大相撲土俵女人禁制:女は穢れているから土俵に上がるなと言える程、男は何様な生き物では断じてない

2018-04-09 12:19:27 | 政治

安倍晋三:従軍慰安婦強制連行否定2007年3月16日閣議決定


「政府が発見した資料の中には、軍や官憲がいわゆる強制連行を
直接示すような記述も見当たらなかった」
とする
“政府発見資料”とは如何なる資料か、公表すべき

 

 【謝罪】

 昨日のブログで文字が乱れていました。投稿後確認したときは乱れていなかったはずですが、午後4時過ぎに気がついて、直しておきました。謝罪します。

 2018年4月8日にフジテレビ「報道プライムサンデー」が現在問題となっている「大相撲土俵女人禁制」を取り上げていた。番組側が奥寺健アナ、佐々木恭子アナ、そしてハバード出身、タレントのパックン、ゲストとして不正寄付疑惑で窮地に立ち、野党から辞任を求められたが、辛うじて踏みとどまり内閣改造に伴って大臣を交代をさせられた元文科相の下村博文と評論家の宮崎哲弥、ジャーナリストの有本香が歯に食べ滓が残ってなかなか取れないような不愉快にして釈然としない主張を展開した。

 要するに「女人禁制」なる大相撲の伝統の正当性・非正当性、是非についての本質に切り込む議論は正直のところ、見受けることはできなかった。

 フジテレビ「報道プライムサンデー」(2018年4月8日)

 アナウンサーの奥寺健がかつて富士登山は女人禁制だった、沖ノ島は女人禁制だったが、世界遺産の登録以後は男性も立入禁止になったこと、高校野球の甲子園では女子マネージャーがグランドに出ることは禁止されていたこと、寿司職人には女性は向いていないとされてきたこと、女性入場禁止のゴルフ場等々、日本の女人禁制事情を解説。

 沖ノ島についてネットで調べてみると、島全体が宗像大社の神領となっていて、一般人の立入りが許されるのは男性だけだったが、2017年7月9日に世界遺産に登録されて以後、男性の立ち入りも禁止されるようになったといったことが紹介してあった。

 ここでパックンがアメリカの女人禁制事情を聞かれて、2012年に2人の女性会員を迎え入れたオーガスターゴルフクラブなど、5箇所ぐらいあると発言。

 パックン「(日本とアメリカが女人禁制にしている場所・組織とでは)何が違うかと言うと、アメリカは(富士山みたいに)みんなの山ではないし、大相撲みたいに公益財団法人ではない。税金のギブを受けている団体は国民全体のものであるというふうにアメリカ人全員が、多分、思んですよ。

 大相撲みたいな通称国技?、自称国技のスポーツがこういうことになっているのは、殆んどのアメリカ人は理解できない」

 佐々木恭子アナ「この女人禁制、女は土俵に上がるなという伝統は守っていくべきでしょうか」

 下村博文「そもそもね、アメリカと違うのやっぱり日本は、それだけの歴史の長さがある中で、伝統文化と宗教宗派的な、そういう影響というのは他の国以上に日本は守られてきた部分があると思うんですね、日本は。

 まあ、大相撲もそういう、どちらかと言うと、神道の影響って凄くありますから。ただ今回、多くの人たちが見ていたのにですね、これは伝統文化とか言うよりは、人命の方が重要だろうということで、逆にあの瞬間的に女性が土俵に上がってですね、救助したっていうのは、逆に国民から見たら凄いなと、女性の瞬発的な判断能力とかね、それを行司が止めること自体、おかしんじゃないのと殆どの人たちが思ったのではないかと思うんですね。

 ですから、何が何でも女人禁制というよりは、やっぱりその、色んな例外の中でですね、対処していくことが必要だろうなっていうのは思いますけどね」

 佐々木恭子アナ「今、例えば女性、男性だけじゃなく、性ってとても多様なんだってことが認識されつつある時代ですよね。LGBTの方も色々と声を上げられるようなって。

 その中でこの女人禁制っていうものが今の時代に通じているのかどうかってことに関しては、如何お思いですか」

 下村博文「今の時代には即してはいないでしょう。いないけど、一方でその伝統文化とか歴史とかね、それから宗教・宗派の中で、それずっと守ってたところについてですね、それをやめろということは、言えないんじゃないかというふうに思うんですね。

 ただこの土俵については、私も、あの、官房副長官をしていたときがありましたね。5回ぐらい、総理の優勝杯を代わりに優勝力士にお渡ししたことがあったんですが、かつて森山真弓さんという女性がね、官房長官のときに上がれなかったことがあったんですね」

