伊藤市長銃撃/安倍晋三が望んだ〝広義の意味でのテロ〟

2007-04-20 07:20:43 | Weblog

 前回ブログ記事『安倍式従軍慰安婦「強制性」解釈からの伊藤長崎市長銃撃事件』の最後の部分、「他の者のテロ反応に対しての安倍首相の「真相究明を望む」は、従軍慰安婦問題の強制性とのバランスから、テロ以外に動機を求めた「真相究明」――〝広義のテロ〟を望んだことから発した言葉ということなのだろうか。」を自分で読み直して、一瞬、何を言おうとしたのだろうと疑った。

 書いた本人が言おうとした意味を受け取れなかったのだから、意味不明とした読者もいたと思う。何を言おうとしたのだろうと暫く考えて、やっと分かった。要するに言葉足らずが原因なのが分かった。言葉足らずでも理解できた読者には余計なお世話となるが、抱えてしまった消化不良を改めてアルコールを注いで活性化させたいと思う。最終部分を今一度書き出すと、

 <但し政治活動阻止が直接の動機ではなく、私怨が動機であったが確定されたとしても、結果として自由であるべき政治活動を停止させることになったし、市長自身の言論を奪うこととなった。

 このことは一般の殺人事件にも言えることで、殺害することによって、殺害された者の自由であるべき活動・自由であるべき言論を結果として奪うこととなる。いわば広義の意味でのテロ被害と言えないことはない。

 このような構図を厳密に解釈するなら、戦時中の従軍慰安婦は行きたくはなかったが、行かざるを得なかったような広義の意味での強制性はあったが、軍や官憲が直接家に乗り込んで連れて行ったりした狭義の強制性はなかったとする安部式従軍慰安婦「強制性」解釈に習うなら、「広義の意味でのテロ、もしくは言論の封殺はあったが、狭義のテロ、言論封殺はなかった」と解説すべきではないだろうか。

 とすると、他の者のテロ反応に対しての安倍首相の「真相究明を望む」は、従軍慰安婦問題の強制性とのバランスから、テロ以外に動機を求めた「真相究明」――〝広義のテロ〟を望んだことから発した言葉ということなのだろうか。>――

 前ブログ記事で『朝日』の社説(07.4.18.<またも長崎市長が撃たれた。――>)を取り上げた。前回は引用しなかったが、伊藤市長の反核活動を伝える箇所だけを取り上げてみる。

 <伊藤氏は被爆地ナガサキの市長として核廃絶運動の先頭に立ち続けてきた。>
 <伊藤市長は95年には国際司法裁判所の法廷で証人として立ち、「核兵器使用が国際法に違反していることは明らかであります」と世界に訴えた。核保有国の核実験には抗議を重ねた。>
 <北朝鮮の核実験に関し、日本国内で自民党幹部から核保有論議の容認発言が出ると、「看過できない」として非核三原則堅持と外交での解決を求めた。>

 以上の経緯と伊藤氏が自民党の支援を受けて市長選に当選したという経緯から考えると、自民党や自民支持派の核容認派には確実に面白くない存在であったろう。

 そのような存在状況にあった伊藤長崎市長に対する銃撃が純粋に襲撃対象の政治主張を圧殺して自らの政治主張を満足させようとした、あるいは実現させようとした暴力行為としてのテロであったなら、まず第一番に疑われる攻撃主体は核容認派であろう。

 犯人が逮捕されて、その人間が狂信的な民族派の核保有主義者の一人であったなら、核容認派としては都合が悪い。家宅捜査が入って、安倍晋三著『美しい国』が何冊も部屋の本棚に並べられたりしていたなんてことがあったなら、なおさら始末に悪いし、そのことが世間に報道されたなら、核保有派の国家主義者安倍晋三の立場・人気を貶めることになりかねない。

 事件を知らされるや、テロだった場合の自分に降りかかるかもしれない状況を咄嗟に嗅ぎ取ってテロでないことを願い、いわば従軍慰安婦問題と同様に、いつの日かの核保有に向けて日本国家の責任を逃れることができる「広義の意味でのテロ」を望み(こんなテロまで起きていて、まだ核議論があっていいなどと言っているのかということになりかねない)、「狭義の意味のテロ」とはならない「真相解明を望む」というコメントになったのではないかという、十分に考えられる勘繰りというわけ。


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