて<安倍首相は「温首相の演説は歴史に残る素晴らしいものだった」と持ち上げた。「議員から何回も大きな拍手がわき起こった。私が演説しても拍手するのは与党の議員だけ。温首相が大変うらやましい」と招待客の爆笑を誘った>と、安倍首相のご機嫌麗しい反応を報じている。
首相就任前は高飛車な短絡反応一辺倒で中国を悪しざまに罵っていながら、就任した途端に態度を変える、君子でないからできる豹変を演じて見せたが、そのような豹変を可能とした安倍晋三特有の無神経な破廉恥性から類推して、日本人は口先だけの人間集団で終わっていると読み取り可能な暗黙の示唆を解読する神経が働かなかったことからのご機嫌の麗しさではなかったか。蚊に刺された程の痛みも痒みも感じなかったということだろう。
もしも並の神経を普通に働かせていたなら、日本人は口先だけの国民と歴史に刻まれかねない国会演説を「歴史に残る名演説」などと持ち上げることはできなかったろう。何とも締りもない情けない姿である。
同じ13日金曜日の「朝日」朝刊には創価学会名誉会長の池田大作も都内のホテルで温首相と会談し、<国会演説を「不滅の名演説だった」とたたえた上で、「氷を溶かす旅は大成功」と評価した>(≪中国・温家宝首相 池田大作氏と会談≫)と出ているが、日本人は口先だけだと読み取り可能なニュアンスを無視して「不滅の名演説」とは、池田大作にしても安倍首相並みのお粗末・貧弱な感受性しか持ち合わせていないらしい。
「氷を溶かす旅」は、両国間の今後の課題として目的としたまでのことで、温来日はそのキッカケに寄与すべく意図したに過ぎず、「溶か」し終わったわけではない。「実際の行動で示すことを心から希望している」と改めて懸案の宿題を持ち出して、日本の側からの〝溶解〟を促してもいる。国家関係というものが相互反応関係にあることを無視して、中国側が何もかも「氷を溶か」してくれると思っているのだろうか。何を勘違いしたのか、勘違いできる単純さは羨ましいくらいに美しく、素晴らしい。さすがは巨大宗教団体の名誉会長を務めるだけのことはある。宗教家とは名ばかり、所詮政治屋なのだろう。
温家宝首相は前段で「侵略戦争の責任は、ごく少数の軍国主義者が負うべきであり、一般の日本国民も被害者である」と日本国民を無罪放免としているが、日本政府や政治権力者を一般国民と分けたとしても、温首相の責任論は一面的な事実を示しているに過ぎない。天皇主義・軍国主義を頭から妄信した積極的な追従、あるいは客観的認識性もなく、当然主体的自律性を持てずに周囲に追随・同調する形の機械的惰性の追従、あるいは事勿れな日和見から傍観者の位置に自己を置いて、結果として軍国主義を許した、知識人に多い間接的追従等が国民の側にあり、政治権力側の戦争遂行圧力と国民の側の各種追従とが渾然一体となって相互に反響し合い、増幅し合って侵略性を高めていき、全体的に加害集団と化していったのである。
決して「一般の日本国民も被害者である」で終わらせるわけにはいかない。少なくとも共犯の位置にあった。日本人自身が自ら終わらせているところに日本人の無責任性が存在する。それを隠すために、正義の戦争だった、自存自衛の戦争だったとするこじつけを必要事項としているのだろう。
但し、「侵略戦争の責任」を「ごく少数の軍国主義者」に負わせて、「一般の日本国民」にはないとする温家宝首相の論理は日本民族優越論や日本民族無誤謬論を意識に根付かせている日本の国家主義勢力にとっては、日本人は全体的には誤っていなかった、部分的欠陥に過ぎなかったとすることができて、一応は歓迎すべき論理であり、その箇所に限ってとしたら、安倍首相の「歴史に残る名演説」は的を射た評価とすることができる。
尤も安倍首相にとっては東条英機を筆頭としたA級戦犯を国内法では犯罪人ではないと擁護して復権を目論んでいる手前、「一般の日本国民」の無罪放免のみを認めることは悩ましいジレンマを抱えることになる。
安倍晋三にしたら、「一般の日本国民」以上に「軍国主義者」を無罪放免させてもらいたいと願っているのではないだろか。そう願っていないとしたら、国家主義者たる所以を失う。あるいは国家主義者としての存在理由を失う。
中国が「軍国主義者」をも無罪放免としてくれたとき、A級戦犯は「国内法」という一国性を超えて、いわば「国内法では」という限定を付ける必要もなく、その煩わしさ・牽強付会から解き放たれて国外的にも犯罪人の烙印が抹消可能となる。
そのことは合祀している靖国神社を誰に憚ることなく心置きなく参拝できるといったことだけではなく、参拝衝動を衝き動かしている日本民族優越論、あるいは日本民族無誤謬論が100%論理破綻を免れて、日本人、あるいは日本民族のあからさまな勲章とすることも可能となるだろう。
だが、それは願いとしてあるだけで、「日本側が態度の表明と約束を実際の行動で示す」がクリアすべき課題であることに変わりはなく、クリアしたとしても、日本国民が口先だけの国民であることは免れることはできるが、そのことは同時に「侵略戦争の責任は、ごく少数の軍国主義者が負うべき」とする中国側の責任帰属論の日本側からの承認を意味し、その確定を決定づけるだけのことで、軍国主義者の責任は永遠に立ちはだかるし、そうなれば当然のこととしてA級戦犯の靖国神社への合祀反対の事実も何ら変わることもなく永遠に残ることになる。
窮屈に息を潜ませている日本民族優越論、あるいは日本民族無誤謬論を曲がりなりにも生き返らせるには、「ごく少数の軍国主義者」のみを悪者とし、「一般の日本国民」を無罪放免とする中国側の責任帰属論の受け入れは一つのチャンスではあるが、安倍国家主義者はそれに逆らって、「日本側が態度の表明と約束を実際の行動で示」さずに、「ごく少数の軍国主義者」の名誉回復をも通して日本民族優越論、あるいは日本民族無誤謬論の完全復活を狙う国家主義者らしいと言えば国家主義者らしい欲張った努力を今必死に続けている。
断るまでもなく、教育基本法の改正、憲法改正等を手段とした「戦後レジームからの脱却」(=戦前肯定・戦後否定)である。結果として日本国民は〝口先だけ〟が読み取り可能といった域を超えて、事実として「歴史に残る」、あるいは「不滅の」事実となる危険水域に向かう栄誉を獲得しかねない。このことは日本と中国は真の信頼関係を築くことができないまま両国関係は推移していくことと同義語をなす。
4月11日(07年)早朝の「日テレ24」で、前日の4月10日午前中に衆議院農水委員会で行われた松岡農水相の事務所費問題に関する民主党議員の追及場面を報じていた。
<民主党の黄川田議員「何とか還元水とか、特別な暖房とか言う釈明でございますけれども、それはですね、具体的にどのメーカーの何と言う器具ですねぇ――」(カット)
松岡農水相「現行の、おー、法令では、個別の内容に関わることまでは求められていませんし、予定されておりませんので――」(カット)
黄川田(手に持ったナノクラスター有機ゲルマニウム水を周囲に示しながら、)「高価なですね、このナノクラスター有機ゲルマニウム水って言いますか、こいうものをお飲みなんでしょうか?」
松岡農水相「個別内容の個人的なことでございますから、あー、これにつきましては差し控えさせて頂きたいと思います」>――
民主党は同じ逃げの手を繰返させるだけで終わる同じ追及の手をまだ繰返しているのかと驚いた。バカの一つ覚えを許すバカの一つ覚えの反復といったところだろう。
「疚しいところがあるから説明できないのではないのですか?」
「天地神明に誓って、疚しいところは一切ございません」
(あるいは「疚しいから説明しないのではなく、あくまでも個別内容の個人的なことでございますから、差し控えさせて頂ているのです」)
「(つまり疚しいからではないからということですね。)現行の法令では個別内容に関わることまで報告する義務はないということは重々承知していますが、何ら疚しいことがないと言うことなら、どの世論調査でも半数以上から9割近くの大勢の国民がですね、いいですか、半数以上から9割近くの、殆どと言ってもいいくらいの大多数の国民がですね、松岡農水相の法令を楯に内訳の説明を拒んでいる姿勢は『適切ではない』としているんですよ。いわば美しくないと言っているのと同じです。松岡農水相、あなたは自分では疚しいところがないと言っている(ないとしている)が、大多数の国民はあなたのことを疚しいと見ているのです。『適切ではない』と言うことはそういうことでしょう。全然美しくないと。