 奥寺健「太田房江さんもありました」

 下村博文「太田房江さんが大阪府の知事なんでね。これからね、政治の世界も女性がどんどん出てきますよね。そのときに例えば3割ぐらい女性なら、国によって半分女性が、あのー、政治家と。そのときに日本だってどんどん増えてきたときにね、女性だから、例えば総理大臣が女性になったときとか、それは上がれないのかっていうのはちょっと如何なものかということはあるでしょうし、そもそも調べてみたら、江戸時代は女性相撲ってものがあったですね。

 ですから、伝統文化といっても、お相撲の場合は昔から、その土俵に女性が上がれないっていうことではなくて、ある意味では明治以降の話ですから、そのー、最終的には相撲協会が判断されることでしょうけども、例えば表彰のときとかね、挨拶のときも女性が上がれないってのは、ちょっと国民感情として如何なものかとは、率直に言って思いますよね」

 佐々木恭子アナ「有本さん、今のお話、例外は作ってもいいじゃないかというお話ですが、伝統を守るべきなのか、改革的がいいのか、どちらなのでしょうか」

 有本香「伝統っていうのも、一体どっから伝統かっていうことに尽きると思うんですよね。ですから、伝統ってのは変えてはいけないっていうことではなくて、まあ、状況により変えていく。

 ただその変え方としてですね、まあ、漸進的って言うんでしょうか、つまり緩やかに段階を踏んでも、みんなのある程度合意、理解がありながら変わっていくっていうのが、まあ、いい形だと思うんです。

 ただ、この問題に関してはポイントは二つしかなくてですね、これ緊急事態じゃないじゃないですか。緊急事態にたまたま女性が、看護師である女性がパッと動いたっていうことがありますよね。

 だけどそもそも、相撲協会、あるいはこの主催側がですね、こういう状況を想定していなかったのかっていうことなんですよ。相撲っていうのは土俵の上で色んなことが起こり得るわけですから、その救命措置をですね、あの、まあ、心臓マッサージなんかができるような人を待機させておくというようなことぐくらいのことは常にやっておけ、当たり前だと思っている」

 奥寺健「救命措置が必要な場合ありますからね」

 有本香「だから、これで女性、男性という問題になること自体がちょっとイベントとしておかしいというふうに私は思ってるんですね。で、それをですから、男女の問題以前の問題なんです。

 もう一つは、その、さっきパックンが仰ったようにその公益財団であるということ。この中で例えば公益法人でなければ、今の人気になっても、何であっても、それは人気があってもなくても、まあ、お好きにどうぞっていう世界だけども、そうじゃないだろうというところに対してどう答えていくかっていうことに尽きるというふうに思んですよね。

 ただ一方ではですよ、今回のことがあったからと言って、緊急事態でちょっとガタガタがあったからと言って、それに乗じて、あんまり政治的な動きにしていくというのも、一方でちょっと抵抗あるかな。

 例えばここで急にね、女性の政治家が『だったら、私も乗せてよ』みたいな感じになってきて、あんまり政治的な話になっていくのも、ちょっと理解を得られにくいという気が――』、
 
 パックン「だけど、これをきっかけに大事な議論が今のうちに始まればいいんじゃないですか」

 有本香「そうですね。ですから落ち着いた議論をやっぱり、これをキッカケにするべきだと思う」

 パックン「女性総理大臣が登場したら、。その瞬間から考えるのは遅いんじゃないですか」

 有本香「それはそうですね」

 宮崎哲弥「それはそれで何か性急な感じがするし。如何にも取ってつけたようでもあるし」

 佐々木恭子アナ「宮崎さんはどうお考えですか」

 宮崎哲弥「私は下村さんや有本さんが仰ったように果たしてどこからの伝統なのかと言うことがあると思います。一番最初ね。あのー、1957年の土俵に女性が上がっている、そういう写真がありましたよね。

 あれは女相撲でずっと活躍された方が引退なされるときに地方巡業、大相撲の地方巡業に合わせて土俵に上げようというふうに当時の親方がお考えなって上がったものなんですよ。

 そういうことがあったということを考えると、特に下村さんがおっしゃったように戦前は、室町時代とかは江戸地時代にも女相撲はあった。戦前も山形県を中心に女相撲っていう伝統は引き継がれてしてきた。

 古くは日本書紀の雄略天皇の前で女相撲をやったという、そういう歴史もありますから、ひょっとすると近代に入って、まあ、女性同士が裸で取っ組み合いをしているっていうのは近代社会としておかしいのではないかと、極めて近代的な考え方でこの伝統が途切れたのかもしれない。

