安倍式従軍慰安婦「強制性」解釈からの伊藤長崎市長銃撃事件

2007-04-19 10:11:23 | Weblog

 「狭義の意味でのテロ、もしくは言論封殺はなし」

 18日(07.4)の早朝の「日テレ24」だったと思うが、市長選さ中の長崎市長がピストルを撃たれて病院に搬送されたと聞き、最初は市長が掲げていた核廃絶主張を封殺する目的のテロなのかと思った。

 自民党政調会長・中川昭一が北朝鮮が核実験を行ったとき、「核があることで攻められる可能性は低いという論理はありえるわけだから、議論あっていい」とか、「欧米の核保有と違ってどう見ても頭の回路が理解できない国が(核を)持ったと発表したことに対して、どうしても撲滅しなければいけないのだから、その選択として核という(論理はありうる)」(06.6.15「朝日」朝刊)と発言していて、その発言に理解を示したり、容認する勢力が一方にある。当然そのような勢力の主張を阻む非核政策堅持勢力、あるいは核廃絶勢力が存在し、相互に対峙する関係を持つことによって、言論を超えた攻撃が生じることも考えられるからだ。

 18日「朝日」朝刊の社説も、≪長崎市長銃撃 このテロを許すまい≫となっている。その出だしは、<またも長崎市長が撃たれた。
 この卑劣なテロは断じて許すことはできない。>となっている。

 記事半ばではこのようにも言っている。<相手が言うことをきかないからといって、暴力で封殺するようなことがまかり通れば、言論の自由が封じ込められた結果、国の進路を誤った戦前の暗い時代に後戻りすることになりかねない。>

 思想・信教の自由、言論の自由といった基本的人権の保障を否定する挑戦に対しては、過剰すぎるくらいに過剰に反応すべきであろう。国家権力からの、あるいは国家権力に組する勢力からの基本的人権の保障は常に絶対ではなく、今後とも絶対となることはないだろうから、常日頃から絶対に向けて努力しなければならないからだ。

 国家権力はその内側に暴力団性を衝動として抱えている。あるいは眠らせている。時と場合に応じて、その目を覚まし、牙を剥く。国家権力が右翼と近い関係にあるのはそのためだろう。左翼国家権力は極左勢力と結びつき、利用する。

 だが、市長を銃撃した指定暴力団山口組系水心会会長代行城尾哲弥なる容疑者の動機が、昨日の日中既にテレビで報じていたが、「市発注の歩道工事のくぼみに車が転落した事故に対する補償や知人の会社への融資などをめぐって市とトラブル」(07.4.18「朝日」夕刊)ということが事実なら、現在のところは私的トラブルを原因とした逆恨みからの殺人行為であって、民主主義の手段を超えて一定の政治目的を実現させようとした暴力行為、いわば「テロ」であったとは言い難い。

 私的トラブルが実際は表向きの理由で、政治目的を隠していた犯行ということが判明したと言うことなら、勿論のこと、テロに姿を変える。

 動機が私怨であるなら、凶器が拳銃は暴力団会長代行だから使用可能とした、あるいは入手可能だったという簡便性と実行の確実性、それらを利用した私怨の強さの表現でもあるだろう。一般の犯罪者の入手可能な凶器がナイフや包丁類であることの簡便性と実行の確実性(一般人にしたら、ナイフや包丁はより確実度の高い凶器であろう)とさして変わらないことになって、拳銃に特別な意味づけは難しいのではないか。

 因みに一般犯罪者は刺す行為・殴る行為の反復度によって恨みや憎しみの程度を表現する。

 勿論今回の事件が政治的な言論封殺・言論弾圧を目的として拳銃を使用したと言うことなら、言論に対する言論を民主主義の基本的ルールとする以上、暴力団だから使用可能としたということを超えて、民主主義のルールを言論に代えて破壊する手段の程度の問題としての意味・象徴性を持つ。

 伊藤一長市長の前市長だった本島等氏を地元の右翼団体構成員が1990(平成2)年1月18日に拳銃で襲撃し、重傷を負わせた動機は、市長が市議会で行った「天皇に戦争責任はあった」とする発言を封殺する、天皇擁護の立場からの明らかに政治目的を持ったテロであったろう。言論の自由、思想・信教の自由の一線を超えて本島市長一人の口を封ずるのではなく、主だった一人を封じることによって、天皇に戦争責任があるなどといった発言をする人間は誰だって許さないぞという見せしめを持った、一人を超えて、全体に向けたテロ――言論及び思想・信条の自由に対する挑戦であったろう。