大臣の立場にあるなら、疚しい・適切ではない・美しくないとしている大多数の国民の批判・疑惑に応えるべきではないですか?国民の要望は『説明すべき』なんです。譬えるなら、あなたは今赤信号の前に立たされている。赤信号を青信号にして前に進むためには、国民の要望に応えて身の潔白を晴らすしかない。もしも潔い態度で国民の要望に応えなければ、ただでさえ高まっている国民の政治に対する不信を増幅させ、信号を赤信号のまま放置することになる。赤信号とは政治不信そのものを示します。これ以上国民の政治不信を募らせた場合、その責任の大半は松岡農水相、国民の要望を無視するあなたにあることになる。それでもいいのですか?」
大時代ががった物言いでこのように演技できる政治家が一人ぐらいいてもよさそうと思うのだが。
昨4月11日(07年)の「朝日」朝刊に≪事務所費「5万円以上に領収書」 与党、補選控え方針転換≫なる見出しの記事が載っている。これまで領収書添付ナシでいいだろうとしていたが、選挙目当ての美しい自己都合で、「5万円以上に領収書」を添付することにしようと「方針転換」したという内容なのは見出しを見ただけで分かる。裏を返せば、選挙がなければ、「方針転換」はしないということだろう。
その記事の中に<松岡農水相問題再燃も 自民、改正はもろ刃の剣>と中見出しを付けた関連記事がある。一部分を引用してみると、美しい<松岡氏はこれまで光熱費の内容について具体的な説明を拒み、「各党各会派で(新たな)公表の基準が決まれば、それに応じて対応したい」との答弁を繰返してきた。だが、法律は過去にさかのぼって適用されないために、松岡氏が05年に計上した507万円の光熱水費については、法律上の公表義務は負わないことになる。
――(中略)――
だが、公明党の東順治政治改革本部長は10日、「法はさかのぼらないが、法制化されれば、説明責任はより具体的に生じるだろう」と松岡氏にけじめを求めた。>とある。
政治資金規正法が改正されても、「法律は過去にさかのぼって適用されないために、松岡氏が05年に計上した507万円の光熱水費については、法律上の公表義務は負わない」としても、松岡農水相は「各党各会派で(新たな)公表の基準が決まれば、それに応じて対応したい」と議会で約束している。これは国民に対する約束でもあろう。例え口頭のものであっても、約束とは一種の契約であり、国民との契約に相当しないはずはない。
国民との契約は安倍首相のように薄っぺらな契約違反のタレ流しは許されるはずもなく、カターイ契約でなければならない。松岡農水相は改正政治資金規正法には違反しなくても、国民に対する契約違反の矛盾を犯すことを意味する。公明党は「法はさかのぼらないが、法制化されれば、説明責任はより具体的に生じるだろう」と言っているが、「法制化され」ようがされまいが、国民に対する「説明責任」という国民との契約は常に付き纏う。
それとも俺は契約違反タレ流しの薄っぺら内閣の一員だから、全体を見習って俺も契約違反タレ流しの薄っぺら行為は許されるはずだとして、説明を拒み続けるつもりでいるのだろうか。
もし美しい松岡農水大臣が「法律は過去にさかのぼって適用されない」ことを知っていた上で、さももっともらしげに「各党各会派で(新たな)公表の基準が決まれば、それに応じて対応したい」とカラ手形を切っていたとしたら、美しい政治家にふさわしいこれ程の美しいマヤカシはなく、国民の負託に適うべき国会議員の資格を自ら裏切る美しいペテンを演じ続けていたと言う他ない。安部の薄っぺらに対する松岡の薄っぺらということで、何ら矛盾はないと納得もしなければならないということなのだろうか。
だが、すべてを承知の上でカラ手形を切っていたとしても、国会議員の特に国会の場での約束は国民との約束でもあり、それはそのまま国民との契約へとつながっていく関係から、国民との契約はカラ手形では済まされるはずはない。カラ手形を切りつつ、国会議員の、特に内閣の一角を占める大臣の普通の感覚ならカラ手形とすることは許されない国民との契約を積み上げていたという自己矛盾を演じていたことにもなる。
カラ手形となることを承知せずに約束し、国民との契約を行ったと言うことなら、「法はさかのぼらない」から「法律上の公表義務は負わない」として説明を拒んだ場合、やはり国民との契約違反となる矛盾を犯すことになる。それを避けるとして説明を行うとするなら、あくまでも国民との契約を果たす行為であって、規正法云々とは関係ない行為ということになって、そうである以上、政治資金規正法の改正を待たずに「説明」という約束、国民との契約を果たしてもいいことになる。
いずれにしても松岡美しい農水大臣のしていることは美しい自己矛盾の連続ということになる。
美しい安倍晋三は「大臣はですね、法令に則って報告していると、このように答弁しています」と松岡農水相を美しい内閣の美しい一員として擁護し、松岡の姿勢は「適切でなない」、説明すべしとする大多数の国民の要望に対する無視を側面加担してカエルの面にショウベンのドラキュラ風の平然たる態度でいるが、説明義務ナシは例え「法令に則って」いようとも、記載内容自体は「法令に則って」いるかどうかは公表なくして明らかにはならない。安倍首相の記載内容隠し加担は松岡疑惑隠し加担でもあり、当然総理大臣として担わなければならない国民の負託違反に当たる。
自民党は戦後一貫して美しい政治活動を貫き、自民党政治を美しい日本の歴史・伝統・文化の一つとしてきた。安倍晋三なる戦後生まれの美しい自民党政治家が美しい日本の首相として登場して以来、自民党の美しい政治活動は一段と美しい光を放ち、その美しさは眩いばかりの燦然たる輝きにまで達している。
安倍晋三に於ける自民政治の美しさの象徴は選挙のためのなりふり構わない郵政造反議員の自己都合復党であり、首相自身の任命責任を問われないために美しくも一向に説明責任を果たさない松岡農水相を庇い続ける眩いばかりに美しい責任回避行動がその代表であろう。
東京都民は石原慎太郎の「人柄」に惚れたのだろう。
統一地方選前半戦の投票日(07年4月8日)、夜8時からのNHKの「統一地方選挙開票速報」で、石原慎太郎vs浅野史郎の首都決戦たる都知事選挙に関して、アナウンサーが有権者が何を基準に投票したか調査した「NHKの出口調査」を伝えていた。
それによると、「人柄」を重視したが「32%」とかで最も高い確率を示し、その他をはるかに引き離していた。9日月曜日の「朝日」朝刊≪石原都知事3選 低姿勢逆風かわす・・≫でも、<朝日新聞の出口調査では、投票基準に「候補者の資質・魅力」を選んだ人が「公約や政策」を上回った。「資質・魅力」と答えた人の6割以上が石原氏に投票した。>と伝えている。
「資質」とは「生まれつきの性質や才能」(「大辞林」)を言うが、「公約や政策」を除いて見た「資質」だから、「公約や政策」の具体化に関わる「才能」部分を取り除いた「性質」主体の「資質」(=「人柄」)と見ることができる。さらに言えば、その人の「魅力」と「人柄」は相互に反映し合って表現される。
石原慎太郎の最大の「人柄」は権威主義によって色づけされているものであろう。行過ぎた権威主義が自己を何様と位置づける傲慢な態度(=自己絶対化)を生む。他人の言葉を借りて閉経した女性がきんさん、ぎんさんの年まで生きるのは「地球にとって非常に悪しき弊害」だと、誰に権利があるものではない他人の命を無益・無駄だとする、そのような他者に対する排除・差別は自己を何様と絶対化する権威主義によって可能となる態度そのものであろう。
自己を何様と思っているから、中国人を「三国人」と蔑むことができるのであり、犯罪手口と「民族的DNA」を結びつけて民族そのものの劣りであるかように見せかける断定も、自己とその自己が所属する日本民族を何様と位置づけて絶対化しているからこそできる劣等視であろう。
自己を権威主義的に何様としているから、周囲に図らずにその資格もない身内を独断で都の仕事に関係させたりすることもできる。また自分を何様と位置づけているからこそ、海外視察で1泊260万もする高級ホテルに宿泊して、唯我独尊、ご満悦気分に浸ることができる。
そういった「人柄」に惹かれて「32%」の都民が石原慎太郎に投票した。2,811,486票×32%≒899,675人の都民が人種差別、あるいは民族差別、男女差別といった各種差別の形を取って現れている石原慎太郎の権威主義的「人柄」にYESを示したということでもあろう。2,811,486票のうち、899,675票はたったと見えるかもしれないが、全体の数字に占める最大の選択目標値であることに変わりはない。
石原慎太郎の政策実現に発揮される指導力・リーダーシップ、いわば〝実行力〟を見込んで投票した都民にしても、そういった〝実行力〟が過去の華々しい経歴を勲章とした石原自身の権威主義的強権手法に助けられている部分があることから判断すると、石原慎太郎の権威主義的「人柄」に投票した899,675人の都民以外にも、間接的な形で石原慎太郎が体現している権威主義に投票した都民が相当数いることになる。
