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閣僚の立場でありながら、「国のために命をなくした」戦死者を祀る参拝は私人の立場で個々に判断の矛盾

2013-10-12 06:47:55 | 政治


 
 入閣後、今年4月の春季例大祭、8月の終戦記念日にそれぞれ靖国参拝している古屋圭司拉致問題担当相兼国家公安委員長が10月17~20日の靖国神社秋季例大祭に合わせて同神社を参拝する方向で調整に入ったという。

 《古屋国家公安委員長、靖国参拝で調整=秋季例大祭に合わせ》時事ドットコム/2013/10/11-13:05)

 10月11日午前閣議後記者会見。

 古屋圭司「適宜適切に判断させてもらう」――

 古屋圭司は熱心な靖国神社信奉者らしい。 

 同10月11日の閣僚の参拝についての官房長官記者会見。

 菅官房長官「どこの国でも、国のために命をなくした方に尊崇の念を持つのは同じだ。閣僚の(靖国神社に)行く、行かないについては、私人の立場の中で個々人が判断するというのが安倍政権の考え方だ。

 (安倍晋三の参拝について)個人的な問題であり、政府の立場でコメントすることは控えたい」――

 安倍晋三の参拝は「個人的な問題であり、政府の立場でコメントすることは控えたい」と言っている。だったら、閣僚の参拝も私人として行うのだから、「個人的な問題であり、政府の立場でコメントすることは控えたい」と同じように言うべきを、「どこの国でも、国のために命をなくした方に尊崇の念を持つのは同じだ」などと国としての(=政府としての)コメントを発する。その矛盾には気づいていない。

 もう一つ、発言により大きな矛盾がある。

 「どこの国でも、国のために命をなくした方に尊崇の念を持つのは同じ」であるなら、閣僚の立場にある以上、それぞれが国を代表する思いで閣僚として参拝すべきを、「国のために命をなくした」にも関わらず、閣僚としては参拝せずに「行く、行かないについては、私人の立場の中で個々人が判断する」という矛盾は、「国のために」という行為の意味を失わせる侮辱に相当するはずだ。

 戦死者が「国のために命をなくした」以上、閣僚であるなら閣僚として対応すべきを私人として対応する矛盾であり、侮辱である。
 
 「国のために命をなくした」国家行為に対して国家行為で応えるべきを、それを私人行為で応える矛盾であり、侮辱である。

 なぜこういった矛盾や侮辱が生じるかというと、わざわざ説明するまでもないことだが、それぞれが総理大臣や閣僚の肩書で参拝したい強い衝動を抱えていながら、そうすることによる国内外の反発を厄介と思っているからであり、そこで私人の肩書というゴマ化しを用いることとなっている。

 「国のために命をなくした」と、その国を正しい国家としていることによってゴマ化しが必要となり、そのゴマ化しが結果として矛盾や侮辱をつくり出すことになっている。

 戦前の日本は天皇と国家を絶対とし、その絶対性によって国民を天皇と国家に対する奉仕者に位置づけていたがために国民は人間としての尊厳を一切認められず、自国兵士すら、その生命(いのち)を虫けらのように扱われることとなった。

 これが「国のために命をなくした」の実態であろう。

 戦死者が、あるいは生還者が命を賭けた対象としての国家の姿を問題とせず、そのような戦前国家を安倍晋三とそれ以下の閣僚たち、その他が正しい国家だとしている。

 9月5日のロシア・サンクトペテルブルクG20サミットの全体会合の直前、安倍晋三は習近平中国国家主席と短時間言葉を交わした。古屋圭司はこの接触を習近平主席の方から近づいて声をかけたとの見立てを行っている。

 《「習主席との立ち話、中国がアプローチと解釈」 古屋氏》(asahi.com/2013年9月6日16時48分)

 古屋圭司「安倍晋三首相は(中国、韓国には)いつもドアを開けている。中国は重要な隣国なので、そういった心構えを常に持っていることは大切だ。だから当然、自然体でそういう(中国の習近平国家主席と立ち話をする)対応をした。むしろ中国の方がアプローチをしてきた、と私は解釈する」――

 会談を拒否している中国側が自分の方からなぜ近づく必要があるのかを考える常識すら持ち合わせていない。

 〈「習主席!」
 9月5日、ロシア・サンクトペテルブルクで開かれた20カ国・地域(G20)首脳会合。各国首脳が待機する貴賓控室で、首相は通訳1人を背に習氏に声を掛けた。〉――

 「MSN産経」記事――《【尖閣国有化1年】日本、硬軟両様も打開策見えず》(2013.9.10 21:33)が、安倍晋三の方から「アプローチ」したと伝えている。

 同じ国家主義者として安倍晋三に強力に心酔するのは理解できるが、閣僚である以上、先ずは合理的な判断能力を身につけることを心がけるべきだろう。そうしたなら、合理的な根拠もなく、心酔していることからの期待感のみで「むしろ中国の方がアプローチをしてきた、と私は解釈する」などといったことを口にすることはないはずだ。

 こういった合理的判断能力を持ち合わせていない手合こそが、「国のために命をなくした方に尊崇の念」を示すなどと言って、かつての国の姿を問題とせずに靖国参拝ができる。

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