大相撲土俵女人禁制:大相撲は五穀豊穣を願う神事が起源なら、土俵の主役は男共ではなく、女性たちこそ

2018-04-30 11:31:25 | 政治
 安倍晋三:従軍慰安婦強制連行否定2007年3月16日閣議決定

「政府が発見した資料の中には、軍や官憲がいわゆる強制連行を
直接示すような記述も見当たらなかった」
とする
“政府発見資料”とは如何なる資料か、公表すべき

 大相撲の土俵女人禁制が議論を巻き起こしている。土俵上に女性を上がらせるべきかどうか。2018年4月28日付「NHK NEWS WEB」記事が、日本相撲協会が「女人禁制」についてアンケート調査等を実施、その是非についていなのだろう、検討を行っていくことになったと伝えている。

 相撲協会としては大相撲の伝統を楯に女性を土俵から遠ざけておきたいはずだ。このような願望はこの記事でも、〈小学生の相撲大会「わんぱく相撲」では、女子児童は地方予選を勝ち抜いても国技館での決勝大会に出場できないことになっている。〉と触れているところに現れている。

 小学生であっても、“女”と名がつく以上、土俵から遠ざける。この徹底ぶりは4月8日の静岡市開催の大相撲巡業で土俵上で力士が子どもに稽古をつける「ちびっこ相撲」に参加予定の女子児童が直前に日本相撲協会からの要請で参加を断ったことでも示している。

 勿論、土俵が女人禁制を伝統としているからだろう。長野県伊那市と東御市で行われた大相撲春巡業の「ちびっこ相撲」でも日本相撲協会からの事前の要請で女の子が参加できなくなったと言う。

 一般的には“女人”とは成人女性を指すはずだが、以前当ブログで2018年4月5日付「The Huffington Post」記事が女人禁制について、〈神道では血を出すことは「けがれ」とされる。そのため、生理があることから女性を「血」と結び付け、宗教的な禁忌ととらえるようになったとされる。〉と触れている点を取り上げたが、ちびっ子相撲参加の女子児童がまだ初潮が訪れていなければ、女性は誰でも生理が訪れるという固定観念のもと、将来の生理を見越して女人禁制扱いしていることになる。

 なかなかご立派。

 生理を女性の存在そのものが神聖か否かの判断基準の一つとする精神とはどのような精神なのだろうか。あるいは場所に応じたケースバイケースで神聖か否かを決めることができるのだろうか。

 大相撲の土俵上では神聖ではないと判断づけることが許されるとしたら、許される側の大相撲関係者はこの上なく御大層な人間の集団ということになる。

 女性の生理も、男の精液も、それそのものが穢れているわけではない。男であれ、女であれ、人間の行為そのものが倫理の基準となる。


 上記「NHK NEWS WEB」記事は女性を土俵に上げない大相撲側の理由を三っつ挙げている。

 「大相撲は五穀豊穣を願う神事を起源」
 「大相撲の伝統文化を守りたい」
 「大相撲の土俵は男が上がる神聖な戦いの場、鍛錬の場」

 八角理事長「土俵は男が必死に戦う場であるという約束事は力士たちにとって当たり前のことになっており、女性が土俵に上がることはないという習慣が受け継がれてきた」

 習慣=伝統としている。「大相撲の土俵は男が上がる神聖な戦いの場、鍛錬の場」としているが、立合いで蹲踞に入る間を相手よりも長く取ったり、蹲踞に入ってから立ち上がる間を相手よりも遅らせたりりして相手を焦らす。あるいは片手を突いてから、もう片手を突く時間を相手よりもかけることで立ち上がる瞬間を相手に気取らせないようにし、逆に相手の隙きを突いていきなり突っかけて勝負を有利に運ぼうとする。

 そういった取組みが少なくない。いや、15日間、多くの取組みで見ることになる。それは駆引きだろうが、駆引きであることによって「神聖な戦い」、鍛錬の場には到底見えなくなるし、そのような価値づけはとても理解できないことになる。見えてくる景色は勝ちにだけ拘った単なる格闘技である。

