薬害肝炎/「命の生き剥がし」は日本の歴史・文化・伝統

2007-10-28 09:40:01 | Weblog

 血液製剤フィブリノゲンを投与されてC型肝炎に感染した患者名や医療機関名等の資料は製薬会社から報告がなく、存在しないとしていながら、実名、イニシャル、医療機関名、医師名といった患者特定につながる418人分の情報を02年の時点で既に製薬会社から報告を受けていた厚労省がその資料が倉庫から見つかったと5年後の現在に至って公表した。

 厚労省からの天下りが絡んだ製薬会社の利益擁護と自身の薬事政策の不備・怠慢等が絡んだ自己保身が隠蔽を余儀なくさせたが、隠しきれずに公表に及んだといったところだろう。

 このような最初に隠蔽ありの体質は自己保身とそのための企業擁護を自己利益確保の優先値していることから生じている構図がもたらしているに違いない。そのことが例え生きている状態で患者の命を狭める、あるいは奪い取る、「命の生き剥がし」につながる重大な不利益へ撥ね返ろうとお構いなしなのは、薬害エイズやチッソ水俣病、アスベスト対策で既に見てきている国の姿である。

 日本経済のバブル崩壊後、どの金融機関も自己資本保全を絶対優先として借金取立ての冷酷な「貸し剥がし」を行ったが、その冷酷さとは比べものにならない冷酷無惨な「命の引き剥がし」である。

 元々感染力が弱い上に有効な治療薬が開発されて完治する病気となり、1950年代には在宅治療が世界の主流といった状況を無視して1996年まで強制隔離政策を続けてきた日本のハンセン病対策にしても患者の命を狭めたままで平然としていられる「命の生き剥がし」に等しい国の政策と言える。

 あるいは1961年に殆どの国が使用禁止としたのに対してその後9ヶ月も禁止措置を取らずに先天的障害児を多発させることになったサリドマイド薬害にしても、1935年に副作用報告がありながら、それを放置して製薬会社の生産・販売を許可し続け、運動障害や視覚障害等の被害を拡大させることとなったキノホルム(胃腸薬)を薬害原因としたスモン病にしても、患者に「命の生き剥がし」を強いた国の政策に入る。

 【スモン】「〔Sbacute myelo-optico-neuropathy(亜急性脊髄視神経症)の頭文字をとったもの。〕下痢の治療剤キノホルムが原因と考えられている神経障害。難病に指定されている。スモン病。」(『大辞林』三省堂)

 以前ブ当ログその他に書いたことだが、このような「命の生き剥がし」は権威主義を本質的構造とした国民の生命・福祉よりも国家を優先させる国家主義を発症原因としているゆえに当然のこととして日本の歴史・文化・伝統としている「命の生き剥がし」である。

 これは国家の位置にある日本人がすることとは限らない。権威主義が絡んでいるゆえに自己を絶対的上位に置いた場合、どのような立場にいようとも下位の者に対して発症させかねない衝動であろう。

 大正12年(1923)の関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺は自己の人種的地位を絶対的上位に置いていたからこそできた国民も加わった朝鮮人・中国人に対する残虐な「命の生き剥がし」であり、一般国民だろうと関係なく発症させることを証拠立てている。

 戦争中の日本軍兵士のアジア人に対する虐殺・虐待も自己の上位性を力とした「命の引き剥がし」であったろう。

 ソ連の満州侵攻時、撤退を余儀なくされた日本の関東軍は開拓民を置き去りにしたまま撤退、開拓民に多大な犠牲を生じせしめたことと、そのことが原因となった中国残留孤児問題も軍の自己保身優先からの国民を犠牲とした国民に対する「命の生き剥がし」行為と言える。

 天皇の軍隊・関東軍は開拓民に対する「命の生き剥がし」だけではなく、ソ連軍に捕らえられた日本兵捕虜の即時送還を国際法に基づいて求めることはせずに、逆に<帰国までの間「極力貴軍の経営に協力する如く御使い願い度いと思います」>(93、7.6『朝日』≪旧満州捕虜のシベリア使役 関東軍司令部から申し出≫と「役務賠償」の生贄に利用する目的の「命の生き剥がし」を将兵に対して行っている。そう申し出たご褒美に自身の身の安全を保証してもらう自己保身からのゴマすりだったに違いない。

