「統帥乱れて信を中外に失う」
再引用――『文藝春秋』・「『小倉庫次侍従日記』昭和天皇戦時下の肉声」(解説・半藤一利/07年4月号発行)<昭和15年9月26日――河内(ハノイ)に於いて中央よりの命令に違反し、出先陸軍に於いて重大事件ありたる模様なり>
半藤氏解説<軍令部次長、参謀総長の上奏は、この日に行われた北部仏印進駐に関するものである。国策となった南進政策の実行で、はじめはフランスとの交渉妥結を見てからの平和進駐の予定であった。そこへ参謀本部作戦課が割り込んでくる。時間のムダであるというのである。結果、強引に陸軍部隊を越境させ、フランス軍との交戦という失態を招いた。平和交渉のため苦心していた現地の責任者は窮地に立ち、東京に打たれた電報「統帥乱れて信を中外に失う」は、昭和史に残る名言となっている。日本の武力進駐に対抗して、アメリカは屑鉄の全面禁輸という強硬政策を断行した。>
「強引に陸軍部隊を越境させ」た軍人はWikipediaによると、陸軍特攻隊の創設者でもある富永恭次なる陸軍中将らしい。
『富永恭次――Wikipedia』、<富永恭次(とみなが きょうじ、1892年1月2日 - 1960年1月14日)は長崎県出身の大日本帝国の陸軍中将。陸軍士官学校第25期。陸軍特攻隊の創設者。海軍中佐富永謙吾の兄。
経歴
1939年9月に参謀本部第1部長に就任するが北部仏印進駐時の専断が咎められ左遷される。のち1941年4月人事局長として中央に復帰、東條英機の腰巾着のあだ名を持つ。1943年3月陸軍次官と兼任、東條内閣総辞職と共に失脚。1944年8月、新陸相杉山元によって第4航空軍司令官に転出させられる、9月8日マニラに着任した。杉山が「やっといい口があったので富永を出せた」と言っていたという証言もあり、左遷であったことは疑いない。
特攻隊出撃前の訓示では「諸君はすでに神である。私も必ず後を追う」と言ったが、特攻隊をすべて出撃させたあとは、1945年1月16日出征先のフィリピンのエチャーゲ南飛行場から台湾台北へと護衛戦闘機を伴って会議を口実に撤退した。その後胃痛を理由に温泉療養で体を休め、十分英気を養う。2月13日、大本営は第4航空軍司令部の解体を発令した。
台湾への移動は一応口実をつけてはいたものの、上官である第14方面軍司令官の山下奉文大将にも無断でおこなわれるなど、誰が見ても敵前逃亡そのものであった。陸軍中央でも問題になり、1945年2月23日待命、5月5日予備役編入の処置をとったが、「死ぬのが怖くて逃げてきた人間を予備役にして戦争から解放するのはおかしいのじゃないか」という声があり、7月に召集されて第139師団の師団長に任ぜられた、満州の敦化(とんか)に赴かせた。この部隊は関東軍の主力が南方に転出した後の穴埋め用根こそぎ動員部隊の一つである。8月ソ連参戦、そして終戦ののち富永はシベリアのハバロフスク収容所に抑留され、1955年4月18日引揚船の興安丸で舞鶴港に帰国している。
参考文献
高木俊朗『陸軍特別攻撃隊』 1~3 (文春文庫、1986年)>――
なぜかあの美しい松岡農水相を富永恭次に重ねたくなる。社会的・国家的に重要な上層に位置していながら、無責任な人間はどの時代にも、どのような社会にも存在する。これからも存在し続けるだろう。「美しい、規律を知る凛とした国」など、国次元で表現しようがない。
直接の名指しはないが、このことはベネディクトが『菊と刀』でも取り上げている。
<俘虜たちは彼らの現地司令官、とくに部下の兵士たちと危険と苦難とをともにしなかった連中を、口をきわめて罵った。彼らはとくに、最後まで戦っている令下部隊を置去りにして、飛行機で引き上げていった指揮官たちを非難した。>(『世界教養全集7』平凡社)
富永以外にも美しき同じ穴のムジナがいたのか、ここでは複数扱いとなっている。だがこの言及は戦前の日本人の天皇に対する絶対的忠誠との対比に於いて書いたものである。
<多くの俘虜たちがいっていたように、日本人は「天皇の命令とあれば、たとえ竹やり一本のほかになんの武器がなくても、躊躇せずに戦うであろう。がそれと同じように、もしそれが天皇の命令ならば、すみやかに戦いをやめるであろう」「もし天皇がそうお命じになれば、日本は明日にでもさっそく武器を捨てるであろう」「満州の関東軍――あの最も好戦的で強硬派の――でさえその武器をおくであろう」「天皇のお言葉のみが、日本国民をして敗戦を承認せしめ、再建のために生きることを納得せしめる」
この天皇に対する無条件、無制限の忠誠は、天皇以外の他のすべての人物および集団に対してはさまざまな批判が加えられる事実と、著しい対照を示していた。
