敬語と天皇と社会的姿

2007-01-07 07:17:20 | Weblog

 前日(07.1.6.土曜日)のブログ「日本のモノづくりの優秀さと〝美しくない〟社会的姿との落差」で、次のように書いた。

 「国民・民族の優劣は社会的姿の優劣で判定すべきを、日本人はモノづくりに優れているからと、あるいは誰と誰がノーベル賞を取っているからと、限定的な才能を基準として優れているとしている間は、世の中は何も変わらないのではないだろうか。優秀さの根拠・源泉を日本人一人一人の姿・ありようとは関係ないにも関わらず、2000年の歴史とか万世一系とか、男系天皇とかに置いて日本及び日本人の誇りとしている。その愚かさに気づいていない」と。――

 この日本人の才能と実際的な社会的姿との関係は日本の敬語についても言えるのではないだろうか。敬語は相手を敬って使う言葉であるが、話し手の人間性を表現する言葉ともなっている。丁寧な言葉を使うことによって、自身の社会的常識と人格を同時に表現する。政治家の敬語を多用した言葉の数々、あるいはテレビ番組で討論相手に使う丁寧な言葉の数々は自身の清廉さと国民のための政治を行う政治家だということ、即ち国民を大事にしていますといった自らの人間性・姿勢を同時に訴えるメッセージともなっているはずである。

 テレビに出る芸能人、タレント、評論家、あるいは料理人のやたらと食品・調味料の名前に「お」をつけ、醤油を加えるだけといった指示語にも「加えて頂きます」と「頂ます」をやたらと多用する料理家にしても、さらにテレビ局のアナウンサー、解説者にしても尊敬語や丁寧語を含めた敬語を自己人格表現として使うことで、テレビの向側のファンを大事しています、視聴者を大事にしています、そういった人間ですと訴えるメッセージにもしているはずである

 当然日本の敬語は日本語としてあるものであるから、敬語は全体としての日本人の、あるいは日本民族の人格表現の役目を担うこととなり、敬語によって表すことができる謙譲や善良さと日本人性、あるいは民族性が響き合う関係となる。このことを意図的に利用して、持ち合わせてもいないのに自分がさも謙譲さや善良さを持ち合わせた人間であるかのように装わせるために敬語を多用するケースが生じる。そういった政治家、官僚、芸能人、コメンテーター、その他その他、如何に多いことか。

 このような日本人性、あるいは民族性を善なるものとして表現する敬語と日本民族の優秀性の表現となっている天皇の存在性とは関連し合った価値関係にあると言える。

 だが、いくら日本人が敬語を多用して、自らの謙譲さ・善良さ、いわば善なる存在であることを表現しようとしても、政界や官界、業界といったより大きな責任と義務を負う社会の上層部に於ける全体的な社会的姿が不正・犯罪・スキャンダル・自己利益・ゴマカシ・事勿れ等々にまみれていたなら、それが中央だけではなく、地方に於いてもそっくりと受け継ぐ相似形を成していたなら、敬語は中身を偽る過剰包装紙と化し、意味を失う。敬語は上辺を装う飾りとしての価値しか持たせていなかったことになる。

 そして多くが上辺を装う飾りとなっている。敬語が持つ人格性と社会的姿が響き合う関係になく、敬語の人格性が社会的姿に反映されないままなら、敬語は空ろに響かせているだけが正体となる。それとも醜いばかりの社会的姿を補う意味で、せめて表面的な人格性だけでも善を装おうと日本人はせっせと敬語を使っているのだろうか。

 どちらであっても、前日ブログに「逆説すると、2000年の歴史・万世一系・男系天皇等が日本の醜い社会の姿を隠す便利な薬効をもたらしている」とも書いたように、敬語にしても美しいどころか、日本の醜い社会的姿をカモフラージュする薬効を備えさせていることになる。

 日本の社会的姿が美しくなければ、富士山がいくら世界に誇る日本一美しい山であっても、その価値は滑稽な逆説を帯びることになる。富士に近づけば、ポイ捨てされたビン・缶が山と散乱し、不法投棄された産業廃棄物が掻き集めればダンプで何台と放置されているという。それが日本一美しい富士にも投射されている日本の実態的な社会的姿でもあろう。

 安倍晋三の「美しい国」なる言葉も、聞けば聞く程、空ろに響くだけある。お粗末な社会的姿を隠した「美しい」に過ぎず、それが安倍晋三の正体でもあるといずれ現れることになるだろう。


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