国家護持意識から発した国主導の靖国神社合祀

2007-04-01 11:54:38 | Weblog

  3月28日・29日(07年)の両日、各新聞・テレビが国立国会図書館が国会に提出した「新編靖国神社問題資料集」(非公開)に収録の内部文書(靖国神社所蔵の「靖国神社合祀者資格審査方針綴(つづり)」の一部)によって、戦犯合祀が厚生省援護局と靖国神社の協議(と言うか、談合によってと言うべきか)進められてきたことが判明したと一斉に報じた。朝日・読売・日経・産経等のインターネット記事から、合祀に至る経緯を時系列的に列記してみる。

◎1956年、当時の厚生省が戦没者の靖国神社合祀について、
 「3年間で完了するよう協力する」という要綱案を作成。
  同年以降、厚生省は合祀の資格要件に該当する戦没者に
 ついて、神社からの照会に応じる形で、都道府県などの協
 力も得て「祭神名票」を作成、神社に送付。
  合祀基準を決める同省と神社の協議は神社の社務所に厚
 生省側が出向く形で行われた。
◎1958年4月のBC級戦犯に関する協議。厚生省担当者「個
 別審議して差し支えない程度で、しかも目立たないよう合
 祀に入れては如何(いかん)。研究してほしい」と提案。
  神社側「総代会に相談してみる。そのうえでさらに打合
 会を開きたい」(産経)
◎1958年9月の第7回打合会。厚生省「全部同時に合祀するこ
 とは種々困難もあることであるから、まず外地刑死者を目
 立たない範囲で了承してほしい」とBC級戦犯の合祀を先
 に決定するよう打診。(産経)
◎翌1966年2月8日に厚生省援護局調査課長名でA級戦犯の祭
 神名票(合祀者名簿)を神社に送付。手続き上は合祀可能
 となるが、保留状態が続く。
◎1969年1月の検討会でA級戦犯「合祀可」を両者が確認。
◎1978年10月、A級戦犯合祀。
◎翌1979年8月、当時の藤波孝生官房長官の私的懇談会とし
 て「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」(靖国懇)
 が設置される。
◎1979年11月19日の「靖国懇」第4回会合。人間はすべて罪
 人であるとするキリスト教の立場からは、戦没者の中でA
 級戦犯だけを区別するのはおかしい」との意見。一方「大
 平(正芳)総理がそこへ参拝したことは、やはりそれを国
 が権威付ける、正当化するという意味合いを否定できない
 」との反論。(Sankei Web)
◎1980年8月15日、「靖国懇」が纏めた首相や閣僚に靖国公
 式参拝を促す報告書に従って、中曽根首相、公式参拝を行
 う。

 次に政府の対応――
◎安部首相「問題ない。合祀を行ったのは神社だ。(旧厚生
 省は)情報を求められ(資料を)提出したということでは
 ないか」と憲法の政教分離原則には抵触しないとの姿勢。
 (産経新聞)
◎塩崎恭久官房長官「最終的に合祀の判断をするのは神社だ
 。(国が)強制しているということではない」(産経新聞
 )
◎塩崎「旧厚生省は旧軍の人事資料を持っていたことから、
 昭和61年度までは靖国神社を含めて、遺族、戦友会などか
 らの調査依頼に対して一般的な調査回答業務の一環として
 回答してきた」(産経新聞)