国家主義者安倍晋三が首相として登場した国家主義時代に迎合した権威主義志向なのだろうか。
当選後の記者会見で石原慎太郎は盛んに「各方面から様々なバッシングを受けた」と言っていたが、「バッシングを受ける」には自己を被害者に置くニュアンスがあり、そのことに反して「バッシングを加える」側の態度を理不尽とするニュアンスがある。
閉経女性への発言も「三国人」発言も、「民族的DNA」論も、身内重用の縁故主義にしても、海外豪華視察にしても、それらを不当とする発言はすべて理不尽な「バッシング」であって、正当な批判ではないとする意図を持った「各方面から様々なバッシングを受けた」であろう。
つまり当選早々に石原慎太郎は本来の権威主義者に戻って、不遜にも自己を何様と絶対化したのである。俺がやってきたことに対する批判はすべて理不尽なバッシングだったと。
いずれにしても、気づくと気づかざるとに関わらず、2,811,486人の都民が石原慎太郎の権威主義にYESの投票を行ったのである。石原慎太郎は当選後の記者会見で次のようにも発現している。
「都民の常識がこういう結果をもたらした」
「都民の意識の高さの結果だ」
何とまあ美しい、且つ素晴らしい都民の「常識」・「意識の高さ」か。石原慎太郎の権威主義と都民の「常識」・「意識」はある種の快感を通して通じ合ったと言うわけである。
4月(07年)3日の「asahi.com」の記事の見出しでは『「離婚後300日規定」の見直し、与党が法案提出へ』となっていたが、7日の『朝日』朝刊の見出しは『民法見直し 自民ブレーキ 離婚後出生「300日規定」』と早変りを見せている。
最初の記事の中では<自民党の中川昭一政調会長は同日午前、「今の法制度では、戸籍が得られないなど(子どもが)極めて気の毒な状況になりかねない。何としても改善をしたい」と記者団に語り、300日問題の見直しを急ぐ考えを明らかにした。>となっているが、<再婚禁止期間の短縮については「子どもの問題とは別の次元で、区別しないといけない。緊急の問題は子どもの問題だ」と語り、今回の見直しとは切り離す可能性を示唆した。>と、あくまでも「300日規定」に限定した民法見直しであることを強調している。
そもそもの見直し案を前の記事から見てみると、<300日問題での自民PT案は、妊娠時期を示す医師の証明書やDNA鑑定で離婚後に妊娠したことが明らかな場合、再婚後に出産した子の出生届を「現夫の子」として受理できるようにする内容。同様の内容は公明党のPTも了承している。>と解説している。
PTとは、「民法772条見直しプロジェクトチーム」のことだそうだ。それが4日かそこらで予想もしない急転直下の「ブレーキ」へと進展(後退?)した。なかなか効きのいいブレーキを自民党は持っているらしい。
どのような「ブレーキ」なのか、後の記事をじっくりと眺めるしかない。「ブレーキ」の内容を項目的に羅列してみる。
*中川昭一国家主義者が法相や法務省幹部から受けた説明。
「300日問題の見直しを進める与党プロジェクトチーム(
PT)の議員立法案は「『不倫の子』も救済対象になりか
ねず、親子関係を判断するDNA鑑定の信頼性にも問題が
ある」
*性道徳の観点から批判する長勢法相の意向を自民党の中川
昭一政調会長が受け入れた。
*安倍首相に代表される「伝統的な家族観」を重んじる思想
の根は、反対者はいないと楽観していた推進派の想像を超
えて深かった。
*法務省の通達見直しでは、離婚後に妊娠したことが明白な
場合を救済対象とし、離婚協議が長引いている間に妊娠し
たような事例は救済されない。
*与党PT案は300日規定だけでなく再婚禁止期間の短縮ま
で盛り込む方針をぶち上げ、これが安部政権の虎の尾を踏
んだ。
*首相に近い古屋圭司衆議院が「再婚禁止期間の短縮は、内
閣が改正案を出すのが筋だ」と異論を唱えた
*国会対策委員会幹部「離婚して別の男の子を出産しようと
はけしからん」
*安倍首相「婚姻制度そのものの根幹に関わることについて
、いろんな議論がある。そこは慎重な議論が必要だ」
*長勢法相「貞操義務なり、性道徳なりと言う問題は考えな
ければならない」
*安倍首相「家族の再生」を掲げ、伝統的な家族の価値観を
重んじていて、「わが国がやるべきことは民法改正ではな
く、家族制度の立て直しだ」と97年に議論となった「選択
的夫婦別姓」問題に反対姿勢。
*安倍首相の赤ちゃんポスト設置に見える家族観、「匿名で
子供を置いていけるものを作るのがいいのかどうか。大変
抵抗を感じる」
*安倍首相「再婚期間の短縮と、嫡出についての問題は別だ
ろうと思う」と300日問題とセットにした再婚禁止期間の
短縮に反対姿勢。
これら方針に対して、社民党福島瑞穂党首は<再婚禁止期間の短縮を盛り込んだ与党PT案に「最高ではないが、よりましな案」として賛成する意向を示していたが、<「家族の価値を振り回すのは、古い自民党や首相官邸が、困っている女性や子供の救済に無理解だからだ」と批判する。>(同07.4.7/『朝日』朝刊『民法見直し 自民ブレーキ 離婚後出生「300日規定」』)の姿勢転換。
上記「300日規定」見直しに関わる自民党反動勢力・守旧派の反対理由をキーワードで示すと、「不倫の子」・「性道徳」・「伝統的な家族観」・「妊娠時期」・「再婚禁止期間の短縮」の反対・「離婚して別の男の子を出産すること」(=離婚そのものへの忌避感)・子供は生んだ親が育てるべきだとする「伝統的な家族制度への回帰」と「伝統的婚姻制度の維持」・「貞操義務」といったところだろう。
これら盛り沢山のキーワードから炙り出すことができる思想は、「家族制度」とか「婚姻制度」とかの名前を借りて、男女の性(=SEX)まで国家で管理しようとする国家主義思想であろう。そのことは「不倫の子」、「離婚して別の男の子を出産しようとはけしからん」、長勢法相の「貞操義務なり、性道徳なりと言う問題」といった性(=SEX)に関わるコントロール欲求に如実に現れている。
女は貞操を守っておとなしく夫に従い、家を守っていろ。離婚はおろか、離婚して別の男の子を出産するなどもっての他だ。ましてや不倫して、不倫の子を設けるなどけしからんというわけなのだろう。このことはつまるところ、一人の男とのSEXを守れということでもある。裏を返すなら、当然のこととして何人もの男とSEXするなという禁止事項となる。
このことは柳沢厚労相の国家管理衝動を滲ませた「女は生む機械」思想とも相通じ合う。
つまり安倍や中川昭一などの国家主義者が掲げる「家族制度」・「婚姻制度」は女性を母親として妻として社会に従属させ、家に従属させ、夫に従属させ、子供に従属させる構図を持たせた、日本が歴史とし、伝統・文化としてきた美しい男尊女卑の「家族制度」(家族観)・「婚姻制度」(結婚観)だということだろう。
そのことは彼ら国家主義者の「家族制度」(家族観)・「婚姻制度」(結婚観)に男たちの浮気・不倫・愛人(妾)をつくるといった男の側の場面が一切含まれていないことによっても示されている。男の権利として許されるということなのだろうか。しかし男の行為だとしても、特殊な場合を除いて、女を必要とする男女相互行為である。厳密に言うなら、浮気・不倫・愛人をつくるは男の側からの行為である場合は許されるが、女の側からの行為の場合は許されないと明記しなければ、論理矛盾を放置することになる。この矛盾は男尊女卑そのもの矛盾である。
時代錯誤の制度を拠り所として自らの家族観・結婚観を成り立たせている頭の古さに気づいていない。安倍らしいと言えば安倍らしいし、中川昭一らしいと言えば、中川昭一らしいとも言える。だが、こういった旧態依然の結婚観・家族観、性意識に支配された――いわば
女性の権利に疎い、女性を守らない自由民主党が女性に支持率が高く、民主党は低いという倒錯現象はどのような理由があってのことだろうか。
中川昭一が<「子どもの問題とは別の次元で、区別しないといけない。緊急の問題は子どもの問題だ」>と「300日規定見直し」とは区別対象としている「再婚禁止期間の短縮」(asahi.com/07.4.3『「離婚後300日規定」の見直し、与党が法案提出へ』)に対する忌避感情は、つまるところSEXに関わる感情であろう。そのことは「法務省の通達見直しでは、離婚後に妊娠したことが明白な場合を救済対象とし、離婚協議が長引いている間に妊娠したような事例は救済されない」とする規定が証明している。