・・・・・・
天皇の最高至上の地位はごく近年のものであるにも関わらず、どうしてこんなことがありうるのであろうか。>(同『菊と刀』)
「俘虜たち」の何と「美しい、規律を知る凛とした」態度だろうか。安倍晋三が知っていたなら、涙を流して喜ぶだろう。「これこそ目指す日本だ」と。
日本人「俘虜」たちは自分の言っていることの矛盾に気づいていない。戦陣訓で「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」と規定されていながら、「たとえ竹やり一本のほかに」武器を持っていたはずであろうに、「躊躇せずに」アメリカ軍に降伏し、「天皇の命令」もなく、兵士個人としては「すみやかに戦いをやめ」、「武器をお」き、「武器を捨て」、「生きて虜囚の辱を受ける」といった天皇への「忠誠」に反する不忠誠を犯しながらの〝天皇賛美〟なのである。
何とも気楽な美しい言行不一致・自己矛盾だが、天皇を賛美することで、その絶対的姿と自分たちを結びつけて、「生きて虜囚の辱を受け」た自分たちの情けない醜態、卑小さに代えようとする一種の栄光浴がなさしめた矛盾なのだろう。
友達にバカにされた子供が「ウチのお父さんは会社の社長で偉いんだぞ」と言うようなものである。偉いお父さんと自己を結びつけて、僕だって偉いんだと思わせようとする。
【栄光浴】とは<高い評価を受けている個人・集団と自己との結びつきを強調することによって自己評価や他者からの評価を高めようとする方略>『社会心理学小事典』有斐閣)とある。
天皇は「大日本帝国憲法・第1章 天皇」で以下のように規定されている。
第一条
大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第二条
皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
第三条
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第十一条
天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」
にも関わらず、その統帥権は絶対ではなく、軍部に握られていた。「神聖ニシテ侵スヘカラス」の扱いを受けていなかった。だから、「統帥乱れて信を中外に失う」といったことが起こり得た。中国の戦線拡大も軍部の独断専行で行われたものであろう。
明治以降の天皇の絶対性は、最初は藩閥政府が、次いで軍部が自分たちの思うが侭に国民を動かすための魔法の杖として利用した絶対性に過ぎなかった。国民だけが信じていた絶対性であり、〝天皇賛美〟に過ぎない。
かくかように安倍首相が賛美する戦前の日本は「美しい、規律を知る凛とした国」とは無縁の状況にあった。「戦後レジーム」によって、それが失われたわけではない。「戦後レジームからの脱却」を手段として、戦前の存在しなかった「美しい、規律を知る凛とした国」を目指そうすること自体、矛盾でしかなく、倒錯的妄想に過ぎない。
最初に言ったように、国次元では表現しようがない「美しい、規律を知る凛」なる倫理観でもある。人間は自らの自己利害性に邪魔されて、個人的にも表現することは難しいだろう。
しかし、倒錯的妄想に過ぎないにも関わらず頭から信じているところを見ると、安倍晋三の「美しい、規律を知る凛とした国」といった主張は、「俘虜」たちが「天皇に対する無条件、無制限の忠誠」を一生懸命に言い立てて、その絶対性と自己を結びつけることによって自己の卑小さを高めようとした栄光浴と同じく、「美しい、規律を知る凛とした国」とするには、「美しい、規律を知る凛とした」人間でなければその資格はないことを利用して
さも自分がそのような人間であると見せかける栄光浴次元の取り繕い、自己美化なのだろう。
そのことは選挙対策で消費税隠しや郵政民営化造反除名議員を復党させるといった美しくない政策が既に証明していることで、どうしようもなく「美しい、規律を知る凛とした」人間とは無縁な人間に出来上がっていることを暴露してしまっている。無縁だからこそ、「美しい、規律を知る凛とした国」なる栄光が必要なのだろう。
「美しい、規律を知る凛とした」態度を自分自身が常に体現し、周囲に示せば完結する問題でありながら、それさえもできず、国全体としては表現しようがない「美しい、規律を知る凛とした国」を掲げる。普通の目の持主なら、自民党議員の面々を一目見ただけで不可能な国づくりだと理解できるはずだが、人間の人間知らず、客観的認識性ゼロの幸せな美しい脳ミソに出来上がっているからなのだろう。