 次に〝赦免〟に関わる意識の点で戦犯赦免と合祀は共通項を描くはずだから、その流れを見てみる。

◎1952(昭和27)年――サンフランシスコ平和条約締結。日
 本独立。政府は講和条約発効後、各国にA級戦犯を含む全
 戦犯の赦免・減刑を要請。
 戦犯釈放運動が全国に広がり、4千万人の赦免要望の署名
 が集まる。
◎1952(昭和27)年6月9日、参議院本会議において「戦犯
 在所者の釈放等に関する決議」。
◎同1952(昭和27)年12月9日、衆議院本会議において「戦
 争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」。
◎1953(昭和28年8月3日、衆議院本会議で「戦争犯罪によ
 る受刑者の赦免に関する決議」が社会党も含めた全会一致
 で可決。
◎同1953(昭和28)年、戦犯刑死者を戦死者と同じ扱いにする
 「戦傷病者等遺族等援護法」及び「恩給法」の改正を全会一
 致で可決。戦犯の遺族にも戦没者の遺族と同様に遺族年金
 を支給されることになる。
◎1955(昭和30)年、「戦争受刑者の即時釈放要請に関する
 決議」が成立。
◎1956(昭和31)年、サンフランシスコ講和条約第11条の手
 続きに基づき、関係11カ国の同意のもと、「A級戦犯」は
 赦免され釈放。
◎1958(昭和33)年までに「BC級戦犯」赦免され釈放。赦
 免・釈放をもって「戦犯」の名誉は国際的にも回復された
 と見なす主張が取り沙汰される。

 次にどの部署が合祀決定権を持っていたのか、「Sankei Web」に記載されていた陸軍省の「合祀資格審査案」(1944(昭和19)年7月18日付)を見てみる。

、<軍人について(1)戦死、戦傷死はことごとく合祀(2)病死は内地港湾を出発後、2カ月以上勤務した者は自己の重大な過失でない限り全部合祀(3)自殺は自己の重大な過失や「破廉恥」でない者はなるべく合祀――と規定。軍属は「軍人に比しさらに厳選主義とし、死没当時の任務および状況により詮議する」
 これに対して靖国神社側は「陸海軍省で一定の基準を定めていたようであるが、極秘に取り扱われていたため確実なことは分からない」>としていたとのこと。

 合祀基準の決定権が陸海軍省にあったことを示している。だから、「陸海軍省で一定の基準を定めていたようであるが、極秘に取り扱われていたため確実なことは分からない」という靖国神社側の対応状況を生み出していたのだろう。

 これは当然のこととして、旧陸軍・海軍両省の業務を引き継いだ厚生省援護局と靖国神社の関係にも反映されていなかっただろうか。

 その証拠として示すことのできる「asahi.com/06年07月29日08時35分」の「朝日新聞社が入手した同省の文書」からの記事だとする『合祀、国が仕切り役 都道府県別にノルマ』を概略引用してみる。

◎1956年夏(独立回復後4年経過)、厚生省は翌年春の靖国
 神社の例大祭に備え、何人を合祀するか都道府県に引揚援
 護局長名の「合祀予定者の数は概(おおむ)ね20万人とし
 、各都道府県別の合祀予定者は別紙のとおりとする」「ノ
 ルマ」を課す通知「援発三〇四六号」(8月8日付)を送
 付。
◎停滞していた合祀を進めるため、この年から国と地方自治
 体が一体となって進めた3年計画の一環だとしている。
◎同1956年、全国戦没者遺族大会が開かれ、靖国神社を国の
 管理下に置く「国家護持」要求を決議。
◎都道府県の担当者は戦没者の氏名・階級・本籍・生年月日
 ・死亡時の所属部隊・死亡年月日等を新たな合祀の仕組み
 として編み出しされた「祭神名票」というカードに記入。
 それを厚生省経由で靖国神社に送り、その戦没者を例大祭
 の時期に「祭神」として合祀する。
◎同1956年8月8日付の引揚援護局復員課長からの通知「復
 員五八八号」は、「合祀予定者数は各都道府県別割当数の
 10%以内の増減は差し支えない」「靖国神社の作業の関係
 もあり、特に期限を厳守すること」と指導。作業停滞の都
 道府県には「示された合祀予定者の数に達するよう努力さ
 れたい」(57年6月6日付)との「ハッパ」をかける復員
 課長名の通知を出している。
◎1969年3月3日付の都道府県の担当課長に指示する援護局
 調査課長名の通知「(靖国神社は)今秋創立百年記念の祭
 儀を実施する計画であり、終戦後24年を経過していること
 などの関係からも、同社としてはこの際、戦没者の合祀に
 ついては一段落したい意向である。都道府県においては祭
 神名票はその全部を提出するようご配慮願いたい」とさら
 に徹底した合祀を狙っている。