「離婚協議が長引いている間に妊娠し」たとしても、夫が妻を引き止めるために身体の関係を手段とすべく暴力的に妻を犯した結果妊娠したといった場合を除いて、妻側の記憶にもなく、またDNA鑑定等で証明されるなら、「救済」対象としていいはずだが、そうしないのは明確に離婚が成立しない内の夫以外の男とのSEX・妊娠などもっての他だとする忌避感情なのだろう。法律によって、いわば国家権力によって、性(=SEX)までコントロールしたい衝動の現われ以外の何ものでもない。国家主義とする所以がここにある。
妊娠・出産はSEXを介在させて成立する。〝血のつながり〟とはSEXの結果であり、SEXを前提として生じる。血のつながりを問題とすることはSEXの相手を問題とすることでもあろう。相手が誰か、正式に結婚した夫なのか、夫以外の男なのか。
だから、「不倫の子」は駄目だとか、「離婚して別の男の子を出産しようとはけしからん」といったことが問題となる。
男女とも子連れ再婚の場合、男性は自分とは血のつながりのない前夫(自分以外の男)の子供でもある女性の子供を自分の子とし、女性は自分とは血のつながりのない前妻(自分以外の女性)の子供である男性の子供を自分の子とする。このような場面では血のつながり(=SEXの相手)は問題ではない。問題としない。血のつながりを問題にしたとき、いわばSEXの相手を問題としたとき、虐待等が起きる要因となるのではないのだろうか。
ではなぜ「離婚後300日以内に生まれた子は前夫の子として扱われる」だとか血のつながり(=SEXの相手)に拘るのだろうか。例えその子が前夫の子であっても、子供をなしたSEXの相手を問題とせず、新しい夫が自分の子として育てると言ったら、単に子連れ再婚の形式を取るに過ぎないのではないだろうか。
つまり誰の子とするかは任意事項ということになる。明らかに前夫の子であると分かっていても、妊娠中に夫が浮気するといったことはよくあることで、実際に浮気してそれが露見して離婚と言うことになったとき、その子は民法の規定を待つまでもなく前夫の子となるが、女性に新しい伴侶ができた場合、それが出産前であっても、いずれは生まれるのだから、出産後なら当然のこととして、女性の方のみの子連れ再婚の形を取ってもいいわけで、新しい夫が前の亭主の子だから、俺の子とするは厭だと言うなら、いわば血のつながり(=SEXの相手)を問題とするなら、例え子供を前夫に預けたとしても、そんな人間性しか示すことのできない男との将来的な関係は危ういものとなるだろう。
とすると、離婚という段階での血のつながり(=SEXの相手)など、法律的にはどうでもいい問題とならないだろうか。あるいは離婚の前段階としての家庭内別居状況に於ける擬似離婚の段階でも同じことが言える。
親子の血のつながりを絶対的な基準としたなら、地域のつながりは形式的となる。地域のつながりを日本人の血を基準としたなら、世界を舞台とし他国人との人間対人間の関係は形式的となる。血のつながりを問題とすることは、日本人性・日本民族性で支配しようとする動きでもある。安倍以下の国家主義者たちの日本人性・日本民族性には女性に限ってSEXの相手を夫と決めた一人の男にコントロールしようとする衝動を隠している。
「家族制度」・「婚姻制度」に名前を借りた血のつながり(=SEXの相手)を問題とする国家主義的国家管理は、そのうち女たちは結婚するまで処女でなければならないとか言い出すのではないのか。
女性が夫も持ったとしても、夫以外にも好きにSEXの相手を選ぶ状況は男のコントロールが効かなくって、女たちが男たちの権力の手のヒラから自由に飛び立つことを意味する。それを恐れての法律規制・国家管理なのだろう。
この物語はフィクションであって、事実に基づいた話ではありません。
再度お断りいたします。この物語はフィクションであって、事実に基づいた話ではありません。
ここに出てくる石原慎太郎とは日本国の東京都知事・石原慎太郎のことではなく、同姓同名、年齢もほぼ同じではあるが、まったくの別人の石原慎太郎です。都知事ではありませんが、知事を職業としています。目下のところ、知事が彼の権力欲を満たす最良の機会であり、最良の手段となっています。日本人が権威主義に侵されていることを利用して自分を偉い人間の位置に置き部下を頭ごなしに怒鳴ること、出張・会合を利用しての公費でのグルメ嗜好の飽満飽食にしても、海外出張に於ける同じく公費を惜しげもなく使ったホテル宿泊は1泊200万以上の超豪華ホテルの王侯貴族気分満喫等にしても、自分を偉い権力者気取りに浸るための大事な演出手段となっている。勿論部長・課長以下、ヒラまで含めて隋員も多い。一人や二人では殿様気分を味わえないから淋しいとおっしゃる。
名誉毀損裁判の発端はあるブログで、弟の人気俳優石原裕次郎が(これもかつて石原プロの社長であった石原裕次郎とは同姓同名の別人だが)映画で競演相手の女優と結婚すると言い出すや、弟を自分の部屋に呼びつけて、「在日の女なんかと結婚するのはお前の勝手だが、絶対に子供だけは作るなよ! この石原の家系が在日の血で穢されちゃかなわんからな!」と、在日であることを理由に反対した人種差別主義者だといったことを書かれて、それは事実ではない、自分は人種差別主義者ではない、名誉を毀損されたと訴え出たことによる。
原告席に70歳を越えて髪の毛がかなり白くなった石原知事。神経質そうに瞬きを繰返し、膝を小刻みに貧乏揺すりさせている。一時も止めることができない様子。被告席に訴えられたブログ作者の女性。真緑のショートカットの髪。トンボのサングラスをかけていて、顔の半分は隠れている。Fカップどころか、異常なまでに膨らんだ胸の谷間をほんのわずか剥き出しに覗かせて、髪の毛と同じ真緑のタイトなシャツと椅子に座っているために太股を大部分曝した、ほんの腰周りしか隠していない真っ赤なタイトスカートは若いは若いが、まったく以って年齢不詳の格好に見える。イアリングにしては大き過ぎる、耳に1辺が3センチもあろうかといった金ピカに光る四角形の薄い金属板を、穴を開けた1角を頂点にした形で吊るしている。
胸の大きさはいくらでも細工できるし、どぎついばかりに真緑の髪の毛も、カツラかもしれない。裁判に負けて世間に恥をさらすことを恐れる年齢不詳が目的の装いではなく、原告が差別対象としている〝女性〟を異形の形でことさら強調して原告小バカにしようとする目的の年齢不詳を装った可能性がある。
彼女には弁護士はつかない。彼女自身が特別弁護人となって自分を弁護することになっている。
傍聴席はマスコミ関係者が殆どを占めている。訴え出た告訴人が今は亡きかつての人気俳優の兄であり、知事をしていて、テレビの番組に頻繁に出演して世間に顔を知られているということだけではなく、差別発言を繰返してくれるお陰でマスコミには格好の食いつき材料となっている〝有名人〟である。傍聴人が多く出て混雑することが予想されたことから前以て傍聴券を配布することとなり、マスコミ各社は確実に傍聴できるよう、傍聴券を手に入れるためにアルバイトを雇って我先に並ばせることにした。
ところが、一旦雇った大学生から「2千円のアルバイト料では安すぎる。他のテレビ局では同じ並ぶだけで3千円払っている。バカらしいから降りる」とクレームがつき、仕方なく4千円に上げると、それが発端となって値上げ競争に突入、ついに1万円に撥ね上がった。ところが値上がりに応じて確実に手に入れなければならない強制が働いて、3日前から並ぶとか、4日前から並ぶといった競い合いが生じて、マスコミの方も競い合いを制するためにカネをそれ相応に奮発せざるを得なくなり、とうとう1日1万円の日当で、それも2週間前から並ばせることにしたマスコミもあるといった加熱ぶりが噂となって流れた程である。
一人の大学生が「一日1万円なら、1年前から並んでもいい」と言ったとか言わなかったとか。
傍聴席には外国のマスコミも陣取っていた。石原慎太郎知事がかつて「アメリカなんかクソ喰らえだ」と発言したことが海外のマスコミに取り上げられた関係からだ。世界中から裁判の行方が注目されている、名誉あることではないか。日本人の拉致の問題にしても、世界中から注目されているわけではないのだから。注目させるだけの政治的手腕が日本の政治家にはないだけの話ではあるが。
裁判長が裁判の開廷を告げると、特別弁護人がさっと手を上げて、「裁判長、裁判の順序として、最初に大根役者石原裕次郎の妻が・・・・」
声から判断すると、かなり若い女性のようでもある。
検事と原告の石原慎太郎が同時に立ち上がって、同時に手を上げ、同時に「裁判長っ、異議あり」と声を上げた。
裁判長「被告人は静粛に。許可のない行動と発言は控えてください。検事どうぞ」
検事「弁護人の今の発言は不穏当な発言であって、取消しを求めます」
裁判長「異議を認めます。弁護人は不穏当な発言は控えるように。ことによってかつての
国民的人気俳優石原裕次郎を大根役者などと」