 また60年安保騒動で騒がしいさ中の1960年(昭和35年)10月12日に右翼少年の山口二矢(おとや・17歳)が日比谷公会堂で行われていた3党首立会演説会で壇上で演説中の旧社会党委員長の浅沼稲次郎をナイフで襲い殺害した行為も、その政治活動を停止すべく謀った政治目的からのテロ――政治的な口を封じるための凶行だったと確実に言える。

 山口二矢は内ポケットに一通の書面を忍ばせていたという。

 「汝、浅沼稲次郎は日本赤化をはかっている。自分は、汝個人に恨みはないが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と、訪中に際しての暴言と、国会乱入の直接のせん動者としての責任からして、汝を許しておくことはできない。ここに於て我、汝に対し天誅を下す。 皇紀二千六百二十年十月十二日  山口二矢」(「浅沼社会党委員長暗殺事件」このHPは当時の状況を詳しく解説している。

 決行期日に「皇紀」を使ったことと、決行前に口ずさんだ自作の和歌の内容(「千早ぶる神の大御代(おおみよ)とこしへに、仕えまつらん大和男子(おのこ)は」/同HP)、さらに決起文の時代がかった言い回しから判断すると、固定観念に凝り固まった天皇主義者であり、日本民族主義者、今で言う原理主義者であったのだろう。

 勿論、動機が明らかになるまでの今回の政界の反応には止むを得ないものがあるが、それにしても似たり寄ったりの内容には驚かされる。

 (テレビ朝日/4月18日・昼)
 東国原宮城県知事「そういった暴力が自由を奪う、言論を奪うというのは卑劣な行為だと思いますね。民主主義に対する冒涜・挑戦、あるいは否定につながりかねない行動ですので、なくしていかなければならないと、私はそう思います」
 記者「同じ首長としてですね(「くびちょう」と言っていたが、「主張」といった言葉と分かりやすく区別するために「くびちょう」なる使い方を慣習としているのだろうか)、選挙期間中に銃撃されるっていうのは、どうです?」
 東国原「非常に、あのー、由々しき問題ですよね。まことに遺憾だと言うしかないですね」
 
 (TBS・夕方の「イブニングニュース」/4月18日)
 安倍首相「選挙運動中の凶行というのは民主主義に対する挑戦です。断じて許すわけにはいかないと思います。(以下、4.18「朝日」夕刊から)こうした暴力を断固として撲滅していかなければならないと思う」
 小沢民主党代表「本当に残念でありますと同時に強い憤りを感じております」(勿論、時間のかかる物言いで)
 大田公明党代表「如何なる理由があろうと、暴力は談じて許されることではないと――」
 志位共産党委員長「自由と民主主義に対する最も凶暴な攻撃であって、絶対に許すことはできない――」
 福島社民党党首(マイクを3本握っていたから、選挙応援演説中の訴えなのだろう)「表現の自由や政治活動の自由を侵害するという行為を本当にみなさん、許さないように一緒に、本当に心を合わせましょうと申し上げたいと思います」

 それぞれが言っていることのキーワードを一纏めにして眺めてみると、みな同じで、内容もごく当たり前のこと、紋切り型の発言となっていることが分かる。

 「自由を奪う」、「言論を奪う」、「卑劣な行為」、「民主主義に対する冒涜・挑戦、あるいは否定」、「自由と民主主義に対する最も凶暴な攻撃」、「民主主義に対する挑戦」、「表現の自由や政治活動の自由の侵害」

 17年前の本島等前市長のテロ襲撃のときも似たり寄ったりの言葉を使って、同じように言ったのではないだろうか。逆説するなら、17年前の言葉が何ら有効ではなかったことを物語っている。今回の言葉も、どれだけ有効かはなはだ疑わしい。

 そして安倍首相の「こうした暴力を断固として撲滅していかなければならないと思う」はこれまで「撲滅」が何ら機能していなかったことへの意識が一切ない。言うや易く、行うは難しの問題であることへの意識もない。決まり文句として口に出しただけだからだろう。

 一方、<事件発生直後は「真相究明を望む」と短いコメントを出すにとどめた安倍首相の姿勢に対し、野党から批判の声も上がった。社民党の又市征治幹事長は「表現・政治活動の自由、選挙運動を暴力で圧殺することに対し、一国の総理としては極めて残念なコメント」と指摘。国民新党の亀井久興幹事長は「暴力行為で言論を封殺することへの憤りをまず言われてしかるべきではないか」と疑問を示した>(asahi.com/ 2007年04月18日17時20分)と批判されているようだが、それに対して安倍首相は18日夜の首相官邸で、<「こういうことでお互いに批判をすることはやめた方がいい。私も3回目の選挙だったが、選挙期間中に深夜、自宅に火炎瓶を投げられたこともある」と語った。その上で、「真相が究明されることを望む」としたコメントについて「(発生)直後だから、まず真相を究明すると言うのが私は正しいと思う」と反論した。>(『朝日』朝刊≪対応批判に首相反論≫)と今朝の『朝日』朝刊(07.4.19)で抗弁している模様が報じられているが、だからと言って、テロなのかどうか判明しないうちのテロと判断した対応が間違っていて、「真相究明を望む」だけの安倍首相の美しい対応の方が正しかったとするわけにはいかない。
 