 (これら上記内容は塩崎官房長官の「旧厚生省は旧軍の人事資料を持っていたことから、昭和61年度までは靖国神社を含めて、遺族、戦友会などからの調査依頼に対して一般的な調査回答業務の一環として回答してきた」(産経新聞)とする説明をはるかに逸脱した厚生省の対応となっている。とすると、下記態度は差し障りのない範囲の言い分ということになる。)

◎旧厚生省の調査課に配属されていた元男性課員の言葉「も
 ともと、靖国神社は軍の機関ですよ。厚生省は軍の残務整
 理をするところで、軍の業務を継承する私たちが戦没者の
 調査票を作って、靖国神社に送るのは当然でしょう。私も
 不肖の身をもって処理にあたりました」
  「どんな議論があったのか」との質問に、「そこまでは
 知りません。(戦犯は)国内的には公務死として認められ
 ているから、靖国神社に名簿を送るのも事務屋として当然
 のこと。誰をまつるかを決めるのは、靖国神社の崇敬者総
 代会の判断ですから」
◎海軍出身で援護局で復員業務にあたった千葉県内の男性(
 92)「死亡が判明すると戦死公報を作り、関係都道府県に
 送ると同時に、靖国神社にも一緒に配っていたというのが
 海軍の実情。終戦前からの習慣のようなものでした」――
 * * * * * * * *
 まず日本政府による「講和条約発効後、各国にA級戦犯を含む全戦犯の赦免・減刑を要請」という事実、さらに「戦犯釈放運動が全国に広がり、4千万人の赦免要望の署名が集」まったという事実を前提として議論を進めなければならない。このような政と民を合わせた(当然官も入るだろう)広範な〝赦免意識〟の裏を返すなら、戦争を間違った戦争と見ていないことの裏返しとしてある意識の表れでなくてはならない。敗戦からたった7年やそこら経過しただけの時点で赦免意識を前面に押し出すことができた。幼い娘を犯罪によって酷い形で殺された大抵の親が、何十年、何百年経っても犯人を許すことはできないだろうことから考えたなら、戦争を起こした人間に対する怒りの気持が如何に薄いものだったかを物語って余りある。

 このことは「アジアの人々に多大な苦しみを与え、痛切なる反省と心からのお詫びの気持を表明する」といった公式謝罪が如何に口先だけのものであるかも証明している。

 つまり日本の戦争は間違っていなかったという思いから発した戦犯赦免がそれとつながる別の形の赦免の具体化でもある合祀作業を国と地方自治体と靖国神社を一体化させて行わしめた要素と言えるのではないか。その一体作業によって合祀に於ける最終目標であるA級戦犯合祀まで完成させたものの、そのような合祀作業に反して多くの国家主義政治家とそれに追随する多くの官僚たち及び多くの戦没者遺族が願望して止まない実体的な体制としての「靖国神社を国の管理下に置く『国家護持』」は未だに実現していない。だが、法による戦犯赦免とその具体化としてのA級戦犯まで含めた合祀の形による〝赦免〟との二重の赦免を実現させたと言うことは、心理的には「国家護持」体制を実現させているということでもあろう。

 「国家護持」の衝動が衝動のままで終わっているとしたなら、先には進まない状況にあるはずで、旧厚生省が「全部同時に合祀することは種々困難もあることであるから、まず外地刑死者を目立たない範囲で了承してほしい」とBC級戦犯の合祀を先に決定するよう打診することもないし、A級戦犯の祭神名票(合祀者名簿)を神社に送付するといった手続きを取る必要も生じなかっただろう。実際にはA級戦犯合祀にまでこぎつけた。これを以て心理的な「国家護持」の完成と言えないだろうか。いわば「国家護持」を隠した形での「国家護持」の完成ということだろう。

 当然、総理大臣を筆頭とした国会議員の靖国神社参拝は心理的な「国家護持」体制を具体的な形として表現するための儀式でなければならず、最終・最高の理想形として、首相及び天皇の公式参拝が残された絶対条件となる。