特別弁護人立ち上がってから、身体を動かすと巨大が乳房がブラジャーに対して座り心地が悪くなるのか、それを直すみたいに胸を下から二度三度とことさららしく持ち上げる仕草をした。「裁判長、先ほどの私の言葉は故人を傷つけることを目的に発言したものではなく、単に評価した言葉に過ぎません。仕事上の能力に関して彼は無能力だとするのも評価であって、その人間を傷つける言葉とは限りません。なぜ大根役者なのか、その評価を聞いてから、発言内容が不穏当かどうか確認すべきだと思います」
検事「裁判長」と手を上げる。それを無視して、
裁判長「大根役者という発言が評価の言葉だとするなら、それが正当な評価かどうか確かめる必要がある。弁護人、続けてください」
弁護人「私は大根役者石原裕次郎がデビューした当時はこの世にまだ生まれていなくて、どんな衝撃を与えたのか情報でしか知りようがありませんが、しかし日本の映画が廃れてテレビに出ていた頃の大根役者――」
検事「裁判長、異議あり。日本の財産である俳優の故石原裕次郎氏の名前を口にするたびに大根役者と形容詞をつけるのは故人を傷つけるものです。弁護人に改めるよう注意してください」
裁判長「異議を認めます。特別弁護人は石原裕次郎と言うたびに大根役者と前置きするのはやめるように」
弁護人「正当な評価に基づく正当な名称だと信じています。最後まで説明を聞けば、必ず納得がいくと思います。最後まで大根役者たる所以を説明させてください」
裁判長、興味を持った顔で身を乗り出す。「いいでしょう。検事の異議を却下します」
弁護人「大根役者石原裕次郎には決まりきったスタイルしかなかった。ズボンのポケットに両手を突っ込んで足を開き気味にピンと張って歩き、鼻を持ち上げる具合にして両目の間の鼻筋の部分に横皺をつくり、それが唯一最大の格好付けだった。それしかなかった。どんな役をよろうと、石原裕次郎は決まりきったスタイルの石原裕次郎でしかなかった。アクターとしての演技はどこを探してもなかった。だから、厳密な意味でのアクターでもなかった。ここに私が石原裕次郎を大根役者とする理由があります。大根役者石原裕次郎と呼ぶ以外に、どんな呼び方があると言うのです?」
石原慎太郎「バカなっ。何言ってるんだ、この女は。頭の悪い女だ」
検事「異議あり。故人を傷つける不当な評価です。認めるわけにはいきません。高名な演技者・故石原裕次郎氏に対する名誉毀損です」
弁護人「名誉毀損で訴えますか?」
検事、帽子をかぶっていなのにさっと脱ぎ捨てる格好をしてから、「訴えてやる」と叫んだ。
裁判長「検事の異議を認めます。大根役者だという評価に一理を認めるが、非難合戦となったなら、裁判が前に進まないことになる。従って、検事の異議を認めます。石原裕次郎大根役者論はこの辺で打ち切りとします」
弁護人「石原裕次郎が如何に大根役者であったか気づかずに今以てファンとなっている日本人の気が知れないし、こういったこと自体が不公平なことですが、裁判長には一理あるとお認め頂いた。光栄に思います。いずれにしても故石原裕次郎の妻が在日であるかどうかの確認作業を行うべきだと思います」
検事「異議あり」
裁判長「異議は却下します。弁護人の申し立てを申し少し聞くべきでしょう。」
弁護人「もう少し聞くべきです。彼女が在日でなかったとしても、原告石原慎太郎知事が在日の女なんかと結婚するのはお前の勝手だが、絶対に子供だけは作るなよ! この石原の家系が在日の血でけがされちゃかなわんからな!と言わなかったと断定するわけにはいきませんが、例え聞いたとする証人が現れても、発言が生じた状況を考えると、兄と弟しかその場に存在しなかった可能性からして、間接的伝聞ということになりまず。間接的伝聞は、あれはウソつきだ言われればそれまでで、録音してあるとかの物的証拠がなければ証明困難となり、名誉毀損の罪を受け入れることにします。」
検事「異議あり。在日でなかったとしても、言わなかったと断定するわけにはいかないとは発言に矛盾がある。訂正させるべきです」
裁判長「弁護人、根拠あっての発言ですか」
弁護人「世の中のことを批判したり、周囲が常識としている慣習に反対を唱えたりすると、共産主義者でも朝鮮人でもないのに、あいつはアカじゃないのかとか、朝鮮人じゃないのかとか自分たちが劣る見なした存在と同等の位置に置く決めつけを行うことで言っていることは間違いだとする誤魔化しを行うことがあります。それと同じで石原知事にしても弟の結婚相手が自分が気に入らない女と言うだけで差別の対象としている在日を持ち出して、あんな朝鮮人みたいな女と結婚は許さないと決め付けた可能性も捨てきれません」
検事「異議あり。弁護人の言っていることはあくまでも憶測に過ぎません。根拠あっての発言ではありません」
石原慎太郎が立ち上がり、弁護人を指差して、「バカなこと言う女だ。どのような欲求不満があるか知らないが、いい加減なことを言う。俺がそんなこと言うか。バカな女だ」
弁護人、嬉しそうに手をパチパチと叩く。「始まった。自分に不都合なことを言われると、欲求不満からの発言だと不当に非正当化する。石原知事がそういった人間であることを今曝した。私はあくまでも人間行為の確率高い可能性から判断して発言したまでですが、石原慎太郎知事という個人に限っると、その可能性はもはや臨界状態の高さです」
裁判長「確かに世の中の例を見れば、弁護人の主張は可能性高いと言えるし、『欲求不満』発言からも被告に当てはめ可能となるが、確かに言ったとする証拠を示すことができない限り検事の異議を認めざるを得ない」
弁護人「可能性を認めて頂けただけで、十分です。故石原裕次郎の妻が在日であるかどうかの確認をお願いします」
石原慎太郎、腕を組み、怒りを含んだ顔を不機嫌そうにしてそっぽに向ける。
検事「裁判長、改めて異議を申し上げます。大根役者――、いや人気俳優だった故石原裕次郎氏の妻であり女優だった女性の出自を世間に曝すのは彼女のみならず、日本に住むすべての在日に対する差別を煽動しかねない危険を孕んでいるゆえに、確認作業に賛成することはできません。弁護人の主張には明らかに差別の対象にしようとする悪意さえ読み取れます」
裁判長「今の検事の主張に対して、弁護人に反論はありますか?」
弁護人「私の主張は石原裕次郎の妻の出自を世間に曝そうするものではなく、裁判の進行に必要とすることから求めたに過ぎません。例え在日であると証明されたからといって、差別を煽動することにも、あるいは差別の対象とすることにつながるとは思いません。例え彼女が在日であると世間に遍く知られることになったとしても、後から来た在日であったという事実が付け加えられるだけのことです。つまり先住在日の子孫であるすべての日本人の一員になった、我々の一員になったというだけのことで、そこからは差別は生じようがありません」
石原慎太郎、立ち上がって怒鳴る。目を神経質そうにパチパチ閉じたり開いたりして、「バカがっ。日本人全員が在日だと言うのか?我々は日本人なんだぞ。根拠は何だ、根拠を言え」
検事が広げた両手を下げる仕草で、抑えて、抑えてといったふうに宥めようとしている。
裁判長「原告は静かに。許された発言のみ行ってください。勝手な発言は許されません」
石原慎太郎、裁判長を睨みつけ、何か言いたげに口を開きかけるが、神経質そうに目を余計にパチパチさせるだけで、睨みにならない。チエッと舌打ちするような仕草を見せてから、乱暴に椅子に腰掛ける。
裁判長「弁護人の今の発言はどのような意図があるのですか」
弁護人「自然人類学者であった故埴原(はにはら)和郎氏は3世紀の弥生時代前期から奈良時代に至る7世紀までの1000年間に朝鮮半島から日本にやってきた渡来人の数を数十万から100万と推定しています。このことは大阪府吹田市の国立民族学博物館教授の小山修三氏がコンピューターを駆使した検証によって証明されているそうです。その検証によると、<縄文時代の約1千年間に数千人~30万人の間を浮動していた人口が弥生時代に約4,50万人の増加を見ていて、その最大原因は大陸からの民族大移入だとしています>(<>部分(「渡来人登場」から引用)
石原慎太郎「自分に都合がいい説を持ち出したに過ぎない。わが国に於ける人口増加を渡来人によるのではなく、稲作農耕の定着と共に起こった人口の急激な増加によると考える説もあるじゃないか。確定した説はない」
裁判長「許可を取らない発言は控えてください」そこで検事が代わって
検事「弁護人の推論を否定します。わが国に於ける人口増加を渡来人によると考えるのではなく、稲作農耕の定着と共に起こった人口の急激な増加によるとする説もあります。どちらが正しい説かは未だ確定してはいません」
裁判長「弁護人、検事はそう述べていますが」