 いうようなことも含めて、歴史的・民俗学的・歴史録的な考察を含めてこれからどうやっていくかということを考えるいい機会だと思いますよ」

 パックン「女人禁制を解くことから逆に伝統を復帰させる」

 宮崎哲弥「可能性もあるということ」

 佐々木恭子アナ「考えてみると、どこからが伝統かっていうことが、まあ、分からないまま、私たちも何か――」

 宮崎哲弥「近代になってつくられた伝統って、一杯あるんですよ」

 佐々木恭子アナ「それが慣れて受け入れているというところがあるわけですけども――」

 下村博文「私ね、青年会議所出身でわんぱく相撲でやってたんですよ。わんぱく相撲っていうのは小学生がやるんですけども、女の子も参加してるんですよ。ところがいざ決勝では、国技館なんですね。

 だからその、地方でトップまでいっても、決勝戦には国技館でやるときは女の子は出られないんですよ。それって可哀相だよね――」

 佐々木恭子アナ「それって説明できますか」

 パックン「今回の事件も、あの頃ね、どうなのって聞かれたら、説明できなかったですね」

 奥寺健による世界経済フォーラムが去年公表した「男女格差ランキング」によると、日本は144か国中114位だったという解説。

 下村博文「(無邪気に笑いながら)いや、これやっぱり低すぎますよね。まあ、あの、世界幸福度調査でも低くて、世界で50番目ぐらいなんすね。少なくても(「男女格差ランキング」は)50番目ぐらいにならないと、やっぱ国際社会の中でちょっと恥ずかしいなって感じしますよね。

 特にこれから女性活躍の時代を安倍政権としても作っていこうと。男女共同参画ていうのはちゃんと政府としてもあるわけですから、それを上げるために、どんなふうなランキング、色々な中でもトータル的に114位でしょうけど、これ一つの指標に政府としても国としてもしていくべきだと思いますね、もっと上げるように」

 佐々木恭子アナ「これって政府とか社会の仕組みって勿論あるんですけれども、この女人禁制じゃないですか。何かこうい女性の意識の潜在意識の中にも入ってはいけない、言えない意識みたいなところがあるようにも思うんですけど、有本さん、その辺り如何ですか」

 有本香「それは私は実感としてはね、感じたことはないし、そこで女性が不利な分野ってどうしてもありますよね。あの、まあ腕力だとか体力の点で不利だって分野はあると思います。

 ただ、やっぱり。この指標、このランキング自体がですね、どこまで信頼性があるんだと、残念ながら私は思っていて、北欧の国々って大体共働きで、男女の先ず収入が対等であるっていう世界になってるんですよ。

 例えば4位のルワンダいうのは、ここは完全なクオータ制ってものですよね。ここはご存知のように内戦が長かったもんで、男性が大分亡くなってしまった。女性が国造りしてかなきゃいけないという中で憲法で非常に厳しく規制をやっているということがあるから、日本なんかに比べれば、遥かに女性の国会議員の数が多いですよね。

 日本は、やっぱり女性の国会議員の数は確かに少ないですね。今多分、最新の選挙の後でも10%ちょっとですよね、衆議院でも。これやっぱり少ないと思うけれど、じゃあ、それを他の国々のようにですね、定員制にしてしまうのが男女、要するに均等にする制度に作ってしまうのがいいかどうかというのは、これはやっぱりちょっと日本人の中には、若干抵抗感があると」

 パックン「クオータ制は確かに問題はありますよ。それが不平等に繋がるという考え方もありますが、例えば社会の女性進出を掲げている党が、よし、次の選挙で立候補する皆さん、候補の4割を女性にします。自発的にやればいいんじゃないかと思います」

 下村博文「国会の中で、あのー、日本の国会議員をクオータ制にしろというふうな議連もあるんですね。自民党の中でも大分議論がありました。ただおっしゃる通りですね、その男女比を全く、そのフィフティフィフティにすることがいいとは思えない。

 それ確かに女性は男性よりもそういう目に見えないガラスの壁みたいのはやっぱりあるんですよね。ですから、優秀な女性がやっぱり政治に入っていくのは、ハンディキャップがあるのは事実ですね」