 また首相の靖国神社参拝が問題になるたびに国立追悼施設建設の話が持ち上がるが、「例え国立追悼施設が建設されたとしても、靖国神社に代わるものではない」とする政府側の大方の姿勢も、靖国神社が心理的には既に「国家護持」体制となっていることに対応した反応でなければならない。そして首相参拝問題が立ち消えると同時に追悼施設の話題も立ち消えることとなるのも心理的な靖国神社国家護持体制派が圧倒的大勢を占めていることに影響を受けた趨勢としてある現象であろう。

 逆の形勢であるなら、国立追悼施設建設の声は維持され、時の経過と共に高まっていくはずである。

 靖国神社を心理的に国家護持体制化している主だった政治家を見てみる。錚々たる単細胞の面々を見ることができる。

 森元首相「(国立戦没者追悼施設建設は)私はできないと思っている。靖国神社に対する日本人の気持がある」(06年5月28日/テレビ朝日・サンデーモーニング)

 「靖国神社に対する日本人の気持がある」とは、「代わる施設はない」と同義語であろう。さすがに日本国を「神の国」と思い定めただけのことはある。

 小泉首相「わだかまりなく追悼できる施設は検討してもいいと思うが、いかなる施設をつくっても、靖国に代わる施設はありませんよ」(05年6月17日/官邸での記者会見)

 片山自民党参院幹事長、上記小泉発言に関して、「国のために亡くなった方をまつるのは靖国神社だけという一種のコンセンサスがある。(新たな追悼施設は)国民が受け入れるとは思えない」

 これも「代わる施設はない」と同義語。

 小泉首相「(新しい追悼施設について)靖国神社に代わる施設と誤解されている面もある。どのような施設が仮に建設されるにしても、靖国神社は存在しているし、靖国神社がなくなるもんじゃない」(05年6月20日/日韓首脳会談へ出発前の官邸記者会見)

 靖国神社絶対信奉の態度を窺うことができる。こういった態度は国民には直接見せなくても、国民からは見えない場所では官僚には見せているだろうから、官僚がそれを受けて行動しないと言うことはまず考えられない。

 安倍官房長官「政府が検討している新たな戦没者追悼施設については、国民世論の動向を見つつ、諸般の状況を見ながら、検討していきたい。靖国神社を代替する概念で検討しているわけではない」(05.11.2.朝日朝刊)

 安部晋三が首相として靖国を参拝して内外の反発を招き再び国立追悼施設問題が持ち上がったなら、「例え新しい施設ができたとしても、靖国神社を代替する施設ではない」と同じことを言うに違いない。

 ざっと見ただけでも、彼らの心理に靖国神社が如何に確固とした形で「国家護持」体制化しているかを窺うことができる。このような美しい国家主義者が抱えている心理的な靖国神社国家護持体制意志から判断するだけでも、合祀が靖国神社側からの要請ではなく、国主導であることが証明できる。

 だが、「靖国神社に代わる施設はない」と断言しつつ、安部以下、塩崎もその他も、「靖国神社による合祀であって、旧厚生省は資料を提出したに過ぎない」といった政府無関係説を唱える。人間が美しくできているからこそできる美しいまでの詭弁であろう。

 最後に「Sankei Web」が「新編靖国神社問題資料集」(非公開)には<20年8月27日の美山要蔵陸軍大佐(後に厚生省引揚援護局次長)による東条英機元首相(陸軍大将)との会見記も含まれ、東条元首相は「未合祀の戦死・戦災者、戦争終結時の自決者も合祀すべきである。これを犬死にとしてはならぬ。人心安定、人心一和の上からも必要である」と、軍人、民間人の区別をしないよう主張していた。>(2007/03/29)と伝えている。

 東条英機は安部晋三が最も尊敬している美しい人間の一人であり、「A級戦犯は国内法では犯罪人ではない」と擁護してもいる。安部晋三にとっては東条のその言葉は特に重いものがあるに違いない。東条と会見した美山要蔵陸軍大佐が後に引揚者や戦没者の処理を扱う厚生省引揚援護局次長となっている。当然、東条の意志が彼ら国家主義者の意志に連動していないと見ることはできない。

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