弁護人「かの有名な小説家、全然有名じゃないか、手代木恕之という隠れ作家は自著『天皇は日本人だった』で、武力を持った渡来勢力が新参者の他処者が日本をいきなり支配するのは反発を招くからとの遠謀深慮から、その当時の日本では単に勢力のある一豪族に過ぎなかった天皇家を担ぎ上げて、その陰に隠れて天皇が日本を支配したような形を取らせることで日本を統一したとする、歴史推理でしょうが、説を述べています」
石原慎太郎「ハハハ、聞いたこともない小説家だ。直木賞・芥川賞を取らなければ、小説家とは言えない」
裁判長が手を上げて許可のない発言を制止しようとしたが、弁護人がすぐさま発言したので、手を降ろす。
弁護人「そのとき築いた権力の二重構造が日本の美しい歴史と伝統・文化となって引き継がれていったと書いています。日本の歴史を貫いて名目的権力者の地位にあった天皇家に対して、物部氏、蘇我氏、藤原氏、武士の時代に入って源、北条、足利、織田信長、豊臣秀吉、徳川といっ各時代時代の実質的実力者が政治権力者として権力を握る二重構造の権力図を描いてきた。そして明治と大正の時代は薩長、昭和戦前は軍部と、常に天皇家は名目的地位であり続けた」
石原「デタラメだ」
弁護人「弥生人は渡来系だとの説が定説化しつつあります。弥生遺跡である吉野ヶ里遺跡で発掘された人骨は解剖学的に渡来系だと証明されています。我々はそのような先住在日の子孫と考えても不思議はありません。当然俳優であった石原裕次郎の妻が在日であったとしても、日本に住むすべての在日に対する差別を煽動しかねない危険を孕んでいるとする検事の指摘は的を得た指摘とは言えません」
裁判長「弁護人の主張を受け入れ、妻が在日であるかどうかの検証に進むことにしますが、検事に異議がありますか?」
検事、原告席に近づき、石原慎太郎とヒソヒソ声で話し合う。
検事「仕方がありません」
裁判長「在日であるかどうかの事実は、兄であった原告が周知していることだから、原告本人に聞くのが一番早いと思うが――」
検事、再びヒソヒソ声で相談する。検事、怒鳴りつけられているらしく、卑屈にペコペコと頭を下げている。
検事「原告は妻が在日であると証言しました」
傍聴席からどよめきが起こる。それが収まってから、
裁判長「では、原告が弟を自分の部屋に呼びつけて、在日の女なんかと結婚するのはお前の勝手だが、絶対に子供だけは作るなよ! この石原の家系が在日の血で穢されちゃかなわんからな!といった可能性はあるということになる」
検事「本人は言ってないと否定しています」
裁判長「本人の否定をすべて事実とすると、警察も検事局も裁判所も無用の長物と化す。すべての法律もいらなくなる。農水省の松岡君の否定も事実としなければならなくなる」
石原原告、怒りに握り締めたこぶしが震えている。検事は諦めたように肩をすくめた。
裁判長「弁護人は何か意見がありますか?」
弁護人「録音等の物的証拠が期待不可能の状況では、まず原告が言ったことと言わなかったことを明らかにすべきだと思います。既に世間で言ったと明らかになっていることを実際に言ったかどうか訊ねて、言わなかったと証言したら、在日の女なんか云々を言わなかったとする否定は信用できないものとなります」
裁判長「検事は今の弁護人の主張に異議はありますか」
検事「ちょっと原告と相談させてください」
二人、何やら声を抑えて言い合いの様子。石原慎太郎は時折「バカなこと言うな」とか、「お前はバカかっ」と声を荒げる。検事は一生懸命に原告の怒りを静めるような仕草を続けている。裁判長に「早くするように」と催促されて、やっと検事は裁判長に顔を向ける。
検事「承知しました。原告石原慎太郎知事は言ったことは言ったと正直に申し上げることで言わなかったとすることと合わせて自らの証言の正しさを証明すると言うことです」
裁判長「では弁護人は原告尋問と言う形で直接原告に尋問を行ってください」
弁護人、原告席に近づき、石原慎太郎の目の前に巨大なバストを突き出すようにして下から持ち上げてブラジャーへの収まり具合を直した。どう見てもわざとらしくやったようにしか見えなかった。
弁護人「あなたは2001年10月の『少子社会と東京の未来の福祉会議』で、これは僕が言っているんじゃなくて、松井孝典(東大教授)が言っているんだけど、文明がもたらした最も悪しき有害なものはババアなんだそうだ。女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪です、って。男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を産む力はない。そんな人間が、きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって・・・・。なるほどとは思うけど、政治家としては言えないわね、と発言しましたか」
石原慎太郎、目を神経質そうに盛んに瞬かせ、「言った。そうなってるんだろ」
弁護人「そのとき、男だったら、何歳まで生きる権利があると思っていましたか」
石原「そんなことまで思って発言したわけじゃない」
弁護人「知事の立場にありながら、男は何歳まで生きる権利があるとしないで、閉経した女に関してのみきんさん、ぎんさんの年まで生きるのは悪しき弊害だとするのは不公平になりませんか」
検事「異議あり。弁護人は言ったか言わなかったかを問うことだけを指示されたのであり、言った内容の是非を問うことまで指示されたわけではありません」
裁判長「聞きたい気持ちもあるが、検事の異議を認めます」
弁護人「あなたは中国人犯罪に関して、『こうした民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい』と新聞のエッセイに書きましたか」
石原「ああ書いた。書いたことは全部正直な気持だった。(検事が両手を挙げてストップをかけたが、無視して)今でも書いたことは全部正直な気持として残っている。そして、在日の女なんかと結婚云々とか、石原の家系が何とかは一言も言っておらん」
弁護人、裁判長の方に身体を向け、「この他にも原告の石原知事は三国人発言とか、三宅島火山爆発後、三宅村議員に対して、お前らバカかっとバカ呼ばわりする、相手の人格・人権を認めない独裁者もどきの差別、あるいは男女共同参画を否定するような女性差別発言等々からして、原告が人種差別感情・女性差別感情を抱えているのは誰の目にも明らかな事実です。そのことをまずお認めになって頂きたいと思います」
裁判長「まあ、事実と認めざるを得ない状況にあることだけはあると言えるが・・・」
弁護人「差別感情を抱えている人間に特有な症状ですが、原告にしてもこうも差別発言が続くと言うことは、差別に当たると気づかずに差別発言していることを証明して余りあります。無感覚に差別を行っている。人殺しを犯したあとも、相手の痛み、悔しさに無感覚な人間と同じで、始末に悪い無感覚と言えます。弟に対して『在日』発言を行ったとしても、差別発言だとは決して思っていないでしょうし、思うこともないと思われます。しかし弟の妻は後から来た在日であり、本人は先住在日の子孫であるかもしれないのに自分たちは特別な人種である日本人だと思い込む人種差別感情を始末に終えない持病のように抱えている。これらのことから状況証拠としては発言があったと仮定しても無理はないと思いますが、裁判の結果はどう出たとしても、この差別主義者を社会的及び政治的に受け入れるかどうかは別問題であって、そのことに対する評価は世間の判断に任せる以外ありません」
07年4月は3日、首相官邸で有識者による「美しい国づくり」企画会議の初会合が世界各国が注目する中、華々しく開催されたという。<同会議は、「美しい国づくり」プロジェクトの推進を表明した安倍首相の施政方針演説を受けたもの>(毎日新聞 2007.4.3)だということで、いよいよ安倍晋三は「美しい国づくり」へと着手することになったと言うわけなのだろう。それを次の12名の著名な有識者の手を借りて行う。
<石井幹子・照明デザイナー▽井上八千代・京舞井上流五世家元▽岡田裕介・東映社長▽荻野アンナ・慶大教授▽川勝平太・静岡文化芸術大学長▽庄山悦彦・日立製作所会長▽田中直毅・国際公共政策研究センター理事長▽松永真理・バンダイ取締役▽山内昌之・東大大学院教授>(07.04.02/21:26/asahi.com)
「美しい国づくり」企画会議の初会合でどのような意見が出たか、各メディアの記事からご拝見といく。重複部分は割愛。
◎毎日新聞2007年4月3日/「美しい国づくり:首相官邸で企
画会議の初会合開く」
*「遠慮を中心とした『引きの文化』を大切にすべきだ」
など、日本の魅力を再評価すべきだとの意見が相次いだ
。
◎TBS 07.4.03日21:29/「美しい国づくり」企画会議が初
会合
