日本人は口先だけの国民で推移するのか
「朝日」4月12日(07年)朝刊≪温首相国会演説(要旨)≫から。
<友情と協力のために、不幸な歳月の歴史的教訓を総括する必要がある。日本が発動した中国侵略戦争で中国人民は重大な災難に見舞われ、中国人民の心に言葉では表せないほどの傷と苦痛を残した。戦争は日本国民にも苦難と痛みを改めた。
侵略戦争の責任は、ごく少数の軍国主義者が負うべきであり、一般の日本国民も被害者であり、中国人民は日本国民と仲良く付き合わなければならない。
中国政府と人民は、歴史を鑑として未来に向かうことを主張している。歴史を鑑とすることを強調するのは、恨みを抱え続けるのではなく、歴史の教訓を銘記して、よりよい未来を開いていくためだ。
中日国交正常化以来、日本政府と日本の指導者は何回も歴史問題について態度を表明し、侵略を公に認め、深い反省とおわびを口にした。中国政府と人民は積極的に評価している。日本側が態度の表明と約束を実際の行動で示すことを心から希望している。
――(攻略)――>
後段部分の「日本政府と日本の指導者は何回も歴史問題について態度を表明し、侵略を公に認め、深い反省とおわびを口にした」。しかし「日本側が態度の表明と約束を実際の行動で示すことを心から希望している」について。
これを裏返すと、「反省とおわびを口にした」が今以て「実際の行動で示」していないとなり、厳密に解釈するなら、口先だけで終わらせていると読み取り可能となる。「反省とおわび」は約束不履行のまま今日に至っているということだろう。
温家宝首相は「日本政府」や「日本の指導者」と日本国民を分けているが、それぞれが独立して存在するわけではなく、同じ日本人性で通じ合った同質的存在である。完璧に別個の存在として扱うことはできない。ということは、本人が意図していなくても、口先だけは日本人全体が担っている性向と受け止めなければならない。
百歩譲って、温首相が口先だけは「日本政府」や「日本の指導者」だけのことと意図したとしても、それでも日本国民全体に降りかかる問題であろう。口先だけの「日本政府」や「日本の指導者」は国民の選択にかかって存在しているからだ。いわば「日本政府」や「日本の指導者」が口先だけであるとするなら、そのことに日本国民は深く関わっていることになる。
尤も日本側には、十分に謝罪は尽くされた。中国の戦争賠償請求放棄に対して、日本側は在外資産放棄と、謝罪と償いの意味を込めたODA等を通した「経済援助」によって、相当な補填を行ってもいる、「実際の行動で示」していないなどと、言いがかりに等しいと受け止める日本人も多いに違いない。
例えその受け止めが国際的な認知を得ていたとしても(得ていないから、アメリカで日本軍の従軍慰安婦問題で日本政府に「明確な謝罪」を求める決議案が下院に提出されるのだろうが)、具体的行動が伴っていない、口先だけで終わらせていると見なしている中国側の判断との食い違いは事実として残る。
その食い違いを埋める努力は日本側も負うべき責任事項であろう。何度謝ったらいいんだ、歴史認識問題は決着している、首相の靖国参拝は国内問題、中韓の非難は内政干渉だし、事実誤認に基づいていると言うだけでは片付かない〝事実〟であることは、そのことが信頼関係構築を左右する重要な要因となるからなのは言を俟(ま)たない。
食い違いを埋めないままの信頼関係に裏付けられたものではない経済的利害追及優先の戦略的互恵関係では、小泉靖国参拝や歴史教科書問題、日本の国連安保理常任理事国入り活動等への反発に端を発した中国の大規模反日デモに象徴される危険な状況を恒常的に背中合わせに抱えることにならないとも限らない。
「朝日」の13日(07年4月)の朝刊が<12日夜に東京都内のホテルで開かれた温家宝首相の歓迎パーティー>で、温家宝首相の後に続いて<安倍首相は「温首相の演説は歴史に残る素晴らしいものだった」と持ち上げた。「議員から何回も大きな拍手がわき起こった。私が演説しても拍手するのは与党の議員だけ。温首相が大変うらやましい」と招待客の爆笑を誘った>と、安倍首相のご機嫌麗しい反応を報じている。
首相就任前は高飛車な短絡反応一辺倒で中国を悪しざまに罵っていながら、就任した途端に態度を変える、君子でないからできる豹変を演じて見せたが、そのような豹変を可能とした安倍晋三特有の無神経な破廉恥性から類推して、日本人は口先だけの人間集団で終わっていると読み取り可能な暗黙の示唆を解読する神経が働かなかったことからのご機嫌の麗しさではなかったか。蚊に刺された程の痛みも痒みも感じなかったということだろう。
もしも並の神経を普通に働かせていたなら、日本人は口先だけの国民と歴史に刻まれかねない国会演説を「歴史に残る名演説」などと持ち上げることはできなかったろう。何とも締りもない情けない姿である。
同じ13日金曜日の「朝日」朝刊には創価学会名誉会長の池田大作も都内のホテルで温首相と会談し、<国会演説を「不滅の名演説だった」とたたえた上で、「氷を溶かす旅は大成功」と評価した>(≪中国・温家宝首相 池田大作氏と会談≫)と出ているが、日本人は口先だけだと読み取り可能なニュアンスを無視して「不滅の名演説」とは、池田大作にしても安倍首相並みのお粗末・貧弱な感受性しか持ち合わせていないらしい。