 佐々木恭子アナ「どういうところがハンディキャップと感じざるを得ないでしょうか」

 下村博文「結構な意識としてもまだ残ってると思いますよ。私は子供の頃でもね、やっぱ女には負けたくないよみたいなところがね」

 佐々木恭子アナ「宮崎さんありましたか」

 宮崎哲弥「私は女性に負けっ放しで、今や、そういう意識は殆どないですけど」

 下村博文「子供の頃あった?それがどんどん亡くなってきた、私自身は。やっぱり日本の、そういう意味では変化ってのはあるでしょうけども、10%はね、国会議員は女性の方は少ないと思いますよ。

 もっとね、それが50・50というのはいいと思わないけど、女性がもっと増えた方が、確かに多様性の中で、色んな視点の中でね、今まで男性社会の中で気がつかなかった、あるいは目に見えない部分で出しゃばって排除されるという、そういうところに視点をね、女性の観点から光を当てるという意味では、もっとね、女性のね、国会議員ばかりじゃありません――」

 宮崎哲弥「どうやったら増やせると思いますか」

 下村博文「でもね、社会変化でね、少しずつ増えてきていますよね。ただもうちょっと男性の立場から見ると、女性のそんなハンディキャップをね、無くすためにどうしたらいいかというと、これを無くしたらすぐ女性が増えるということじゃなくて、ある意味の社会的トータル的な部分があると思うんですけども」

 有本香「ただね、あのランキングね、ちょっと当てにならないんじゃないかと私申し上げたんですけども、もう一つは企業で役員になるのに
やっぱり勤続年数というのがある程度の評価の一つになる。そこでやっぱり日本の女性がどうしても途中で出産などを経たときに、やっぱ勤務を中断しなきゃなならないということが起きてくるときにこういうことは制度でカバーできると思うんですよ。

 それ以外の考え方としては、さっき仰ったように認識の中にもっとあるんじゃないかという、例えば今もですね、大学生の女性が、こう聞いてみると、何になりたい、どんな仕事をしたいって聞くと、『仕事するよりも専業主婦になりたい』

 高等教育を受けてても日本の場合は専業主婦になって幸せになりたいっていう、こういう価値観を結構より根強く持ってる人も多いんですよね。そこがやっぱりむしろ、女性の社会進出という点に於いてはマイナスにも働いてるんだけど、これは一概にはやっぱり私は否定できない」

 パックン「専業主婦という選択肢も残す必要はあるんですけども、企業とか政治家にもなれる、そこはやっぱり禁制としない方がいいですよね」

 有本香「広い機会があるっていうのは多分、幸せが大きいっていうのは考えられる』

 宮崎哲弥「生き方の選択肢があって、男女差があってはならないんだよ。そうでしょ。そういう社会と、そういうことを担保する社会が多様性のある社会というわけですよね」

 佐々木恭子アナ「女人禁制ということを通して・・・・・・・」

 時間終了

 下村博文は優勝杯の授与や今回の救命措置等の場合は“大相撲土俵女人禁制”は例外的に解除すべきの例外論者となっている。いわば基本的には女人禁制支持論者の姿を取っている。

 支持の根拠を「日本の歴史の長さ」、「神道の影響」に置いている。但し「日本の歴史の長さ」が大相撲の土俵に於ける女人禁制とどう繋がるのか、「神道の影響」が女人禁制を正当づける具体的な理由については一言も触れていない。

 絶対とすることの正当性を具体的に述べずにただ単に「日本の歴史の長さ」と「神道の影響」を絶対として、それを自ら正当としているに過ぎない。

 有本香は、「伝統っていうのも、一体どっから伝統かっていうことに尽きると思うんですよね」と言って、伝統が長ければ女人禁制は許される、短ければ許されないとする伝統の時代的長短を条件としている。

 対して宮崎哲弥は「近代になってつくられた伝統って、一杯あるんですよ」といって、かつては大相撲と言えども女人禁制ではなかった、近代以降の伝統に過ぎないと、これも伝統の時代的長短を問題にしている。

 あとは“大相撲土俵女人禁制”の正当性・非正当性の本質論を離れて日本では他国と比較して女性国会議員が少ないだとか、クオータ制は反対だ、女性が出産で一定期間リタイアして勤続年数に影響が出ても、制度でカバーできるとか、女子大生は専業主婦志望が多くて、一概には否定できないが、女性の社会進出にはマイナスだとか、わんぱく相撲で地方優勝して全国大会が国技館で開催される場合は土俵に上がれないのは可哀想だとか、男性にはない、女性が置かれている不利な状況に議論の時間を費やしている。

 「伝統」を錦の御旗にした、あるいは水戸黄門の葵の印籠にした女人禁制絶対の別世界としている大相撲に対してこの手のことをいくら論じようとも、何ら痛痒を与えないだろうことに最後まで気づかない。