 「深夜、自宅に火炎瓶を投げられたこともある」と言うならなおさら、自分の経験の学習からテロの可能性に言及があってもよかっただろう。 

 安倍首相はかつて衆院特別委で「我が国が自衛のための必要最小限度を超えない実力を保持するのは憲法によって禁止されていない。そのような限度にとどまるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは憲法の禁ずるところではない」と美しい発言を行っている。

 伊藤市長が自民党の推薦を受けて市長選に当選しているものの、核保有衝動に関して安倍首相とは反対の立場にあることから、ついよそよそしい反応をした、あるいは距離を置いたことからの短いコメント反応ということもあり得る。しかも批判されたからなのだろう、上記したように18日の夕方のTBSが伝えているように、「選挙運動中の凶行というのは民主主義に対する挑戦です」と対応を非難の方向に変えている。その夜になって「私は正しいと思う」などと自己正当化するのは自己都合のキレイゴトでしかない。

 安倍首相の「選挙運動中の凶行」という非難は、それが民主主義の手段を超えて一定の政治目的を実現させるべく謀ったテロでなく、単なる私怨から発した凶行ということなら、拳銃を凶器としたのと同じく、「選挙運動中」は犯行決行の一つのチャンスに過ぎなかったということになって、特別に非難の対象とすべき事柄ではなくなる。犯行対象に容易に接触可能とさせる〝よい折〟だったと機会の問題に帰す。

 いわば政治家であり、たまたま「選挙運動中」であったが、政治活動そのものを狙った犯行ではなかった。厳密にはテロではないし、言論封殺でもないとなるなら、一般市民の一般生活中の犯罪被害と同列に入る部類と言えるのではないだろうか。

 元来から恨みに思っていた伊藤市長がマイクに向かって喋る選挙演説がスピーカーを通して音量を増幅させ場所を弁えずに流れてくる。その声が遮る術もなく耳に入ってくること自体に苛立ち、かねてからの恨み・憎悪を煮えたぎらせたということもあるかもしれない。

 もし今回の事件でテロ非難から「選挙運動中の凶行」非難へと方向転換するなら、一般生活者の一般生活中の事件も同じ経緯を取る関係から、あらゆ事件を取り上げて、首相自らが「生活中の凶行」と非難するのでなければ、公平を欠くのではないだろうか。政治家が特別というわけではないからだ。

 自民党の中川昭一政調会長の「公衆の面前でああいう事件が起きることは日本の治安と民主主義への挑戦だ」(asahi.com/2007年04月18日17時20分)にしても、「公衆の面前」で起きた一般殺害事件も「日本の治安と民主主義への挑戦だ」と非難するのでなければ、はやり公平さを欠くことになる。

 但し政治活動阻止が直接の動機ではなく、私怨が動機であったが確定されたとしても、結果として自由であるべき政治活動を停止させることになったし、市長自身の言論を奪うこととなった。

 このことは一般の殺人事件にも言えることで、殺害することによって、殺害された者の自由であるべき活動・自由であるべき言論を結果として奪うこととなる。いわば広義の意味でのテロ被害と言えないことはない。

 このような構図を厳密に解釈するなら、戦時中の従軍慰安婦は行きたくはなかったが、行かざるを得なかったような広義の意味での強制性はあったが、軍や官憲が直接家に乗り込んで連れて行ったりした狭義の強制性はなかったとする安部式従軍慰安婦「強制性」解釈に習うなら、「広義の意味でのテロ、もしくは言論の封殺はあったが、狭義のテロ、言論封殺はなかった」と解説すべきではないだろうか。

 とすると、他の者のテロ反応に対しての安倍首相の「真相究明を望む」は、従軍慰安婦問題の強制性とのバランスから、テロ以外に動機を求めた「真相究明」――〝広義のテロ〟を望んだことから発した言葉ということなのだろうか。


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suguni安倍批判 (安信)
2007-04-19 14:30:04
>社民党の又市幹事長、国民新党の亀井幹事長が首相発言に対する感想を記者に求められ、「一国の総理として極めて残念なコメント」「憤りをまず言われてしかるべきではないか」などと批判したことも伝えた。

人の死を政治宣伝に利用しようとする言としか思えませんね。
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