*美しい国について「日本人らしい、生活の中での所作や
慣習を引き継いでいかなければならない」
*日本の美しさを、国民から意見や写真などの形で募集す
る企画について意見交換した。
◎asahi.com 07.04.02/21:26「美しい国づくり」国民運動
に 官邸が有識者会議設置
*「美しい国づくり」について国民から意見を募り、「日
本らしさ」を国内外に発信するという。
*世耕弘成首相補佐官「国民に美しい国とは何かをしっか
り考えてもらう運動で、押しつけではない」
◎日テレ24 07・4/4 1:35/「美しい国づくり」有識者会議
が初会合
*安倍首相「国民一人一人が美しさを考えてほしい」
*世耕補佐官は「日本の美しさに気づいてもらう運動にし
たい」
◎京都新聞/井上八千代さんら委員に 政府の「美しい国づ
くり」企画会議
*塩崎官房長官「地域や足元から日本ならではの美しさを
見つめ直し、日本の未来に向けて新たな可能性を国民参
加の形で議論していきたい」
◎北海道新聞04.04. 07/「日本の美しさ」に国民の意見を募
集 「国づくり」会議、初会合
*安倍晋三首相「満開の桜も一つの日本の美しさの象徴。
国民運動的なものにつなげていきたい」
*委員「来年で千年を迎える源氏物語には日本の美の原点
がある」
*委員「すしなどの食文化や物作りを重視する文化」
*委員「地域間で概念を競い合うのはどうか」
*「日本らしさを漢字一文字で募ったらどうか」
◎時事通信2007/04/03-20:08
*安倍晋三「日本中の至るところに、日本の美しさは満ち
あふれている。そうしたものを見詰め直していく必要が
ある」
◎西日本新聞朝刊07.04.04/政権半年また新会議 「美しい
国」像 いまだ見えず 官邸で初会合
*安倍心臓「日本人が古来持っている美しさ、新しく生ま
れつつある美しさを再認識して内外に発信する必要があ
る」
*初会合で出された「日本らしさ」は「教科書の歴史認識
がフェア」「敬語の文化」など十人十色。
*世耕補佐官「1億3000万通りの『美しさ』の中で共感を
得られるものを会議で上げて世界に発信する」
*委員「内向き、排他的な議論になってはいけない」と注
文が付いた
◎TBSニュース03日21:29/「美しい国づくり」企画会議が初
会合
*安倍首相「日本の美しさ、日本人の美しさとは何かを問
い直していただいて・・・」
*この会議は、安倍総理が打ち出した、日本の良さを再認
識して内外に発信するという「美しい国づくり」プロジ
ェクトの推進に向け、具体的な企画を検討するために設
けられた
*委員、美しい国について「日本人らしい、生活の中での
所作や慣習を引き継いでいかなければならない」
* * * * * * * *
大いに結構毛だらけ、猫灰だらけ、と葛飾は柴又の寅さんなら言うだろう。全体的・統一的な思想・哲学を基本としているわけではない。極めて個別的・項目的な羅列となっている。「遠慮を中心とした『引きの文化』」、「国民から意見や写真などの形で募集」した「日本の美しさ」、「地域や足元から」「見つめなおした」「日本ならではの美しさ」、「源氏物語」から探した「日本の美の原点」、「すしなどの食文化や物作りを重視する文化」、「日本らしさを漢字一文字で募」る、「日本中の至るところに」「満ちあふれている」「日本の美しさ」(安倍)、「日本人が古来持っている美しさ、新しく生まれつつある美しさ」(同安倍)、「フェア」だという「教科書の歴史認識」や文化だと言う「敬語」等々――そういったものを掻き集めて、「美しい国づくり」ができると心底思っているのだろうか。心底思っているとしたら、よほどの単細胞に出来上がっているとしか思えない。
ガラクタを掻き集めるように集めて「美しい国づくり」ができるなら、何も今さら安倍晋三のお出ましを願って音頭取りして貰わなくても、誰かがとっくに「美しい国、日本」をつくり上げていただろう。特に「神の国」首相だった森喜朗なら、その「神の国」思想と美食で下っ腹がでっぷりと突き出た贅肉相応のふくよかさを兼ね備えた「美しい国、日本」をつくり上げていたに違いない。
安倍晋三は言う。「日本人が古来持っている美しさ、新しく生まれつつある美しさを再認識して内外に発信する必要がある」。そのために12人もの人間に招集をかけた。
だがである。安倍晋三は昨06年9月の自民党総裁選への立候補に当たって政権構想「美しい国、日本」を発表している。それによると、子供たちの世代が自信と誇りを持てる「美しい国、日本」を国民と一緒に創りあげていくことを目標として掲げ、<目指すべき国のあり方として>次のようにイメージしている。
(1)文化、伝統、自然、歴史を大切にする国
(2)「自由」と「規律」を知る、凛(りん)とした国
(3)未来に向かって成長するエネルギーを持ち続ける国
(4)世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国――だとしている。
「目指すべき国のあり方」としてこれこれと列記した。それら項目は安倍晋三が理想とする国(=「美しい国、日本」)としてこうあるべきだとデザインした姿を言うはずである。「美しい国、日本」を実現させる具体的イメージ策なくして、あるべき姿は思い描くことは不可能なのだから、具体的イメージ策あっての政権構想「美しい国、日本」だったはずである。
いわば安倍晋三の頭の中に具体的なイメージ策あっての「美しい国、日本」に向けた「美しい国づくり」という経緯を取らなければならないはずで、関係閣僚にそれを示して、その実現を具体化できる案を与党と計らって纏めるよう指示すれが事は済む。
ところが「美しい国づくり」に着手するに12人もの有識者の手を借りなければならないと言うことは、安倍晋三は具体的イメージなくして理想の国の姿を思い描いたのだろうか。思い描いただけではなく、政権構想としてぶち上げた。だとしたら、何とも器用な男だ。
どうしたら「文化、伝統、自然、歴史を大切にする国」とすることができるか、そのような「国づくり」に向けた具体的イメージ策を頭の中に持たずに「文化、伝統、自然、歴史を大切にする国」を「美しい国、日本」の骨格の一つとしたということになる。改革の具体的イメージ策もなく改革を叫ぶような器用さである。具体的な思想も哲学もなく、観念的な把え方しかできないのは自分で自分が単細胞な人間だとは気づかない人間が陥る短絡反応であろう。国の指導者であるから、余計に始末に悪い短絡反応となる。
それ以前の問題として、民族性としての「日本の美しさ、日本人の美しさ」があると思っている単細胞はもはや如何ともし難いほどに救い難い。我々は日本人として行動するわけではない。我々が一見日本人として行動しているように見えるのは、たまたま国籍を日本とする両親の間に生まれ、自分も日本国籍を有した人間であり、集団の中で生活する関係から、その集団性(=日本人性、あるいは日本人の民族性)の影響を受けた言動(思考と行動)を取ると言うに過ぎない。
人間は個人として行動する。いや、個人として行動しなければならない。如何なる個人も、民族という集団単位の上に位置するからだ。集団の中で行動しながら、個人として行動しなければならない。
民族という集団は日本民族のみ、ただ一つ存在するわけではない。人間が自らが所属する民族性に支配されて個人としての行動を取れなかった場合、他の民族に所属する人間と個人対個人の公平・公正な関係構築は不可能となる。同じ日本人同士の関係に於いても、個人対個人の関係でなければ、公平・公正な関係は築くことはできない。特にグローバル化の世界では、民族性を超えることが必須条件となるはずである。
極端な例を挙げると、自らが所属する民族の自己中心主義に支配されて個人としての姿を取り得ない人間は他の民族の個人と公平・公正な関係と築けるだろうか。戦前の日本人は日本民族優越意識に侵されていたゆえに、中国や朝鮮、その他のアジアの国々、それらの国民と個人対個人の対等な関係を持てず、常に自らを上の優越的位置に置いた関係しか築くことができなかった。「日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ延テ世界ヲ支配スヘキ運命ヲ有スル」とする行動を取り、その美しい果実が業者だけではなく、天皇の大日本帝国軍隊も関わった強制従軍慰慰安婦行為や強制連行労働、あるいは南京虐殺であろう。
個人として行動するとは、自律的存在として行動することを言うはずである。さらに自律とは、自らの行動を他者の意志・判断に支配されることも依存させることもなく、責任意識を付き纏わせた自らの意志と判断に従って、自らが自らを律する主体性を持って行動する態度を言わなければならない。
