再度、超党派協議を考える

2010-07-13 09:47:42 | Weblog

 以前のブログに「超党派協議」について次のようなことを書いた。

 〈いくつかの政党が政策を競い合い、その中から一つの政党が国民の選択を受けて、あるいは国民の選択を受けた一つの政党が中心となって連立を組み、政権を運営する形態の民主主義政治に於いて、「超党派協議」は民主主義政治の形態そのものを否定することにならないだろうか。

 一つの政党として国民の選択を受けることができなかった政党は、あるいは連立相手とされなかった政党は野党として、政権奪取して自らの政治を実現することを役目とする。どういった政治を行うか、どういった政策を推し進めるか、常に掲げ続けて国民の選択を待つ。

 こういった構図を民主主義政治がルールとしているなら、消費税を含めた税制の抜本改革政策にしても、各党がそれぞれにその政策を競い合い、各党とも最善と思える案を打ち出し、国の根幹に関わる重要問題だから、菅首相が6月17日のマニフェスト発表記者会見で、「大きな税制改革を行う場合は予め実施する前に国民のみなさんに信を問うことが本来あるべき道だ」と述べたように衆議院選挙で問うとすることをすべきではないだろうか。

 また、いくら消費税問題を含めた抜本的な税制改革だからと言っても、消費税やその他の税制だけの問題だけではなく、各党それぞれの各政策は、予算算定や予算配分と影響し合う財政及びその規律の問題等と相互に関連し合う。

 いわば同じ消費税率であっても、各党の政策の違いに応じて各予算算定や予算配分に異なる影響を与え、その影響は財政及びその規律の問題等に各党ごとに異なる波及を及ぼす。

 例え消費税で得た財源を社会保障費に使途を限定したとしても、社会保障政策がすべてに亘って完全に一致しているということはないから、社会保障政策のどこにどう使われるかは党ごとに違ってくる。

 だからと言って、社会保障政策を含めてすべての政策を同じにしたら、競い合いはなくなり、すべての党が与党化し、民主主義体制は壊れ意味を失う。

 いわば厳密には、「超党派協議」は各党それぞれの政策の違いを無視することを前提としなければ成り立たない。

 あるいは政策を競い合うという民主主義のルールを無視しなければ成り立たない。

 このことは既に触れた、自民党の谷垣総裁がバラマキ政策となっている民主党の衆院選マニフェストを撤回しない限り応じられないと主張して「超党派協議」に一貫して反対していることが一つの証明となる。 

 年金制度改革でも超党派の議論を呼びかけたが、菅政権は政権党の責任に於いて、年金制度改革であっても、消費税問題であっても、自らの能力で新たな制度を打ち立て、国民に信を問うべきではないだろうか。そうすることで初めて政権党としての責任を果たすことができるはずだ。

 政権党である前に、それぞれの政治思想を持ち、それぞれの政策を持って一つの政党を組んでいる者としての責任放棄とならないだろうか。〉――

 以上のことを説明補強すると、国民の選択を受けて政権を担ったということは、政権を国民から請け負ったということであり、と同時にその政党が掲げる一つ一つの政策の構成と法案化の請負契約が政権を担当した時点で国民との間に生じることになる。その契約遂行機関が内閣に当たる。

 国民から政権を請け負った内閣は請負契約した一つ一つの政策の成果――法案化と施行を政権を請け負った者の責任に於いて形にし、自らの仕事として国民に返す。住宅建設を請け負った住宅会社が住宅を建設して顧客に住まいに造り替えて返すようにである。顧客の満足度を得るには住宅の仕上がり次第となるように、法案化された政策が国民に対して個人の生活や社会生活に満足を与えるかどうかにかかっている。

 もしここで国民一人ひとりの満足度を上げようと、例え国家経営の骨格を成す税制や社会保障の政策に限ったとしても、超党派協議機関を設けてそれらの政策を統一したとしたら、すべての国民に格差のない満足度を与えることができるだろうか。

 例え税制や社会保障の政策に限った政策であっても、各階層によって利害は異なる。貧乏人は金持ちからたくさん税金を取るべきだと主張するだろうし、金持は日々血の滲むような努力の結果の財産であって、金持から多くの税金を取るのはその努力を評価しない遣り方だと主張するだろう。

 それぞれに異なる利害を持つ利害集団の異なるそれぞれの利害を満足させる政策など可能だろうか。

 しかし弱者優先とすれば、高所得層の利害とぶつかることになる。すべての国民に亘る平等な利害の満足は存在しない。

 また、既に触れているように税制政策でも社会保障政策でも、すべての党がすべてに亘って一致するわけではない。これらの政策を一致させたなら、競い合いがなくなるのではないかと書いたが、それ以前の問題として、協議をスムーズに纏めるために超党派協議に加わったすべての政党のそれぞれに異なる政策箇所を盛り込む恐れが生じないだろうか。

 各政党とも自分の党が他の党と違って主張する政策箇所を盛り込むことによって、そこに自らの政党の存在価値を知らしめ、存在証明の拠り所とするだろうからである。
 
 いわば、各政党ともそれぞれの党の独自性を政策の中で示そうとし、その方の競い合いが生じる。

 独自性を示す代償もなく、あるいは得点稼ぎもなかった場合、超党派協議に加わるだろうか。

 超党派協議に加わる各政党の主張をそれぞれに取り入れる点に於いて、最終的な政策が妥協の産物となって、すべての政党に対して総花的(関係者すべてに利益・恩恵を与える遣り方)となるだけではなく、各政党はそれぞれに利害を代弁する階層、集団を、一部分重なることはあっても、完全に重なるわけではなく、一般的には異にしていることによって、すべての利害階層、利害集団に対しても総花的となり、却って財政の規律を破るバラマキを招かないだろうか。

 バラマキを抑えようとすると、政策自体に無理が生じる。

 勿論、政権党がひとり主導する政策の構成と法案化の場合は、その党が利害を代弁する階層、集団に主として利益が及ぶ政策となりがちとなるが、財源に限度があって、それぞれに異なる利害をすべて平等に満たすことができない以上、満たそうとすれば総花的となり、バラマキを招くから、必要悪として政権党に任せる、あるいは政権党の責任に於いて、自らの主導ですべての政策を執り行うことにすべきではないだろうか。

 政策の中身を以てして競い合い、結果に対して国民の審判を受ける方法こそが、民主主義の政治制度により適うことになるはずである。そうでなければ、政策を訴えて政権を請け負った意味を失う。

 民主党政権発足時から国民新党や社民党との連立によって、政権を任せて欲しいと訴えた責任を一部分失うことになっていたが、外国人地方参政権や夫婦別姓問題が前に進まないことがこのことを証明しているが、今回参院選で与党が大敗、過半数を失ったことで、一部野党の政策を取り入れて政権を運営しなければならない困難に直面することとなり、再度政権党としての責任を一部失うことになるが、この上超党派協議で政策を妥協の産物化した場合、政権党としての意味を益々失うように思える。

 私自身が20年以上も前から政権交代が必要だと思ったのは、一党独裁だと政策がマンネリ化し停滞する、最悪権力の独占によって、国家の富が一部階層・集団に偏る恐れを防ぐために政治の市場に競争原理を持ち込むことを願ったからである。競争原理を働かすことによって、政策の競い合いが生じ、それぞれの政治家が政策立案に創造的に能力を伸ばしていくことを期待した。

 まだまだずうっと先の話のようである。


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