 (【役務賠償】「えきむばいしょう・労力を提供することによって相手国に与えた損害を賠償すること」(『大辞林』三省堂)

 天皇の大日本帝国軍隊は各戦地でも撤退時に足手まといになるからといった理由で民間人保護を放棄し、見殺しにする「生き剥がし」を平然とやらかしている。沖縄での軍の命令による嬰児殺し、フィリッピン中部セブ島での児童殺害等々の「命の生き剥がし」である。

 ≪比で敗走中の旧日本軍 日本人の子21人殺害≫(1993.8.14『朝日』)

 <【マニラ13日=共同】第二次大戦末期の1945年にフィリッピン中部セブ島で、旧日本軍部隊が敗走中、同行していた日本の民間人の子ども少なくとも21人を足手まといになるとして虐殺したことが明らかになった。フィリッピン国立公文書館に保存されていた太平洋米軍司令部戦争犯罪局による終戦直後の調査記録による。
 記録によると、虐殺を行ったのは南方軍直属の野戦貨物廠(しょう)の部隊。虐殺は4月15日ごろにセブ市に近いティエンサンと5月26日ごろその北方の山間部で二度にわたって行われた。
 一回目は10歳以下の子ども11人が対象となり兵士が野営近くの洞穴に子どもだけを集め、毒物を混ぜたミルクを飲ませて殺し、遺体を付近に埋めた。二回目は対象を13歳以下に引き上げ、さらに10人以上を毒物と銃剣によって殺した。部隊司令官らは「子どもたちに泣き声を上げられたりすると敵に所在地を知られるため」などと殺害理由について供述している。
 犠牲者の親は、戦前に九州や沖縄などからセブ島や南パラオ諸島に移り住み、当時セブ市に集まっていた人たち。長女ら子ども3人を殺された福岡県出身の手島初子さん(当時35)は米軍の調べに対し「子どもを殺せとの命令に、とっさに子どもを隠そうとしたが間に合わなかった」などと証言。他の親たちも「(指揮官を)殺してほしい」などの思いを伝えている。>

 幼児・子どもに対する日本軍のこのような「命の引き剥がし」の発覚は氷山の一角に過ぎないに違いない。

 日本軍は大本営の作戦を受けて硫黄島や沖縄の戦闘、その他の戦闘でも援軍を送らない、物資を補給しないなどの兵士を見殺し・犬死させる「命の生き剥がし」を行っている。沖縄の戦闘では嬰児だけではなく住民に集団自決を強制する「命の生き剥がし」を行い、自分たちは助かって戦後も生き永らえた者もいるだろう。

 こう見てくると、国家による国民に対する「命の生き剥がし」が如何に日本国家の歴史・伝統・文化となっている「命の生き剥がし」であるかが分かる。国技・お家芸としている「生き剥がし」だと表現することもできる。

 権威主義が絡んでいるゆえに自己を絶対的上位に置いた場合、下位の者に対して発症させやすい衝動だと既に述べたが、日本人が基本的に権威主義を思考様式・行動様式としている以上、立場を変えれば、日本人の誰もが主役を演じかねない「命の生き剥がし」であって、そのことに留意しなければならない。上の命令だから断れないと、国民のことは考えることができずに資料の一部を隠す、あるいは数値をほんの少し改竄する追従(ついじゅう)を行っただけでも、そのことが「命の引き剥がし」の共犯行為とならない保証はない。

 立場を変えれば誰でもやることだからと、政治家・官僚の「命の引き剥がし」犯罪が相対化されて罪が軽くなるわけのものではない。国の力を背景とした「命の引き剥がし」犯罪なのである。今後同じことの繰返しを阻止するためにも重大な犯罪と位置づけ、重い罰則で処理しなければならない。


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