逆に個人としての自律を獲得できない行動を取ったとき、人間は会社や国家、あるいは最上位の民族といった集団性に支配された行動を取ることになる。
例えば、日本人は責任を取らない、無責任体質だと、それが日本人の一般性(=日本人性)とされているが、それは集団を優先させてその中に個人を埋没させることで個人を非自律的存在としていることからの責任の個人から集団への拡散が起因した民族性・日本人性に支配された無責任性であろう。
とすると、「日本の美しさ、日本人の美しさ」を優れた価値として、それを「再認識」させようとする安倍「美しい国づくり」企画会議は、「再認識」なる意識作用が認識した価値を〝受容〟する、あるいはさせる最終プロセスによって完成することから、「日本の美しさ、日本人の美しさ」を以って日本人性・民族性とし、そのような日本人性・民族性の価値体系に国民を統一しようとする動きであり、そのことはそのまま個人を安部自身が創り出した日本人性・日本民族性に支配しようとする国家主義の衝動からの「美しい国づくり」と言うことにならないだろうか。
その証明として安倍晋三首相の「満開の桜も一つの日本の美しさの象徴。国民運動的なものにつなげていきたい」を挙げることができる。
「満開の桜」は日本の風景を美しく彩る一つのアイテムではあろうが、〝日本〟という国そのものの美しさを表す存在物でも象徴でもないし、日本人という国民の美しさの現れとし存在するわけでもない。多分、安倍晋三は桜の美しさをその美しいままに日本人及び日本民族の精神に投影したい欲求を抱えているのだろう。日本人及び日本民族が桜の美しさと等しい美しい精神を獲得したとき、「美しい国、日本」は完成すると。
だが、桜の美しさを人間の絶対的、あるいは永遠の精神的価値とすることが可能などと考えることは人間が利害の生き物であるという基本認識を忘れることによって可能となる誇大妄想に過ぎない。しかも不可能な価値観で日本人・民族の統一を図ろうとする。当然自由な個人性は否定され、戦前の日本人の精神を天皇主義・軍国主義で統一し、総動員したように何らかの国家主義的イデオロギーを必要とする。安倍主義と名づけることとなる国家主義的イデオロギーが。
安倍晋三は間接的にだが、「桜」に関わる発言を過去にも行っている。
<「国のために死ぬことを宿命づけられた特攻隊の若者たちは、敵艦にむかって何を思い、何といって、散っていったのだろうか。(略)死を目前にした瞬間、愛しい人のことを想いつつも、日本という国の悠久の歴史が続くことを願ったのである」(『美しい国へ』)
「(国を)命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」(『この国を守る決意』)>(ONLY NEWS 「【総裁選】「語録」から見る安倍新総裁 靖国、歴史、改憲、核」)
日本という国を守り、日本を美しい国とするためにはかつての特攻隊員のように「国のために死ぬ」国民、「命を投げうってでも守ろうとする」国民の必要性を訴えているいる。特攻隊員に譬えたのだから、それは戦前の「天皇のため・お国のために命を捧げる」行為への要求であり、それを以て愛国心とするということでなければならない。こういったことが安倍晋三の意識の中にある国民のありようなのであり、「美しい」国家なのである。
特攻隊員は死を以って「天皇のため・お国のために命を捧げる」自らの行為を桜の散り際のよさと関連づけて、そのように潔くあろうと心の支えとした。
「山桜は、かつて(戦前)は、愛国心の象徴とされた花で」、神風特攻隊の最初の4部隊が、本居宣長の和歌である「敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」から取って、「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と名付けられと、『ヤマザクラ(山桜)』というHPに出ている。
それ程までにも特攻隊員と桜、あるいは「大和心」(=大和魂)と桜は精神的に密接に結びついていた。結びつけることで、双方を優越的な価値に置いた。当然、安倍晋三は特攻隊員の生き様を国民のあるべき姿として持ち出すことで、その象徴たる「桜」を間接的に持ち出していたと言える。
安倍晋三の愛国心とはそういう愛国心だということである。
本居宣長が言う「大和心」(=大和魂)など日本人が押しなべて一律的に持っているわけではない。持てるわけでもない。一人の人間が「大和心」を発揮したとしても、一生を通して発揮できる精神性でもない。人間は自己利害に応じて態度を変えるからだ。
日本の軍隊は戦前の予科練(海軍飛行予科練習生)の同期生をも桜に譬えている。「同期の桜」としてつくられた「作詞西條 八十・作曲大村 能章」の軍歌の1番の歌詞を見てみる。
「貴様と俺とは同期の桜
同じ兵学校の庭に咲く
咲いた花なら散るのは覚悟
見事散りましょ国のため」
かくかようにも桜は愛国心とも密接に結びついている。戦前国家主義者の安倍晋三の国家主義的心情と桜の花が結びついていないはずはない。安倍晋三の「満開の桜も一つの日本の美しさの象徴。国民運動的なものにつなげていきたい」に於ける「桜」にも、特攻隊員の桜と散る心情(=戦前の愛国心)が染めこまれていると見て間違いはない。
『日本史広辞典』(山川出版社)から「さくら【桜】」の項目を見てみる。
「バラ科サクラ属サクラ亜属の落葉樹。日本を代表する花。奈良時代から植栽されているが、詩歌での扱いは梅が圧倒しており、中世に逆転する。名所としては奈良時代以来吉野が有名。桜が日本原産であるとする考え方は、江戸時代になって現れ、さらに日本にしかないという解釈にいたる。この見方は、明治以降のナショナリズムと結びつき、教育の現場を通して軍国主義を支える観念となっていった。」
「桜が日本原産であるとする考え方は、江戸時代になって現れ、さらに日本にしかないという解釈にいたる」とする桜の美しさを日本だけのものとし、その美しさを日本人・日本の国に当てはめて美しいと譬えることで日本人・日本の国を優越的位置に置く独善的な思い込みは、「敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」の和歌を通して「大和心」(=大和魂を備えた日本人)を桜の美しさに譬えてその優越性を謳った本居宣長一人だけのものではなく、日本や日本人に限った「日本の美しさ、日本人の美しさ」を掻き集めてそれぞれを優越的な位置に置き、それを多くの日本人が共有することで「美しい国づくり」が可能とすることができるとする独善的思い込みに通じるものがある。
いや、「日本にしかないという解釈」が出発点となった「日本の美しさ、日本人の美しさ」が固定的にあるとする「美しい国、日本」なる「美しい国づくり」という思い込みなのかもしれない。
「日本の美しさ、日本人の美しさ」はこれもそうだ、あれもそうだ、こんなものもある、あんなものもあると言い立てていって、日本の社会に「日本の美しさ、日本人の美しさ」のオンパレードで溢れ返らせたなら、日本に住む外国人、特に自国の文化を保とうとするイスラム系の人間や韓国・北朝鮮系、あるいはその他は俺たちには住めないのではないかと肩身を狭くするのではないだろうか。
戦前に於いて「天皇のため・お国のため」を統一的な国民的価値観にしたように、「美しい国づくり」企画会議が炙り出したり、新たに創り出したりした「日本の美しさ、日本人の美しさ」を多くの日本人が統一的国民的価値観とし、同質性を露にしたとき、「大和民族が日本の国を統治してきたことは歴史的に間違いない事実。きわめて同質的な国」だとした伊吹文部科学相発言を側面から補強することにもなるに違いない。そこから当然のこととして、同じ伊吹発言である「悠久の歴史の中で、日本は日本人がずっと治めてきた。」とする、例えそれが事実だとしても、その事実に透けて見える優越意識と重なり合いを見せることになる。
最後に夏目漱石の「三四郎」の中の、三四郎が旧制高校を卒業して東京帝大に入学するために初めて上京する汽車の中での広田先生と出会って言葉を交わすシーンを引用してみる。
広田先生「あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより以外に自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったもんだから仕方がない。我々が拵えたものじゃない」
富士山を桜に置き換えるとよく分かる。「三四郎」は1908(明治41)年発表だという。安倍首相の頭に取り憑いている発想と当時の日本人の発想と殆ど変わっていない。いや、それ以前の江戸時代の人間とも変わりはないのでないか。