 大相撲が男の力士だけの世界ではなく、女性の力士も存在しているが、女性の力士採用は「見えないガラスの壁」があって不利な状況に立たされていると言うことなら、女性の社会進出の面からの、あるいは社会的多様性の面からの議論も有用性を持ち得るが、残念ながら、大相撲には女性力士は存在しない。

 下村博文は政治家でありながら、国技観で行なわれるわんぱく相撲の決勝戦は“大相撲土俵女人禁制”の壁に阻まれて女の子が出られないことを「それって可愛そうだよね」と同情して、同情だけで終わらせている。

 何らかの問題提起もしなかった。提起していたなら、そのことについての発言がある。女人禁制例外的許容論者で、実質的には女人禁制支持論者の限界なのだろう。

 「可愛そうだよね」だけで済ませるような程度の低い政治家を呼んで女人禁制を論じさせる。テレビの程度も準じることになる。

 2018年4月5日付「The Huffington Post」記事に女人禁制について、〈神道では血を出すことは「けがれ」とされる。そのため、生理があることから女性を「血」と結び付け、宗教的な禁忌ととらえるようになったとされる。〉と伝えている。

 女性から「生理」を取ったら、女性としての存在性・存在意義を失う。その生理によって人類は人類としてのその命脈を男と共に保つ一方の重要な役割を担っている。

 当然、男と女性は平等でなければならない。どこが穢れた血なのだろうか。妊娠・出産は穢れた行為だと言うのだろか。

 それとも妊娠に結びつかず、生理として外に出た血だけを「穢れている」として宗教的に禁忌の対象としたのだとしたら、ご都合主義に過ぎる。女性は男の道具ではない。生理は女性の存在性・存在意義証明の一つとして位置する。

 過去の歴史に於いて女性を穢れた存在とし、宗教的な禁忌の対象とした時代があったとしても、克服しなければならない時代を迎えているはずだ。特殊な世界と位置づけていつまでも伝統として引きずっていること自体、女性に対する侮辱以外の何ものでもない。

 もし大相撲では土俵は神聖なものだから「女人禁制」だと価値づけるなら、相撲取り、行司、その他土俵に上がることができる賞を渡す政治家、役人、その他その他、いわば男という生き物全般は土俵の神聖さに添う生き物ということになる。どこが神聖さに添うというのか。
 
 親方株の億単位という売り買い。八百長、白星の譲り合い、暴力、しごき、博打等々、「神聖」さのカケラもない人間の多いのが実情ではないか。
どこが「伝統」だと言えるのか。 

 聞いて呆れる。常に「神聖」という価値観・規範で行動していると言えるのだろうか。何を「伝統」として生活していると言えるのだろうか。

 伝統、伝統と騒ぐのは対象とする人間営為全体の権威を歴史の長さや組織の規模、慣習等の形式を優先する考え方から発している。日々の全体的な人間活動の質を重視する立場に立っていたなら、伝統だ何だといった勿体づけの認識は出てこない。今ある存在意義だけを問うことになるだろう。

 相撲協会の面々を見ても、相撲取りの一人ひとりを見ても、それぞれの役割に懸命に取り組んでいたとしても、一個の人間として存在し、活動をしているに過ぎない。

 決して何様ではない。何様ではない人間が伝統を持ち出すことで、自分たちを権威づけ、権威づけることによって勿体づけ、価値を高めようとする。女人禁制という権威づけの裏で女性を排除し、結果的に男である自分たちを何様に位置づける。男であるからこそ、神聖な土俵に上がることができるとばかりに。

 2018年4月6日にツイッターに次のような投稿をした。

 〈土俵は女人禁制が伝統だから、女性は土俵には上がってはいけない。だが、女性と言えども、伝統に関わらず相撲観戦は大歓迎だでは勝手が過ぎる。土俵の女人禁制が伝統なら、客席まで女人禁制を伝統として初めて大相撲に於ける女性の扱いが平等となり、整合性が取れる。〉

 パックンが富士山はかつては女人禁制にしていたとしても、「みんなの山」だから女人禁制としていないことは当然だが、大相撲は公益財団法人で国から金銭的支援を受けているゆえに「国民全体のものである」から、女人禁制にしているのはおかしいと「アメリカ人全員が、多分、思んですよ」といった趣旨のことを男女扱いの平等性から発言していたが、女は穢れているから土俵に上がるなと言える程、男は何様な生き物では断じてない。存在性という点で、あるいは存在意義という点で男と女性に優劣はない。この点について如何なる場所でも平等だという意識をそろそろ確立すべきである。

コメント
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