「氷を溶かす旅」は、両国間の今後の課題として目的としたまでのことで、温来日はそのキッカケに寄与すべく意図したに過ぎず、「溶か」し終わったわけではない。「実際の行動で示すことを心から希望している」と改めて懸案の宿題を持ち出して、日本の側からの〝溶解〟を促してもいる。国家関係というものが相互反応関係にあることを無視して、中国側が何もかも「氷を溶か」してくれると思っているのだろうか。何を勘違いしたのか、勘違いできる単純さは羨ましいくらいに美しく、素晴らしい。さすがは巨大宗教団体の名誉会長を務めるだけのことはある。宗教家とは名ばかり、所詮政治屋なのだろう。
温家宝首相は前段で「侵略戦争の責任は、ごく少数の軍国主義者が負うべきであり、一般の日本国民も被害者である」と日本国民を無罪放免としているが、日本政府や政治権力者を一般国民と分けたとしても、温首相の責任論は一面的な事実を示しているに過ぎない。天皇主義・軍国主義を頭から妄信した積極的な追従、あるいは客観的認識性もなく、当然主体的自律性を持てずに周囲に追随・同調する形の機械的惰性の追従、あるいは事勿れな日和見から傍観者の位置に自己を置いて、結果として軍国主義を許した、知識人に多い間接的追従等が国民の側にあり、政治権力側の戦争遂行圧力と国民の側の各種追従とが渾然一体となって相互に反響し合い、増幅し合って侵略性を高めていき、全体的に加害集団と化していったのである。
決して「一般の日本国民も被害者である」で終わらせるわけにはいかない。少なくとも共犯の位置にあった。日本人自身が自ら終わらせているところに日本人の無責任性が存在する。それを隠すために、正義の戦争だった、自存自衛の戦争だったとするこじつけを必要事項としているのだろう。
但し、「侵略戦争の責任」を「ごく少数の軍国主義者」に負わせて、「一般の日本国民」にはないとする温家宝首相の論理は日本民族優越論や日本民族無誤謬論を意識に根付かせている日本の国家主義勢力にとっては、日本人は全体的には誤っていなかった、部分的欠陥に過ぎなかったとすることができて、一応は歓迎すべき論理であり、その箇所に限ってとしたら、安倍首相の「歴史に残る名演説」は的を射た評価とすることができる。
尤も安倍首相にとっては東条英機を筆頭としたA級戦犯を国内法では犯罪人ではないと擁護して復権を目論んでいる手前、「一般の日本国民」の無罪放免のみを認めることは悩ましいジレンマを抱えることになる。
安倍晋三にしたら、「一般の日本国民」以上に「軍国主義者」を無罪放免させてもらいたいと願っているのではないだろか。そう願っていないとしたら、国家主義者たる所以を失う。あるいは国家主義者としての存在理由を失う。
中国が「軍国主義者」をも無罪放免としてくれたとき、A級戦犯は「国内法」という一国性を超えて、いわば「国内法では」という限定を付ける必要もなく、その煩わしさ・牽強付会から解き放たれて国外的にも犯罪人の烙印が抹消可能となる。
そのことは合祀している靖国神社を誰に憚ることなく心置きなく参拝できるといったことだけではなく、参拝衝動を衝き動かしている日本民族優越論、あるいは日本民族無誤謬論が100%論理破綻を免れて、日本人、あるいは日本民族のあからさまな勲章とすることも可能となるだろう。
だが、それは願いとしてあるだけで、「日本側が態度の表明と約束を実際の行動で示す」がクリアすべき課題であることに変わりはなく、クリアしたとしても、日本国民が口先だけの国民であることは免れることはできるが、そのことは同時に「侵略戦争の責任は、ごく少数の軍国主義者が負うべき」とする中国側の責任帰属論の日本側からの承認を意味し、その確定を決定づけるだけのことで、軍国主義者の責任は永遠に立ちはだかるし、そうなれば当然のこととしてA級戦犯の靖国神社への合祀反対の事実も何ら変わることもなく永遠に残ることになる。
窮屈に息を潜ませている日本民族優越論、あるいは日本民族無誤謬論を曲がりなりにも生き返らせるには、「ごく少数の軍国主義者」のみを悪者とし、「一般の日本国民」を無罪放免とする中国側の責任帰属論の受け入れは一つのチャンスではあるが、安倍国家主義者はそれに逆らって、「日本側が態度の表明と約束を実際の行動で示」さずに、「ごく少数の軍国主義者」の名誉回復をも通して日本民族優越論、あるいは日本民族無誤謬論の完全復活を狙う国家主義者らしいと言えば国家主義者らしい欲張った努力を今必死に続けている。
断るまでもなく、教育基本法の改正、憲法改正等を手段とした「戦後レジームからの脱却」(=戦前肯定・戦後否定)である。結果として日本国民は〝口先だけ〟が読み取り可能といった域を超えて、事実として「歴史に残る」、あるいは「不滅の」事実となる危険水域に向かう栄誉を獲得しかねない。このことは日本と中国は真の信頼関係を築くことができないまま両国関係は推移していくことと同義語をなす。