 観客が拍手を送るのは優れた技で相手を倒したときであろう。だが、そういった取組みは少ない。要するに土俵を「神聖な戦いの場、鍛錬の場」とするには余りにも実態と掛け離れている。

 女人禁制の一つの理由として「大相撲は五穀豊穣を願う神事を起源」としてからだとしている。起源は神事であっても、遠い昔のことで、現在の大相撲が神事として行なわれているわけではない。高い入場料を取り、公益法人という身分によって国からの補助金が毎年約2000万円程度入り、同じく公益法人であることから相撲事業は非課税、国庫補助金や寄付金収入も非課税だそうで、そうして得たカネで協会理事長や理事、関取りまでが高い給料を手にしていて、神事とは似ても似つかない姿へと様変わりしている。

 要するに中身の実態が大相撲側の主張どおりにはなっていないにも関わらず、単に神事が起源だ、女人禁制は伝統だ、土俵は「神聖な戦いの場、鍛錬の場」だと、金メッキの箔をベタベタと外側からに張っているに過ぎない。

 五穀豊穣は男だけでは担うことはできない。 「コトバンク」の「早乙女」の項に次のような下りがある。文飾は当方。

 〈早乙女

稲の苗を水田に植えつける女性をいう。古くは中世の和歌にみえているが,植女 (うえめ) とも呼んだ。日本の古くからの稲作は,稲の生育を保証する田の神信仰と密接な関係があった。特に田植えには特定の水田に祭場を設けて田の神を迎え,その前で作業を行うことから,一種の神聖な祭儀であったといえる。田植えに女性が重要な役割をもつことが多いのは,稲の豊作が女性の霊的な力によってもたらされるという観念があったためである。

各地の神社などの田植神事,田遊び神事などからも,女性の生殖力が稲に霊的な影響を与えるという観念要素を引出すことができる (→田植踊 ) 。現在では田植えに働く女性一般を早乙女と呼ぶが,古くは特定の女性に限定されていたことが推測される。

 美しいいでたちの早乙女は田植えの日の象徴であるが,その背景には祭儀の奉仕者という宗教的役割があった。田植えの期間における早乙女が優遇され解放される習俗は多く,労働賃金のうえでも男性と同額という地方があり,早乙女が集団で他地方へ田植えの出稼ぎに行く地方もある。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典〉――

 今も左程変わらないかもしれないが、昔は田植えには女性が大きな力を担っていた。子どもを産むという「女性の生殖力」が稲の生育に霊的な力を宿させる。その神秘性を以ってして五穀豊穣を生み出す仮託へと繋がっていった。

 だとしたら、「五穀豊穣を願う神事」が相撲に姿を変えた主役は男ではなく、女性こそが引き受けるべき主たる役割ということになる。当然、大相撲の土俵にしても、女性を主役としなければならない。

 つまり土俵上で女性の市長等が挨拶を行っている途中で急病で倒れた場合、観客の中にいた男性医師が土俵に駆け上がって救命措置を施そうとしたなら、女性行司が「男性は土俵から降りてください。土俵から降りてください」とアナウンスするようにならなければならない。

 だが、実態を無視して、逆に主役たる女性を土俵上から排除し、主役の資格のない男共が伝統を錦の御旗にして土俵を我が物顔に差配している。

 このような逆転現象は男尊女卑の差別意識によって男の手のひらの中の女性という扱いになっていることから生じている、その存在の無視ということでなければならない。

 「女性の生殖力」を男尊女卑から離れて対等に扱い、敬意を表する伝統を有していたなら、そのような伝統の前に“大相撲五穀豊穣神事起源説”を振り回して土俵上から女性を排除する女人禁制はそもそもからして合理性を失う。

 所詮、男共を上に置いて、女性を下に置く男女差別が、女性差別ではないとどう否定しようが、女人禁制に現在も賞味期限を与えているに過ぎない。

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